脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

レッスン中に

2011-07-20 | Weblog
うちの小学生の子供に英語の家庭教師をつけている。
先生は英語のほかにも、アリンともフランス語で会話できるぐらいフランス語も堪能である。
最近英語のほかにも他の言語を話せる人が増えて来た。特に韓国などはアメリカやカナダなどの永住権がとりやすいので、そこに移り住む人たちが何年か前から増え、英語を話せる人が多くなり、確か韓国のToeicの成績はここ最近かなり上位にくいこんできている。
私の友人の子供も当時4年生で会ったが、彼女は英語と日本語を話すトライリンガルである。
当時まだ英語に関しては、少しおぼつかないような感じであったが、両親が家庭教師をつけていたので、今では話せると思うのだが、少なくとも日本語に関しては日本の東京の学校に通わせていたので、問題なく会話ができるのだが、おそらくもうあれから何年もたっているので。今では彼女は完璧なトライリンガルになっているはずである。

で話しはその家庭教師の先生の話しだが、以前レッスンで子供とこういうやりとりをしていた。
それは動作をあらわす英語を習っている時であるがこうだ。
先生   「Euto「Sit」は日本語で何?」
うちの子 「......」
先生   「えっSitだよ。Sitあれ習わなかったっけ」
うちの子 「......」
実はなぜうちの子が沈黙したかと言うと、このSitであるが、彼のインパクトの強いのは「i」の前に「h」が入るもう一つのほうで、私が時々言っていた言葉で、それを聞いていたのである。
これはあまりつかってはいけないと言っている言葉だが、たぶん彼にしてみれば、まさかそれを先生がつかうとは思わず、それを悪い言葉だと知っているので沈黙している様子であった。
実はこのわるいほうの言葉、私がうちに外国人がいる時によく使っていた言葉で、彼ら彼女らがへまをやらかしたり、失敗してしりぬぐいをするような時に、普段は「オーマイガッシュ」お前何やってんねんだが、それがえげつない時はその言葉が出てくるのであるのだが、その言葉をうちの子供は聞いていたのだ。
私はそのやり取りを見て、思わずふきだしそうになってしまったが、しかしこのままでは、うちでどういう言葉をつかっているのかばれてしまうので、彼に「すわる」と言ってしまったのだが、どうやら彼には「h」のサウンドのが入るほうが、インパクトが強かったようである。

私がなぜ彼に家庭教師までつけて英語を習わせているかというのは、それは英語をおぼえることで物事をひろくとらえ、考え方を深めてほしいからで、少なくとも狭い価値観の中で生きてほしくないからである。

人間は構造の中で生きている。
この構造とは社会のシステムのことで、われわれは好む好まざるにかかわらず、このことと深くかかわっている。
それは学校や会社、そしてクラブと言うのもそうであろう、特に青年期や幼年期はその自分の生きる社会がすべてで、その世界がせまければせまいほど価値観は絶対的なものであり、正直私はこういう殻を打ち破ることで人間は成長すると思っているのだが、時々子供がまとのはずれたことを言うのは、その子供自体が幼稚であると言うことではなく、私はその彼の生きる構造自体に限界があると理解している。
現に大人になっても子供みたいなことをいうバカがいるが、逆説的に言うならば、こういう奴は言葉をおぼえてその構造をうち破る力がないから、いつまでも同じ世界にとどまり、狭い価値観しか持つことができないということであるが、すべてのことをボクシングや勝負事におきかえる奴は、まさにそうだが、そういう人間はうらを返せば何も知らない、他に言葉をしらないのだが、そういう輩はスポーツの世界を見ても結構いるのではないか。

正直私が思うに日本の若い人たちは、この構造を破ると言うことに対して、少しアグレッシヴでないように思える。
アメリカ人はよくBreak the rule(ルールを守るな)という冗談めいた言葉を使うのだが、しかし彼らのいいところは相手の立場や多様性を認めるところであるのだが、現にスポーツもその多様性を認めているので、プレイしていても追い詰められているような感じはなく、いい意味での自由さはまったくこことは違う。
たぶんそういった発想が乏しいのは、それは英語の普及率と未だに社会が封建的であるということとかかわっているようだが、古い体質では運動部のうけがよく、理由は飼いならせると言うことであると思うが、しかしもう、都心ではバイリンガルが増え、そう言った考え方はうすれつつ、企業ではグローバル視点を視野に入れているので、ただの運動馬鹿では事実通用しない時代になりつつある。

私は正直子供をサッカー以外の運動部には入れたくないと考えている。
笑い話であるが、もしそれ以外のスポーツをやりたいと言えば、留学した時にしろというと思うが、まあお遊び程度にやっているクラブならいいのだが、しかし監督中心の封建的なクラブには絶対に入れたくはない。
これは私の持論であるが人間は、構造をうち破ってこそ成長し、そこで本当の個性が持てるのだと思う。
人間特に若い時は生きていると自分とは違う考え方の構造、社会をを経験する。
私で言えば日本のクラブ、体育会であるが、しかしその時そのことに対してノーと言い、その環境に甘んずることなく、自分で自分の生き方を見つけていくのが、本当に価値のある生き方だと確信している。

「けつを割る」という言葉がある。今ではほとんど死語に近いが、この言葉は一度始めた習い事などを途中でやめることで、昔クラブなどをやめるとよく「お前は途中でけつをわった」とちゃかされた、そういう言葉である。
しかし、もちろんしんどいからやめたのもいるが、やめたらだめなことなのか、またそれだけではなく、顧問や体質があわないという理由でやめた人間もいるとい思うが、そういう構造をまったく問題にせず、やめた人間を一方的にまけ犬とみなすのは、まさに封建的で、場合によってはそういうことがダメだと思っていること自体おかしいことである。
日本の指導者ほどまわりに信奉者を集めようとするのが多いが、正直まわりに集まる奴らも、あまり賢そうではない。おそらく共通語など話せないと思うが、こういうところにとどまっていると親玉と子分の関係が一生続くことは間違いない、卒業しようが大人になろうが「あの子」とか「お前は」などとひよっこあつかいされるのである。
相手を尊敬すると言うのは、自分と相手が対等であるからこそできることだと思っている。子供や青年期に監督を尊敬していたのは構造の中で、依存と親子関係のような関係があったからで、本当に自分が自立して相手と対等になった時に、情や絆は関係なしに、それでも尊敬できると思った時こそ、本当の尊敬であると思っているが、言葉をかえせば自分が本当に自立したからこそ相手を敬い尊ぶことができるのであるが、こういうシステムにどっぷりつかっていてはいつまでたっても単なる親子ごっこである。

スポーツなんてそこだけではない、どこでもできる。またそれがすべてではない。
近くにそういうスポーツ施設もあるし、場合によっては外国の学校に行ってそこでやるということもできる。
私にしてみたらなぜそういう場所にとどまって何も言わないのか、あるいは自分で環境をかえようとしないのか不思議であるのだが、正直自分たちにはスポーツをする権利があるのだから、おかしいと思ったことや、自分が違うと思ったことに対して考えて、行動をおこす必要もあるだろうが、日本の若い人には、無駄なエネルギーを使いたくないと思っているのか、この部分がかけているように思えるのだ。
しかしただ逆らうだけでは、単なる不良とかわらない。何がいけないのか、何が間違っているのか、そして自分はどうあるべきなのかと言うことを問うことのできる力が必要であり、まさに今はそれが英語や外国語をおぼえて多面的に物事を考えることだと信じている。

次回は「山賊にであった」








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