脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私の好きな曲

2013-01-04 | Weblog
試合前によく聞いていた曲がある。
それはショパンのノクターンのOP9の2とパッヘルベルのカノンである。
この2つの曲はいずれもクラッシックであるが、聞いてて心を落ち着かせてくれる曲で、毎回試合前の緊張を解くために試合前はひとりになって聞いていたのだが、クラッシックと言うのは音に集中して入ってしまえば、雑念が消えて落ち着きが出てくるものだ。
そのおかげで余計なことはすべて忘れて試合に集中できたのだが、カノンなどのバロック音楽は神がいる天の頂に届けようとした音楽で、それは曲と言うよりもまさに祈りとも言えるもので、私はこういう音楽には何か神聖な力が働いていると信じている。
学生の頃韓国人の友達にさそわれて彼女の教会に遊びに行った時に、ノクターンとパッヘルベルをピアノで弾いてくれたことがある。
パッヘルベルは少々長いので彼女のアレンジだったが、神聖な場所で聞くカノンは心を癒し、感動をおぼえるもので、この曲は私が聞いた最高の癒しのメロディであった。
今でも精神的に疲れたときは、パッヘルベルのカノンやショパンを聞いて元気を回復させているが、特に最近は三浦友里枝さんというピアニストの弾くショパンのこの曲がテンポ、間などが自分に合っていてよく聞いているが、私にとって音楽を聴くことが魂の活力を得るひとつの方法である。

時々精神力をつけたいとか、心を強く持ちたいと言う人たちが、ボクシングを競技するという話を聞く。
ここにも何人かそういう人たちが来たが、しかし心を強くするとは一体どういうことなのだろうか?
日本のクラブシステムや根性論で、我々が理想するような心の強さや本当に健全な心が育つかどうかは疑わしい。
たぶん精神的に強くなりたいと言っても私はふーんそれで、じゃあ精神的に強くなると言うのってなんなの?と聞くのだが、たいていの人間は追い詰められたり我慢したりするのが根性を養うことだと勘違いしているのではないかと思うが、よくクラブなどで自分たちが先輩や顧問にいじめられた話を自慢げにするのは、たぶん自分たちはそういうつらいことに耐えているのだと言う自負があるからではないだろうか?

しかし私はこれに対して異を唱える。こういうことは書きたくないのだが、ライダイハンと言う言葉を知っているだろうか?
これは過去に韓国軍がおかした大きな過ちであり、そのことは未だにヴェトナムとの大きな確執になっているのだが、ライダイハンと言うのは韓国人兵士たちとの間に生まれた混血の子供たちのことで、ベトナム戦争当時レイプや無責任な妻帯によって、ヴェトナムの多くの女性が犠牲になり、ライダイハンと言う子供たちがヴェトナムにたくさん残され差別されているそうである。
ベトナムでは韓国軍が大きな貢献をしたそうであるが、しかしライダイハンのように大きな社会問題をのこしたことも事実で、中でも海兵隊は世界でも屈指の部隊で、その彼らの行った残虐な行為は今でもヴェトナムと韓国との大きな溝となっていて、今でも社会問題となっている。韓国軍がおこなった蛮行については書きたくないので、たぶん調べたら出てくると思うが、それは想像を絶するような残虐行為であったと語られている。

韓国には兵役があってそれはどの軍に属するかによって徴兵期間が違うのだが、おそらく陸軍の最長が2年半で空軍や他の部隊はたぶん2か月ぐらい短かったと思う。
この陸軍などの部隊はおもに徴兵によって収集されるのだが、しかし海兵隊だけは志願制で、毎年多くの若者がこの海兵隊を志願し、入隊して来るそうである。
しかし海兵隊で問題になっているのは、先輩や上官からのいじめである
そのいじめやしごきというものはそうとうえぐいらしい。
正直陸軍クラスの徴兵クラスの陸軍ぐらいでも、いじめやしごきはがあるのは当たり前の話であるが、私が実際にいくつか聞いた話では、新兵の態度がわるかったという理由で便器をなめさせられたというのがある。
韓国では毎年とも言っていいほど、そのいじめやしごきなどを苦にした人間が自殺をすると言う記事がのっているが、海兵隊と言うのは肉体的にも精神的にも強い世界でも認められた存在であるが、どうやらその精神力の強さがそういう理不尽やいじめの中で耐えて強くなったものだとしたら、そういうかたちでの精神力と言うのは、ある意味屈折していると思う。
そしてそれは時にはそのフラストレーションのはけ口としてヴェトナムのような残虐な行為が行われるのだが、それは運動クラブが毎年おこす集団レイプにもにたようなことだと思っている。
私は精神力がおいつめられて、たたきのめされてそこからはいあがってきたから養われるものではない、むしろそういうかたちの精神力と言うのは屈折した世界を生み出す可能性があると思っている。

オリーヴの基本的な考え方はまず自分の弱さを知ることである。
弱さを知ってその弱い存在だからこそ我々はそれを認めて生きる。そのことがいくらかでも自分を楽にしてくれる、そしてそのことを認めることでいくらかでも自分がかかえている重荷から解放されるのではないだろうか。
人間なんて所詮弱い生き物だ、それを無理に強くなろうとして虚勢をはるからくるしくなる。
誰もが「The show must go on」の現実を背負っているのだから、目をつぶって音楽を聴くだけで、そしてただ楽しくボクシングをするだけで、そこから現実逃避できるのであれば、それでいい。
そういう現実逃避ができるからこそ、自分たちの負っている現実の世界と向き合うことができるわけであって、それを心の問題もわかっていないくせに、昔自分たちがやってきたことを絶対化しそれが精神力を養う道だと言ってスポーツをわけのわからない修行の場にするのは馬鹿げている。勘違いも甚だしいことである。
たかだか子供にさせるスポーツごときで、何を求めているのかわからないが、精神を鍛えるとか、集団行動をおぼえるとか、もしそういうことを求めるとしたら本末転倒だ。
スポーツと言うものはもともとそういう目的で存在しているのではない、スポーツと言うのはひとつの娯楽で、楽しむためにあるものであり、このスポーツを通して心から楽しめるから心が豊かになっていくのではないだろうか。
私は本当に弱い人間だ。世界屈指のへたれであると言われてもかまわない、しかしへたれでよわい人間であるが、心は解放されている。
疲れた時ノクターンやカノンを聞いた時に、あの時代に聞いたピアノの音を思い出し、心が癒されるのは、私の心が解放されていることかもしれない。

最後にヴェトナムの話をここでだしたが、これを出すのははっきり言ってタブーに近い。
たぶん韓国人の多くはこのことについてはあまり知らないと思うのだが、興味本位にこういうことを関係ないところで出すのはとんでもないトラブルを引き起こすので、出さないほうがいい。
またこのことをつきつけて責任はどうとるのだと言った議論も今は好ましくないと考えている。
さらに付け加えるとヴェトナムに行ったのは、自分たちのおやじの世代であるというのも私が言及したくない理由の一つである。










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