脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

自己主張

2011-07-13 | Weblog
オリーヴでは会員に対して英会話を無料で提供しているのだが、ある生徒さんの場合はひとつの記事を抜粋して、外国人講師とそれについて話し合うと言うディスカッション方式で、レッスンを受けている。
このディスカッション方式は私の理想の形で、近い将来英語でディスカッションすることを中高生や大学生たちに訓練し、英語を話せて英語で物事を表現できるアスリートを育成したいと考えている。

私がなぜこういうことを提案するかと言うのは、この21世紀のグローバルな時代において。物事を判断し、決定していくためにはディスカッションすることが不可欠であって、自分の意見しっかりもち、はっきりと主張することが必要であるからだ。
スポーツにおいてもそうである。おそらくアスリートもっと英語をおぼえてしっかりと自分の意見をいうことができたならば、開催地の問題やルールなどももっと有利にもちこむことができるのではないかと思っているのだが、どうだろうか。

自分の言葉を持つと言うことは非常に大事なことで、それは自身にもつながるのだが、正直私はへたに格闘技をやるよりもこういうディスカッションやディベーティングを通して鍛えられるほうが自信がつくと思っている。
しかし自分の意見を持つと言うことは非常に難しい、なぜなら本当に自分の言葉を持とうと思ったならば、多くのものと比較し、弁証法的に言うならば、その矛盾と対立をのりこえてこそ、自分の言葉が確立するのであって、そういう研鑽のない言葉はひとりよがりの言葉であるからだ。
時々たいした学びもしていないのに、俺は自分の意見を持っていると、思わせている人間がいるが、しかしたいていそういう人間は、言わせてもらえる時に自分の言いたいことを言うだけであって、もしそれを10人の前で言ったならばどうだろうか、さらに100人、200人、そして外国人などがたくさんいる前で言ったならば、どうかということを考えてみたらいいと思うが、そういう奴に限って何も言えない、ただ言わせてもらえる場所だから言えるのである。
言葉を伝えるのはむずかしい、結婚式のスピーチですら時間が長く感じ、緊張するのであるから、ましてや人前で意見を言うと言うのはそうたやすいことではないことが理解できるであろう。

自分の意見を持つと言うことの前に必要なのは、自分の言葉をもつということである。
言葉を知り、自分の言葉を持つことができるからこそ、自分の意見が持てる。
私の専門は宗教学なので、説明すると、聖書にこういう言葉がある「In the beginning was the word, and the word with the God.」日本語訳は見ていないが、すなわち「言葉は神と共にある」という言葉であるのだが、しかしこの場合の「With」は、単に「ともに」とか「いっしょに」ということをあらわしていない。
すなわちこの「With」は神と同列であって、この場合の「With」は言葉自体が神なのだと言う解釈で、この解釈に従って言うならば言葉は神そのものであり、すべての力であるということである。
ヘブライ語でも言葉は「言葉」と言う意味以外にも「行為」という意味があるのだが、それは言葉そのものが力であると言うことを意味している。
言葉は力である。若い人の中には、この言葉の力や重みと言うのをよく分かっていない人がいるのだが、言葉と言うのは、力でありその人の人格をつくる。
若いうちは勢いでいいのだが、しかし30歳を過ぎると言葉と言うものを問われる。すなわちその人がどれだけ言葉を知り、言葉をつかうか、本や新聞を読めと言うのは、30を過ぎたらそういう目で見られるからで、正直30を越えても言葉がつたなく、言葉を知らない人間は社会においてもそれがディスアドヴァンテージになると思っているのだが、しかしその言葉を力にするためには、我々はもっとその言葉の意味や深さについて考えなくてはならないのだが、おそらくその言葉を力にするということは、すべてのことにおいて我々のアドヴァンテージになる。
私はよく営業の人間に言葉をおぼえて、しっかりとそれを理解しろと言うようなことを言うのだが、おそらく言葉の意味や深さと言うのを知ることは営業においても、何においても説得力を生み出すからであり、言葉を知ると言うことは相手を制すると信じているからだ。
言葉と言うのは力である。だからこの力を蓄えることこそが、自分の意見とか考え方を構築していく材料であって、実にこういうことが分かれば、英語で自分の言葉を主張していくことの重要性がわかるのではないだろうか。

私は単に格闘技をやったからと言って自信なんかつかないと思っている。
特に監督の言うことをハイハイと聞く封建的なシステムでは、そんなところにいたら絶対に自分の意見なんか持てない。
話しは少しずれるが、かつてある中高生に指摘したことがあるが、彼は非常に強豪の運動クラブ出身で、そのシステムに矛盾を感じてやめてここに来た。
で何を指摘したかというと「ハイ」である。彼は私がある事柄を説明する時に、私が話せば「ハイ」といい返事が返ってくる。
しかしここで心配したのは、いちいち事あるごとにハイハイと返事することだが、これだけ返事に気を使って、本当に話しがきちんと伝わっているのかが問題で、どうやらそこでは、何か言えば「ハイ」ということを強要されているらしく、私は実際の理解力よりもメンツにこだわるくだらなさを実感したのだが、私が彼にハイハイ言わなくていい、黙って聞いてさいごに分かりました、あるいはI seeでいいよと言ったのだが、こういうただ親玉のメンツにこだわるような軍団では決して自己主張や自分の意見など持つことはないであろう。大事なことは形式やメンツではなく、言葉を理解することである。
本当に言葉を理解しようとするならば、ハイハイともちつきのように、返事がでてくることはない、もしもちつきのような返事で理解できるような内容ならば、はっきりいって意味はない、本当に深い言葉で相手に何かを伝えようとするならば、そういうやりとりはないだろうが、こういうやり方に、自分たちの体裁とメンツしか考えることができない、封建社会の限界を感じる。
話しは自分の言葉を持つと言う話しであるが、ついでに聖書に「man does not live on bread alone,
But on every word」人間はただパンだけで生きるんじゃない。神のひとつひとつの言葉によってだと書かれているが、この言葉は我々はまさに言葉によって生かされる、それが人間の生き方であると言うことを言っている。
まあそこまで大げさに考える必要もないが、しかし言葉はまさしく力であり、われわれの命である。
その言葉をしっかりと蓄えて生きる生き方こそ、現代において賢く強く生きる方法だと信じている。

以前試合は殺し合いだつぶしあいだの言う奴を批判したが、しかし言論の自由であるからそういうことをいうのもありで、それが自分の信念なら貫けばいい。
しかしそういうことを言う奴の限って、おかしいと言われると気にしだして、何も言えなくなる、みじめだそこまですごいことを言うんだったら、行くところまで行け、ひくな折れるなと思うのだが、何も学んでいない人間の意見や考えなんて言うのは所詮そんなものである。









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