最近うちの子が勉強面でたるんできているので、サルの王様の話しをしてやった。
サルの王様と言うのは以前ブログにも書いた、韓国のことわざで井戸の中に映った月を見て月がおとてしまったと勘違いして、家来をつかって取り出そうとしたが、しかし全員井戸からおちてしまったという話しで、このことわざが意味するところは、サルが何匹集まっても所詮サルだと言うことで、私がその後続けて話したことは、人間だったら考えることができる、人間は考えると言う能力が与えられているのだから能力に従って一生懸命勉強しなくてはならない。
さらに子供にはこの考えると言うことに関連して「使う」と「使える」ということを教訓として伝えた。
どういうことかと言うと「使う」というのは頭をつかう、つまり考えることで、勉強することである。
例えば私が英語を勉強するのが頭を「使う」ことで、英語が話せるのは「使える」である。すなわち人間として考える能力が与えられているのだからそれを使って、やがてそれを使えるようにしなくてはならない、そういう努力をするのが人間であり尊い生き方であると。
おそらくこのたとえをもって勉強を一生懸命しろというのは、いささかアイロニーがきつすぎるように思える。
しかし私は子供には時にはそういうアイロニーを持って毒を吹き込まなくては、刺激と言うものを十分に与えることはできないと思っている。
最近聞くところによるとおとぎ話の内容などがかわり、話し自体も猿蟹合戦が仲良しになる。ハッピーエンドで終わるように、かなりオブラートに包まれるようになったと聞くが、しかし私は子供には昔のようなえぐいとも言えるおとぎ話も必要で、こうなったらいけないという危機感と言うものをもたせるのも、一つの教育ではないかと理解しているが、私は子供には時にはこんなことをしたらなさけないとか、バカじゃないのかという危機感と言うか、そうならないためのきつい言葉と言うのは時には必要であると思っている。
しかし人間は平等であるが人間の能力には差があると言うこと、一生懸命頑張っても、その分野では理解できない子供もいることに対する配慮を忘れてはいけない。
こういう寂肉強食のスポーツの世界では、常に前に向かっていくことが求められるので、時には弱いものに対するいたわりがかけることもある。
時々格闘技の指導者は強くなって弱いものを助けるというようなことを言うが、しかし弱いものをいたわると言うのは、自分が強くなってというような現実ばなれした理想ではなく、感情や心の問題だ。
第一自分が強くなってなどというのは傲慢であり、私にしてみたらそう言う言葉は、かっこつけの漫画の言葉のように聞こえるのだが、もう必要以上に書く必要がないが、往々にしてこういう言葉は、自分が何を言えば人を感動させれるとか、かっこいいと思われたいだけの言葉である。
聖書の中に「good samarian」と言うのがある。
私が向こうにいた時、学生会のクリスマスの余興で主人公として劇に出演した物語であるが、それは道端に一人の人間がたおれていたが、そこを通りがかった二人の立派な人物は彼をむしして通り過ぎて行ったが、しかし彼を敵対する民族が彼を助けたという物語で、人間がその人の隣人になるのは身分や血統ではない、人をいたわる気持ちであるという教訓が込められた物語である。
後になってわかったことだが、なぜ私が主役に選ばれたかと言うのは、私が演技がうまかったからではなく、大きな意味がある。
このサマリアンというのはユダヤ人と他民族のハーフであったそうだが、当時は血統とというものが非常に重要視されていたので、他民族の血が混ざった人間はさげずまれ敵対されていたのだが、そのサマリアンがその倒れていた人の本当の隣人になったのだが、その主役に私を選んだのは、アジアの問題を含め、民族の多いアメリカならではの配慮であったと思っている。
その物語で道を通りかかった時に、サマリアンが倒れた人を見た時に「彼の心が動かされた」というようなことが書かれてあるのだが、この動かされると言うもともとの言葉は人間の内臓に関連した言葉であり、よく日本語でも断腸の思いという言葉があるが、彼はその倒れた人を見て心を動かされたから、かわいそうになって助けたのである。
