脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

山賊が出た

2011-07-22 | Weblog
これは昔国民宿舎に泊った時のことだ、夕食をすませて部屋に向かっていると友人が私のところに駆け寄ってきた。
洗濯がしたいのだけど、その洗濯場がちらかされていて洗濯ができない、そこでいっしょにきてほしいと言うのである。
何かトラブルのにおいがしたが、頼られたら断るわけにはいかないので、いっしょにいったのだが、まあいってみるとひどい、野球のユニホームだろうかあたりに散乱していて、これでは他の人たちができない。
その野球部は甲子園でも有名な関西のある野球部だが、おそらくそういう180センチ以上あるような大男たちに注意するのが怖いのだろう、そこにはたくさんのユニフォームやあきれることに野球用具までほったらかしにされていたのである。

しばらくするとむこうからぞろぞろと野球部の軍団が歩いてきた、
私が「これ君たちのユニフォームなの」と聞くと、ひとりの人間が、たぶんこいつがリーダーなのかわからないが、威嚇したような態度で「ああ何か」と言ってきた。
こういう時こういう連中は決まったようなフォーメーションをとる。
それはリーダー格の奴が一歩前に出て、その斜め後ろに熊のようにでかい奴が立って腕組みをして威嚇すると言う行為だ。
おそらくこういうフォーメーションは人間でも本能に近い奴らがすると思うのだが、まさにこいつらのとったフォーメーションは、まともに話しあうというような態度ではない、山賊や追剥のとる態度である。
私がここでユニフォームをちらかしたら迷惑で自分たちも含めて洗濯ができないじゃない、洗うんだったら洗う、洗わないのなら片づけてほしいと言うと、案の定さらに威嚇したような態度で、怖い目をしてかたずけはじめたのだが、おそらくこれが公共の場でなく誰も見ていなければ、私など即座に叩きのめされていたのだろう、まさにそういう態度であった。
その後無事洗濯ができて部屋に戻ったのだが、なぜかその夜何度もいたずら電話がかかってきたのだが、おそらくこいつらが腹いせにやったのだろうと思っている。

私は何も偉そうに言ってはいない。結構こういうことには場馴れしているので、相手の自尊心を傷つけるないように、ましてや彼らは甲子園のヒーローである。
しかし彼らは自分たちは特別だと思っているのか、こういう一般のしかもしょぼい人間に注意されることが、しゃくにさわったのだろう、おそらくいたずら電話はたいしたこともない人間がという腹いせにやってきたのだと思っている。

もう今ではここまでスポーツだけしか知らない人間を特別視することはないだろうが、しかしそれでもまだ日本はこういう奴らに対して甘い、特別視しすぎだ。
USAではNCAAという団体があって、こういうスポーツ馬鹿が出ないように監視しているそうだが、最近全米のトーナメントで優勝したバスケットボールのクラブが、学業の成績不振で部費を削減され、ある一定期間の活動を禁止されたことは有名で、これに比べたら日本は信じられないぐらいスポーツ馬鹿に対して甘く、実際に話してみて分かるが、基礎学力が一般の人間に比べて低いと言うか話しにならない。
余計なお世話かもしれないが、こういう人間を認めていたら、間違いなくブレーインは育たない。
基礎学力と言うのは非常に重要である。
本を読んだり物事を考える時、学校で習った国語力が必要であるし、英語や他の言葉で書物や資料を読むということは、今の時代パースペクティヴに物事を考える上では必須条件で、こういうことをまともにやったことのない連中が、スポーツ科学や専門書など読めるはずはない、ましてや英語なんかは不可能に近い。
特にボクシング関係の本はひどい、絵ばかりでこれでは絵本とかわらない、以前大阪の大きな書店でボクシングの自伝のようなものが並べてあったので、それを立ち読みしていたが、書いてあることはほとんど武勇伝で、こんなもの何がおもしろのかと思ったのだが正直こういうたぐいの本が多いのは、やはりこれは競技者の基礎学力(Achivement)と関係していると思っている。

しかしここで言っておくが何も基礎学力がないのがだめだと言っているのではない。それだけしかやってこなかった学生に勉強させろと言っているだけで、もう少し学業と言うものに力を入れれば、多少競技の質やもかわるだろうし、少なくともボクサーは賢くないと言う偏見を持たれることがないだろう。
私はサッカーのレヴェルが上がったのは、彼ら彼女らが勉強熱心であるからだと理解している。
現に彼らは現地に行っても通訳に頼らず、言葉をおぼえてコミニケーションを取り、よくテレヴィなどでも彼らが言葉をおぼえる様子を伝えているが、まあこれは私の印象で言葉尾おぼえることがすべてではないが、しかし今の時代基本的なことがらであって、この言葉をおぼえることあるいは学ぶことで見えるものが違うと思うのだが、お笑いでもあるまいし、未だに弟子と師匠の関係というのはこの時代に時代錯誤で、そういう年長者を囲んでのヒエラルキーでは、その親玉の駒になるだけで、クリエイティヴな考え方はできないだろう。

今企業の採用条件がToeic700点以上であるとか、ドラスティックな企業では英語が公用語になるという企業が増えて来ている時代、もう俺はスポーツでここまでがんばったということが通用しない時代になってきている。
スポーツ馬鹿はグローバルスタンダードではついていけない、みじめなだけだ。
英語をおぼえたり基礎学力を身につけると言うことは競技を理解する上では非常に重要なことで、そういう指導する側のそういう態度は将来のアスリートの生き方を助けることとなると信じている。












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