脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

正直者日本人

2011-07-11 | Weblog
今回の大震災から4カ月がたち、政府の対応がわるく、今なお復興のめどがただず、多くの人が未だに避難生活を余儀なくされているが、しかし今回の大地震で、日本人のコミュニティーの正しさと確かさというものが、世界で評価されたと思うと同時に、国会では、復興といいながらも揚げ足取りに夢中になっている政治家の質のわるさも世界に公表されたと思うが、今改めて国民の力と確かさと言うものが再確認されたと思う。
もうこれ以上は政治に関して言及することを避けたいと思うが、しかし日本人ほど秩序を重んじる民族はないと断言できる。
我々が秩序を重んずると言うことは、教育と深くかかわっていて、日本の学校教育の質の高さを信じることができると思っているのだが、日本人の道徳観は「何々すべし」というようなカント的な命題ではなく、つながりを意味するのだが、このつながりこそが日本人の道徳の基準であると思っている。
よく我々は人に迷惑をかけるなとか、相手の立場に立って物事を考えなさいと、相手のことを慮ることを教育されてきたが、日本人は昔から人と人とのつながりを大切にし、それによってコミュニティーを確立させてきたが、この助け合って共存することが、日本人の持つアイデンティティやコミュニティと深くつながっていて、そのつながりを大切にすることが、自分たちが生存していくことであり、我々が農耕民族であることと関係しているように思える。
今回もコミュニティーを大切にする日本人だからこそ成し得たことであって、それは同時に自分たちがアメリカなどの多民族国家でなく単一民族国家であるからであるということを意味していることでもあるのだが(この件に関してはサンデルの特別講義で議論されている)、道徳観や正義と言うものはそれぞれの民族によって違うので、これらを徹底させることは不可能である。
最近読んだ本で「こんなに厳しい!世界の校則」というメディアファクトリーから出された本がある。
これは世界の国のいろいろな校則を紹介したもので、いろいろと日本では考えられないような校則があって、中でもイスラム圏の校則と言うのは非常に厳しく、シンガポールではテストの不正行為で、男性だったらムチ打ちという処罰があるらしいが、とうていこういう校則は日本では受け入れ難く、民族や宗教によって道徳観や倫理観の違いと言うものが分かる。
昔韓国でウエイターに水をこぼされたことがある。普通日本だったらすぐさますみませんと謝るのだろうが、ウエイターが言ったのは「ケンチャナヨ(大丈夫)」である。
しかもこの大丈夫は英語で言うところの「Are you OK」ではなく「お前大丈夫」というような感じでむこうでは当たり前のように言うのだが、しかしもしそこでおこってクレームをつけることをしたら、逆に寛容でない奴だと言われてしまうだろう。
その時むかっと来たので不機嫌そうな態度をとったら「ムルニカケンチャナヨ(水だから大丈夫だ)」と諭されるように言われたが、日本だったら謝るのが当たり前の行為でも、韓国ではまあいいじゃないかというのが当たり前で、このようにお隣の国であっても道徳観は違うのであるから、アメリカのような多様性の国において正義や道徳を定義することは非常に難しいことである。

しかし私は今回の大震災を通して、日本人が秩序を守り、お互いを助け合う民族であることを知ることができたし、そしてそれらはわれわれが受けて来た道徳教育や、学校生活におけるコミュニティーのあり方を通して形成されてきたものであると信じることができることを思わされたことは、事実であり、改めて日本人の教育は間違ってはいないと言うことができるのかもしれない。

少し話しは卑近であるが、我々は小さい時からうそをついてはいけないと言うことを言われて育ってきた。 
このうそをつくなと言うのは、人に迷惑をかけるなということと同等で、われわれがうそをつけば他人に迷惑がかかる。
だからそういう他人に迷惑がかかるようなうそはついてはいけない、言ったことを守ろうとするのが日本人だ。
だから日本人は約束を守るし、曖昧な態度はとるがうそはつかない民族であると信じている。
ブラジルなんかに行けばわかるらしいが、日本人はたいへん信用されているらしい、もし現金の入ったカバンを誰かにあずけるなら日本人にあずけろということわざのような言葉があるらしいが、日本人は政治をのぞいて、それだけ世界から信用されているのである。

私は多様性を認めない群れと言うのに非常に問題を感じているが、しかし我々日本人が、このつながりであるコミュニティーを通して自分たちの質が高められると言うことは確かなことであるし、自分たちのコミュニティーをこのグローバリゼーション化の中で、確かなものにしてく必要があり。そのためその質と深さについて考える必要があると思っている。

よく外国に行ったら日本人のよさがわかるというが、これに関しては私も同感だ。
仕事や留学などで日本を離れた人は、たいていの人はその日本人のよさとわるさを考えさせられ、その日本人の良さと言うものを改めて実感させられると言うが、私自身もそのことがよく理解できたと思っている。
私の場合は少し複雑であったが、しかし他の文化と比較し、それを知ること日本のよさというものを再確認できた。その体験は国籍を選択できるわれわれにとって大きなことであったと思っている。
これは私の持論だが、本当にこの国のよさを知るためには、外に出て他と比較することが不可欠である。
せまいコミュニティーはこの比較こそできないので、村社会になりがちだが、こういう村社会にならないためにも、外の世界から自分たちを見る必要があるのだ。
これも持論であるが今の時代、語学に疎い集団は保守的である。
ある雑誌の財界人のインタヴューで国語教育をへらしても英語教育に力を入れることが必要かというのにたいして、全員YESと答えていたが、それだけグローバル化の波はすすみ、英語を理解する必要性がでてきているのである。








 






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