たぶんこの物語は人間の真の姿をとらえていると思う。
人間と言うのはきれいごとで善意を行えるものではない。
あの聖人とも言われるマザーテレサだって人を助ける理由は「その人の中にイエスを見る」すなわち心が動かされるからだと言っているが、自分たちがもし本当にいろいろな能力の人たちや立場の人と向き合って生きるためには、偉そうな理屈や理想ではなく、その中に入って見て実際に感じることが大事である。
少し話しはそれるが私が中学生にbe動詞をこのように説明している。
be動詞と言うのはそれぞれ人称によって違うのだが、なぜ違うのかと言うとそれぞれには人格と言うものがあるからで、英語ではPersonalと言うが、人称動詞は人格を持った動詞である。
beというのは基本的には存在をあらわす言葉であるが「I」には「I」の人格 「You」には「You」の人格そして「 He」には「He 」「She」には「She」の人格があってそれぞれを大切にしなくてはならない、だからそれを尊重して存在をあらわす動詞はそれぞれ違う。
小さなことであるが、時々私は子供に何かを語る時はそういうことをできるだけ伝え感受性にうったえるようにしている。
人格とか人権と言うものは守られるべき最も重要な問題で、このことを十分に配慮しなくては結局きついアイロニーも本当の教訓として生きない、人をみくだし、けおとすような弱肉強食の世界にみちびくだけだ。
大事なのは互いの人権や権利、そして能力を認めあって今の自分の能力を最大に生かすことではないか。
ボクシングでもそうだが、その人間の能力で差をつける指導者は教育的配慮にかける。
人間は能力差があっても、すべての点において等しい。
プロ選手ならまだしも強さだけにこだわったり、できる人間を特別かわいがるということは、学校などの教育的な場においてはあってはならない。
クラブを強くしようと思ったらそうなるのだろうが、しかしこういうクラブは教育を放棄したクラブだ。
サルの王様と言うのは以前ブログにも書いた、韓国のことわざで井戸の中に映った月を見て月がおとてしまったと勘違いして、家来をつかって取り出そうとしたが、しかし全員井戸からおちてしまったという話しで、このことわざが意味するところは、サルが何匹集まっても所詮サルだと言うことで、私がその後続けて話したことは、人間だったら考えることができる、人間は考えると言う能力が与えられているのだから能力に従って一生懸命勉強しなくてはならない。
さらに子供にはこの考えると言うことに関連して「使う」と「使える」ということを教訓として伝えた。
どういうことかと言うと「使う」というのは頭をつかう、つまり考えることで、勉強することである。
例えば私が英語を勉強するのが頭を「使う」ことで、英語が話せるのは「使える」である。すなわち人間として考える能力が与えられているのだからそれを使って、やがてそれを使えるようにしなくてはならない、そういう努力をするのが人間であり尊い生き方であると。
おそらくこのたとえをもって勉強を一生懸命しろというのは、いささかアイロニーがきつすぎるように思える。
しかし私は子供には時にはそういうアイロニーを持って毒を吹き込まなくては、刺激と言うものを十分に与えることはできないと思っている。
最近聞くところによるとおとぎ話の内容などがかわり、話し自体も猿蟹合戦が仲良しになる。ハッピーエンドで終わるように、かなりオブラートに包まれるようになったと聞くが、しかし私は子供には昔のようなえぐいとも言えるおとぎ話も必要で、こうなったらいけないという危機感と言うものをもたせるのも、一つの教育ではないかと理解しているが、私は子供には時にはこんなことをしたらなさけないとか、バカじゃないのかという危機感と言うか、そうならないためのきつい言葉と言うのは時には必要であると思っている。
しかし人間は平等であるが人間の能力には差があると言うこと、一生懸命頑張っても、その分野では理解できない子供もいることに対する配慮を忘れてはいけない。
