脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ミーティングを考えよう

2013-01-21 | Weblog
大阪の虐待自殺事件で、OBが監督を「体罰は愛情の裏返し」などとわけのわからないことを言って擁護しているらしい。
ホントに頭に来る。こういう奴らを仲間と言うのだが、人がひとり死んでいるのに何を言っているのだと思うが、この事件はいささかスケープゴート的な要素があるにしても、こういう事態に仲間が結託して当事者をかばうのだからおそろしいものだ、こういう仲間意識は運動クラブなどの独特の連帯感だと思うのだが、私には理解できない。
人が死んでいるのに人を理不尽なことでなぐるのが愛情だと言うのだから、こういうところに運動クラブのゆがんだ考え方と仲間意識と言うものが表れている。
こういう運動クラブは保守的で、自己主張できないように芽をつまれてしまうので、こういうゆがんだ仲間意識をもっているものである。
それは未だに監督になぐられたことや、先輩にいじめられたことをおもしろおかしく、思い出のように語っているバカを見たらわかることで、何が楽しいのかわからないが、よろこんで監督からしごかれたことや先輩にいじめられたことを話しをして盛り上がるのだが、なぐられたことやいじめられたことがたとえはたから見て理不尽であっても、みんなと共有できれば思い出になるのだからおそろしい、そういうメンタリティを理解できない。アホかと思う、意外とこう言う奴らに限っていじめはいけないなどというが、しかしこいつら自体のメンタリティがいじめを擁護していて、そのことに気付いているのかいないのかわからないが、しかし人権を侵害したいじめでもみんなで共有すればそれは立派な思い出となるからおそろしいものだ。
はっきり言って私は、そういうところにどっぷりつかった運動クラブの人間が一番個性がないと思っているが、パンチをうつとか、ボールをバットにあてるとか、シュートを入れると言う芸をすべてのことよりも最優先にするこういう運動クラブのシステムと言うものは非常にゆがんでいるように思える。

たぶん監督のことを人が死んでいるのにもかかわらず、無神経に新聞などで擁護できるのは、はっきり言って芸のことしか考えさせられないからきちんと正しく物事をとらえて判断できていないからだと思うのだが、私だったらたかだかスポーツごときで、それを失敗したからと言ってなぐられるというのは耐えられないことである。
そしてこういうことをされるのは理不尽なことであるということは、大人であればわかることだ。しかしその世界がせまかったり、芸のことしか考えさせられなくては、こういう当たり前の考え方ができなくなる。
そうならないためにもまわりがもっとディスカッション能力を磨いて、発言力を高めひとりびとりがきちんとした意見を持つことである。
ひとりびとりがきちんとした考え方を持って、公平な発言ができればこういう歪んだ仲間意識を持った集団にはならないだろう。
しかしよく「自分たちは言いたいことを言わせてもらって自由にやらせてもらってまーす」というようなことを言う奴がいるが、そういう奴らはただお父さんに意見を言うような感じで自分のことを聞いてもらっているにすぎないのだが、そういうレヴェルでは意味がない、こいつらの発言は往々にしてもうすでに親と子と言うような関係ができてしまっているような中で言うことであるから、こういうのを自己主張とは言わない、単にお父さんにあまえているだけで、それははっきり言ってフラットな関係ではないからだ。

私は監督中心の家父長制の封建的な考え方がこういう体罰や不公平と言うものを生み出していると思うのだが、今後こういう事件や不正や不公平がおこらないために、クラブ全体をフラットな関係にするために、もっとディスカッションする機会を競技者に与えたらいいと思うのだが、週1回はミーティングか何かで全体でルールや戦略や、その他のことなどについて話し合う機会を持てば、かなり競技者の論理的思考は鍛えられるので、競技者の倫理や質があがると思っている。
しかしミーティングと言ってもまず言葉をおぼえさせなくてはだめだ、監督も積極的に英語や難しい言葉を使いひとりびとりの言葉に幅をもたせること。競技者が社会に出て恥をかかないためにも、そういう指導も今や必要なことである。
おそらくボキャブラリーの少ない奴ばかり集まってミーティングなど持っても、言葉に広がりがなく、毎回同じことしか言えない、サルのようにおたけびをあげて、最終的には言いたいことを言うだけの会に終わってしまう。
中にはこいつはバカじゃないのかと言うようなミーティングをする奴もいる。
全員集めてひとりずつその人間のいいとこわるいとこを言っていきましょうなんて、小学校のおわりの会さながらのミーティングをするようなバカがいるが、こういう程度を疑われるようなことは小学生まで、ここまで行けばちょっと進学校に行っているレヴェルの中学生なら、バカじゃないかと相手にしないと思うのだが、本当にみっともないバカ丸出しだ。
監督はよく考えろなんて日ごろ言っているが、しかしその考える力を養うミーティングが機能していない。ここまではいかなかっても、権威主義だけが目立つようなミーティングであったり、勢いだけのおそまつなミーティングが監督中心と言う名のもとでもたれ、それに対してまわりはごもっともですと言うだけで、そういう体質があるから、いつまでたってもこういうやくざのような家父長制のシステムから脱却できないのだ。
たぶん日本人は意見を言えと言われても意見を言うことができないので、私ならまず最初に講義式で話をして質疑応答をさせて、ディスカッションできるようにしていけばいい、講義の時もなるべく難しい言葉を使って言葉をおぼえさせるようにしたい。さらに学生の目的とは何か言うことをを徹底させて、国語や英語のテストの点も合格ラインを決めておいて、60点以下の人間はクラブをしてもらっては困ると言っておく、差別だという奴もいると思うが、学校は勉強をする場所、運動部だからと単位をあげたり、何も考えさせないでスポーツをさせるよりはいい。
たぶんこういうかたちで競技者の質をあげたらもう少し、運動クラブもかわるのではないかと思う。
少なくとも言葉をおぼえて、ディスカッションして、本当に自己主張できるようになれば、自分たちのルールや戦術でスポーツを楽しむことができる。おしめをかえてくれたわけでもないのにおやじのようにふるまわれて、アメとムチをつかいわけられててなづけられて一致団結する仲間よりも、自己主張できて、自分の選択でスポーツができるほうがいいんじゃないか。
サルのように監督にアメとムチでてなづけられたくなかったら、きちんと自分の言葉を持つべきだ、昔「戦場に架ける橋」のテーマ曲のリズムをそれにあわせて「サル エテコ チンパンジー」とうまくリズムに合わせていたが、まともに自己主張できない監督中心のヒエラルキーにどっぷりつかっている奴らは「犬 エテコ チンパンジー」たとえそいつが、小さい世界で一匹オオカミぶっていても、首には大きな首輪がついている。ジムや自分を評価してくれる小さな世界でほえても、世の中でははっきり言ってチワワがキャンとほえているにしかすぎない。

ついでに言うとクラブがやくざかしないためにも、暴力や暴言は言語道断だが、監督の禁止事項を例えば「チンピラのような恰好はするな」「巻き舌でしゃべるな」「態度を大きく見せるために大きくがにまたで足を開いてすわるな」「子供においとかそこというような物を示すような言葉は使わない」これらのようなことを禁止事項にしたらいい。
さらにこれからの時代はせめてTOEIC300点(990点が満点なのでかなりひくいが)ぐらいの英語力またはその他の言語を話すことができる。と言うようなことを義務付けたらどうか。

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