脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

身のまわりでおこっていること

2011-12-07 | Weblog
日本を留学や仕事ででたことがある私のまわりの何人かの人間が言っていた。
「日本人はとにかくルールというものをつくりたがる。」
私もこの意見には同感だ。よく試合会場でおこられている人がいるが、こういう様子も何かこの場では守らなくてはならないルールや態度があって、それが十分にできていないとリングサイドから犬をおこるように注意する奴もいるそうで、もう少し自由にやらせてやれよと思うのだが、しかしそういう場では親玉たちの顔色をうかがうことが要求されるのだ。
私のようにいくつかの文化を経験した人間から見たら、スポーツの世界は何かよくわからないへんなルールができている。
言ってみれば親玉の顔色をうかがうことがそのルールの根源で、何で注意されるのかわかったようでわからないのだが、しかし態度ひとつ間違えるとおこられてしまうよくわからないspecificな世界である。

今道徳とかやさしさというのは、日本だけを基準にして考える時代ではない。
地球温暖化やエコなんかもそうだが、あの福島の大震災が起こった時、外国の対応はどうであっただろうか?
各国は日本のことをニュースで取り上げ、義援金や支援団体をこぞっておくってくれたことは記憶に新しく、特に台湾は最も多くの義援金を贈ってくれたそうだが、感謝すべきことだ。
これに対して日本はどうだっただろうか?タイの大洪水、台湾の大地震、アメリカの台風による水害、確かにニュースで報道されたが、しかし私はこういう問題に対して日本人は問題意識が希薄であったように思える。
福島の大震災が起こった時にはあれだけ多くの人間が助けい合い励まし合うことができたのだが、しかし他国のことになると問題意識が希薄になる単一民族の限界である。

日本人は優秀だと思う。実際に海外で活躍している日本人は多いし、私自身も国籍を選択したことは光栄なことで、誇りに思っている。しかしこの単一民族であると言うことはある固定観念にとらわれてしまい、広くものごとを考えることができない、ディスアドヴァンテージだ。
そう考えたら体育会のオウンルールの世界がいかに狭く、みっともないということがわかる。
よく体育会の顧問が部員を人前でおこっているのを見かけるが、こういうことは人権にうるさい国ではありえない、さらにあいさつの強要、問題なのは教育しているのではなく、命令だからだ。あいさつなどは気持ちがつたわれば会釈ぐらいでいい。
なのにでかい声をだせとか元気にしろというのは、ともすればその子の人格や性格を否定するわけであって、おまけにでかい声ならばチワーッスでも、あいさつになるのだからここまでいけば日本語に対する冒涜である。

こういう集団は組織やメンツが大事なのか、はたして個が大事なのかわからない?私はメンツが一番大事なのではないかと思っているが、今個を育てなければ、かわりつつ世の中に対応できない。
個を育てると言うのは同じような仲間が集まるような場のspecificなルールの中で生きていては育たない。
個を育てるためには、もっともっといろいろなことを知るためにいろいろなところに出て言って、何かを学び感じることが大事だと思う。

実際にこの世界では我々の身のまわりでたくさんのことが起こっている。
さっきの災害もそうであるが、北朝鮮でおこっていること、そしてタイやカンボジアの少女買春に日本人が深くかかわっていること、数えあがたらきりがないぐらいいろいろなことが我々の身のまわりでおこっている。
私が心をいためたことはアメリカには韓国人の養子が多いということである。
なぜ多いかと言うのは女性に権利がないので、子供ができても父親もなく、母親が育てられないので泣くなく養子にするということがあるそうだが、その話しはハワイの韓国人から聞いた話であるが、よその国に行けば、日本とは違う現実が見えてくることがあるし、他国の国の人間は日本人以上に政治や民族、そして権利について考えていることが多く、そういう現実にふれることが若い人間には必要で、そういうことを経験した中で、自分には何ができるのかと考え、自分にぶちあたる、その時、自分は何ものかと言う個が見えてくるのである。
元サッカー選手がそういう問題意識をもって、実際にボランティア活動をしているのも彼ら彼女らが海外に行ってサッカーだけではないいろいろなことを吸収してきたからだと思うが、よく解説などで見る北沢という選手がそうであると思うのだが、その他最近水泳の元金メダリストもそういうボランティア活動をしていると聞いたが、彼らもまた日本だけではなく海外で学び、いろいろなことを吸収してきた人たちである。
何が正しいと言うことが定義できない今の世の中、視野を広げるために見聞をひろめて物事を考えていかなくては、公平な考え方ができないと思っている。
たぶん21世紀はそういうやさしさというものが要求される時代だ、先日も書いたが指導者もそういうことを無視して、ただ自分のクラブを強くすることだけを考えているだけでは教育的配慮にかけるだろう。
私は自分の子供に言葉をおぼえさせるのは将来、向こうの大学をすすめるのと同時に、向こうで何かボランティアをすすめるためだ。いろいろな立場の人間を理解し、問題について悩みいい意味で傷つくことは必要なことだし、そのことが彼を成長させることだと信じている。

自分の指導者に「人間の権利とは何か」ということを聞いてみればいい。
こういうことを聞くと、稚拙なことを言ったり、まともに答えられない奴はだめだ。











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