ここに一枚の写真がある。
そこには自分をはさんでジョージそしてアレンがいっしょに写っている。
これを撮ったのは試合の後で、少し目をはらした姿で写っているのだが、自分にとってこの写真は思い出の一枚である。
ここではコーチは競技者を「boy」と呼ぶ。それがたとえ20歳を越えた大学生であろうと「boy」と呼ぶので多少の違和感はあったが、しかしこの呼び方は日本のように単に上下関係をあらわす言葉ではなく、自分の子供のようにその競技者を尊敬し、尊重すると言う意味が込められている。
むこうのコーチはめったなことでは競技者にあれこれ言わない。
たとえそれがよくないんじゃないかと思うことであっても、言葉にせずとにかく彼、彼女のやり方を尊重するのが「hawaiian way」である。
しかしやり方を尊重するのはもうひとつ大きな意味がある。
それはアメリカではスポーツをする人間は子供のころからいろいろなスポーツを競技してきているので、その競技を引きずって来ているので、ひとつの型にはおさまらないからである。
日本ではひとつのことを続けて競技するのが尊いことだという錯覚があるが、しかし向こうではありえないことで、むしろそんな奴は退屈でつまらないと思われるだけだ。
私が思うに日本のスポーツのシステムは間違っている。どう間違っているかと言うと同じスポーツにこだわりすぎで、小さいころから同じスポーツばかりさせているとバランス感覚が育たないし、それをやっていること自体将来の予備軍なので、他のスポーツをやってみょうというような余裕など持てない「基本」とか「型」とかと言う言葉をやたら使い、徹底してそこに順応させるやり方は洗脳に近く、結局スポーツを楽しむものとして競技していないから燃え尽き症候群なるものが存在すると思う。
私はこういうシステムにはめ込むこと自体、単純で個性のない人間をつくり出すと思っているが、むこうの選手に天才が多く、時々おそろしくバランス感覚がいい選手がいるのは、間違いなく小さいころから複数のスポーツを競技しているからで、時々メジャーリーにとんでもないかまえで、えげつないホームランをうつ選手がいるが、まさにそういう選択肢があり、バランス感覚が身についているので、そういう一番自分にあったスタイルを見出すことができるのだ。
他国でボクシングでも競技したらわかるが、なんじゃこいつはという選手も少なくはない。
最近ではスイッチするのは多少あるが、しかし当時はあまりなく、それでも当たり前のようにスイッチをしてくる選手には驚かされたし、時々こいつはどこからパンチをうってくるんだという選手もいて、とにかく個性が強かったのだが、そう考えると型にはめ込み「勝つために」というニンジンをぶらさげて競技させるやり方は、教育的配慮にかけるし、やっていてつまらないと思う。
今でも思い出すのはよくリングサイドで彼らが言っていた言葉である。
「OK boy! co-me on boy!」「boy」という言葉は文字通り受け取れば「少年」だが、しかしそこには愛情と尊敬、尊重の意味がこめられている。私自身競技して来て彼らからひよっこ扱いされたことはなく、対等で会ったことは確かなことで、だからこそ「boy」という言葉は尊敬の言葉になるのだろう。
そこには自分をはさんでジョージそしてアレンがいっしょに写っている。
これを撮ったのは試合の後で、少し目をはらした姿で写っているのだが、自分にとってこの写真は思い出の一枚である。
ここではコーチは競技者を「boy」と呼ぶ。それがたとえ20歳を越えた大学生であろうと「boy」と呼ぶので多少の違和感はあったが、しかしこの呼び方は日本のように単に上下関係をあらわす言葉ではなく、自分の子供のようにその競技者を尊敬し、尊重すると言う意味が込められている。
むこうのコーチはめったなことでは競技者にあれこれ言わない。
たとえそれがよくないんじゃないかと思うことであっても、言葉にせずとにかく彼、彼女のやり方を尊重するのが「hawaiian way」である。
しかしやり方を尊重するのはもうひとつ大きな意味がある。
それはアメリカではスポーツをする人間は子供のころからいろいろなスポーツを競技してきているので、その競技を引きずって来ているので、ひとつの型にはおさまらないからである。
日本ではひとつのことを続けて競技するのが尊いことだという錯覚があるが、しかし向こうではありえないことで、むしろそんな奴は退屈でつまらないと思われるだけだ。
私が思うに日本のスポーツのシステムは間違っている。どう間違っているかと言うと同じスポーツにこだわりすぎで、小さいころから同じスポーツばかりさせているとバランス感覚が育たないし、それをやっていること自体将来の予備軍なので、他のスポーツをやってみょうというような余裕など持てない「基本」とか「型」とかと言う言葉をやたら使い、徹底してそこに順応させるやり方は洗脳に近く、結局スポーツを楽しむものとして競技していないから燃え尽き症候群なるものが存在すると思う。
私はこういうシステムにはめ込むこと自体、単純で個性のない人間をつくり出すと思っているが、むこうの選手に天才が多く、時々おそろしくバランス感覚がいい選手がいるのは、間違いなく小さいころから複数のスポーツを競技しているからで、時々メジャーリーにとんでもないかまえで、えげつないホームランをうつ選手がいるが、まさにそういう選択肢があり、バランス感覚が身についているので、そういう一番自分にあったスタイルを見出すことができるのだ。
他国でボクシングでも競技したらわかるが、なんじゃこいつはという選手も少なくはない。
最近ではスイッチするのは多少あるが、しかし当時はあまりなく、それでも当たり前のようにスイッチをしてくる選手には驚かされたし、時々こいつはどこからパンチをうってくるんだという選手もいて、とにかく個性が強かったのだが、そう考えると型にはめ込み「勝つために」というニンジンをぶらさげて競技させるやり方は、教育的配慮にかけるし、やっていてつまらないと思う。
今でも思い出すのはよくリングサイドで彼らが言っていた言葉である。
「OK boy! co-me on boy!」「boy」という言葉は文字通り受け取れば「少年」だが、しかしそこには愛情と尊敬、尊重の意味がこめられている。私自身競技して来て彼らからひよっこ扱いされたことはなく、対等で会ったことは確かなことで、だからこそ「boy」という言葉は尊敬の言葉になるのだろう。