脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇の雪を伝う。

2011-07-14 | Weblog
5年ぐらい前だろうか、テレヴィでよくアメリカ系東洋人ぽいのが、よく自分の意見を必死でいっていたが、最近めっきり見なくなった。
正直うるさいだけで決してオブザーヴィングな意見ではなかったが、とにかく目立っていて、日本語と英語が流暢な彼は、自分のことをアメリカ人だと言っていた。
聞く話によるとアメリカには、韓国からのアドプションが多いらしい。
実際私自身もHIではそういう話しをよく聞いたし、自分は韓国系のアドプションであるという人間も知っているが、彼のルーツを問い、こうだと決めつけることはできないが、彼が韓国系のアドプションであるという可能性は高いのだが、アメリカでは韓国系のアドプションが結構いるらしい。

でなぜアドプションが多いかと言うのは、それは向こうでは圧倒的に女性の対場が弱く、デヴォースした女性やシングルマザーは、いかなる理由があっても社会では受け入れられず、まともな地位や仕事など与えられることがないからである。
自国にいても特別な人間でない限り、力のない女性はまともにここで働いて独り立ちすることは難しいことであり、ましてやひとりで子供を育てることは不可能に近いことだ、だから半ばにげるような感じで外国に行ったり、子供が育てられず断腸のの思いで子供をアドプションするらしい。

私がよく聞くBoAの「Winter love」という歌がある。
結構好きでよく聞いているが、この歌は日本人が作詞作曲したらしいが、私はこの歌は日本人がつくったわりには韓国的であると思っているのだが、それは歌詞の中に感情と言うか情緒が強くあらわれているからである。
特に100億の雪を伝って自分の思いが、相手のところに行こうとしているというような内容の歌詞があるが、表現がおおげさだがそれらしい。
向こうの女性は情緒的で、恋愛においても激しさを持っている。
何とかして自分の気持ちを伝えたい、相手を思えば思うほどその気持ちはせつなくなる、そういう気持ちが100億の雪を越えて向こうに行こうとしているのであるが、それは子を思う気持ちも同じである。だからもしそういうやもえない事情があって、その親子が引き裂かれたとしたら、私たちが想像を越える以上に、悲しくせつないことで、まさにその会いたい、はなれたくないという気持ちは100億の雪を越えるほどの強い思いではないだろうか。

私が家父長制を弊害だと言っているのは、何も感情的なことではない。
バランスの問題である。
人間の権利と言うものが見直され、男女平等の時代に、家父長制であることは、ジェンダー差別を生みだし兼ねない。
レヴィーストローズの交換のシステムによれば、女性は家と家を結びつけるためのものや財産でであるそうだ。
時々結婚式などでバカなおやじが、嫁をもらうとかやるとか、バカなことをいうが、まさにこの言葉は女性は家の財産であって、子孫を繁栄させ、家と家を結びつけるためのものであるということを意味している。
こういう男性中心の家父長制の社会においては、そういうシステムがはたらくので、女性にはほとんど権利がないのだが、こういう環境にあっては女性が本当に生き生きと働いたり、生きることはできず、独り立ちできないから子供をひとりで育てることができないのである。

まあ日本は何もそこまでひどいとは思わないが、しかし多少意識にかける部分はある。
以前運動部の体質が家父長制的であると言ったことがある。
自分の子供でもないのに、あの子とかお前とか相手を子供あつかいし、いかにもお前は俺の前ではひよっこだと、偉そうにおやじのように振る舞うすがたはまさに戦前の日本のようで、そこでは監督を親のようにしたい、敬うと言う構図がある。
そういう世界ではおやじをひたすら立てるのであるが、時々そういう軍団につながっている奴が、私たちはきちんといいたいことを言っていると言うが、それはかっこつきであり、娘や息子のようにあつかわれて、いいたいことを言う時もお父さんに何かを言うような言い方で言うのは、わけが違う。
こういう時代にファミリーみたいなものができること自体おかしいことで、特にそういうスポーツのような公平性が求められる場では必要ないだろう。
こういう家父長制で常に上下関係や師弟関係が求められる場では、本当の意味での対等ということが分かっていない。
現に自分たちのシステムが封建的であるとか、家父長的であると言うことがわかっていないと思うのだが、現に暴力をふるうような指導者は今でもいるが、言語道断だ、アメリカではコーチがちょっとでも暴力をふるったり、ひどい暴言をはくと、そのコーチがくびになるのだが、そういった暴力も時には愛のムチとしてうけとられてしまうのだが、それが暴力でないのは、まさに彼がお父さん的であると言う刷り込みがあって、そこでは納得のいかない理不尽なことでも、そういう構図がある限りは受容されるのである。
おおげさのようだがおおげさでない、現にアスリートを自分のものとして扱っている指導者もいる。
子供や青少年は純粋だから一度その世界にどっぷりつかるとそれが、すべてだと思うが、そういう理不尽がうまれないためにも、制度を見直す必要がある。













 







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