こういう寂肉強食のスポーツの世界では、常に前に向かっていくことが求められるので、時には弱いものに対するいたわりがかけることもある。
時々格闘技の指導者は強くなって弱いものを助けるというようなことを言うが、しかし弱いものをいたわると言うのは、自分が強くなってというような現実ばなれした理想ではなく、感情や心の問題だ。
第一自分が強くなってなどというのは傲慢であり、私にしてみたらそう言う言葉は、かっこつけの漫画の言葉のように聞こえるのだが、もう必要以上に書く必要がないが、往々にしてこういう言葉は、自分が何を言えば人を感動させれるとか、かっこいいと思われたいだけの言葉である。
聖書の中に「good samarian」と言うのがある。
私が向こうにいた時、学生会のクリスマスの余興で主人公として劇に出演した物語であるが、それは道端に一人の人間がたおれていたが、そこを通りがかった二人の立派な人物は彼をむしして通り過ぎて行ったが、しかし彼を敵対する民族が彼を助けたという物語で、人間がその人の隣人になるのは身分や血統ではない、人をいたわる気持ちであるという教訓が込められた物語である。
後になってわかったことだが、なぜ私が主役に選ばれたかと言うのは、私が演技がうまかったからではなく、大きな意味がある。
このサマリアンというのはユダヤ人と他民族のハーフであったそうだが、当時は血統とというものが非常に重要視されていたので、他民族の血が混ざった人間はさげずまれ敵対されていたのだが、そのサマリアンがその倒れていた人の本当の隣人になったのだが、その主役に私を選んだのは、アジアの問題を含め、民族の多いアメリカならではの配慮であったと思っている。
その物語で道を通りかかった時に、サマリアンが倒れた人を見た時に「彼の心が動かされた」というようなことが書かれてあるのだが、この動かされると言うもともとの言葉は人間の内臓に関連した言葉であり、よく日本語でも断腸の思いという言葉があるが、彼はその倒れた人を見て心を動かされたから、かわいそうになって助けたのである。
たぶんこの物語は人間の真の姿をとらえていると思う。
人間と言うのはきれいごとで善意を行えるものではない。
あの聖人とも言われるマザーテレサだって人を助ける理由は「その人の中にイエスを見る」すなわち心が動かされるからだと言っているが、自分たちがもし本当にいろいろな能力の人たちや立場の人と向き合って生きるためには、偉そうな理屈や理想ではなく、その中に入って見て実際に感じることが大事である。
少し話しはそれるが私が中学生にbe動詞をこのように説明している。
be動詞と言うのはそれぞれ人称によって違うのだが、なぜ違うのかと言うとそれぞれには人格と言うものがあるからで、英語ではPersonalと言うが、人称動詞は人格を持った動詞である。
beというのは基本的には存在をあらわす言葉であるが「I」には「I」の人格 「You」には「You」の人格そして「 He」には「He 」「She」には「She」の人格があってそれぞれを大切にしなくてはならない、だからそれを尊重して存在をあらわす動詞はそれぞれ違う。
小さなことであるが、時々私は子供に何かを語る時はそういうことをできるだけ伝え感受性にうったえるようにしている。
人格とか人権と言うものは守られるべき最も重要な問題で、このことを十分に配慮しなくては結局きついアイロニーも本当の教訓として生きない、人をみくだし、けおとすような弱肉強食の世界にみちびくだけだ。
大事なのは互いの人権や権利、そして能力を認めあって今の自分の能力を最大に生かすことではないか。
ボクシングでもそうだが、その人間の能力で差をつける指導者は教育的配慮にかける。
人間は能力差があっても、すべての点において等しい。
プロ選手ならまだしも強さだけにこだわったり、できる人間を特別かわいがるということは、学校などの教育的な場においてはあってはならない。
クラブを強くしようと思ったらそうなるのだろうが、しかしこういうクラブは教育を放棄したクラブだ。