脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

キムホヨン ヌグエヨ

2011-07-28 | Weblog
キムホヨン????ヌグエヨ(誰それ)?
チョノム(あいつ)
アアッ イルボンノムトウル(ああ日本野郎)

日曜日子供会のドッジボール大会でのこと、休み時間に子供たちがおにごっこのような感じで楽しそうに走り回っている。
そこに一人の子供がいた、彼はその群れでいっしょに走り回っているのだが、しかし彼はタッチされない。
みんなわいわいと他の子にタッチして走り舞っているのだが、彼の存在に気づかないのかほとんど素通り状態である。
それでも彼はその群れの中で、満足そうに走っている。時々誰かが一言話しかければ楽しそうに笑うが、どうやら彼はその群れでは透明の存在である。
その時二人の子供の会話が耳に入った。
「次の試合の組、俺と誰々と、そして何々っていう奴」
「何々って誰」
その会話を聞いて、あれ「何々君」はあの子だろ。自分たちと同じチームだろ。なのに名前も知らないのか?と少しさびしい気持ちになったが、しかし残酷ではあるが子供の世界はしょせんこういうものかも知れない。

時々こういう子供を見かけるのだが、人の輪に入れない子供は、往々にして個性が強いとか、IQが極めて高いと言うような子供が多い、私自身も生まれながらに人との違いを感じて育ったので、どちらかというと透明の存在に近かったのだろう、しかし日本人は違いと言うものを本当の意味で理解できないのか?こういう存在の人間を育てるのが下手であると思う。

私はこのコミュニティーの人たちが信用できる人たちなので、そのドッジボールの練習のことである提案をした。
それはこのチームの子供たちが実際試合になると、同じ人間ばかりがボールを回しているように見えたからであり、もう少しまわりにパスをまわすように、練習の時も実際にそのことを実践させて見てはどうかということである。
たぶんそんなことをしても子供のことだから、にわかにそういうことが実践できるはずはない、しかし実際みんなにパスを回すと言うことを心がけることで、自分よりも体力のおとったものや、低学年の子供にパスをするということに気づく子供がひとりでもいればいいと思ったからである。

透明な存在は誰かが気づかなくては透明である。
しかし誰か一人でも彼、彼女の存在に気づくものがいれば、その彼彼女は透明ではない、彼、彼女はちゃんとそこに存在するのである。
私は誰かがひとりの存在に気づくということは、まず多様性と言うものを認めることからはじまると思っている。
日本人は単一民族でみんな同じと言うことを強調する民族なので、実にその多様性を認めると言うことは、難しいことであるが、しかしその違いと言うものを理解し、認めていかなくてはならないと思っている。
私が英語にこだわるのは、共通語をおぼえたり、他の文化にふれることで、ああ自分とは違う人間がたくさん存在するのだ、自分たちが生きている世界がすべてではないということを実感してほしいからである。
もし韓国に行ってクラスで自分の名前が出た時に「誰それ」「ああ日本人野郎か」と言う言葉を聞いたらどうだろうか?
ただ人種や文化が違うだけで透明にされてしまうということは、悲しいことであろう。
我々の世界もドッジボールのようにパスを回しあわなくてはならない、多様性を認めると言うことは様々な意見を聞くことやその文化にふれることからできることだと思うのだが、こういう相手を認めると言う学習とか訓練を我々はしなくてはならない、それが英語などの語学や他の文化や哲学や宗教を学ぶと言うことで、所謂相手を知るためのパスをまわすということである。

これに反して「同じ」と言うことや「団結」ということばかりを求めてしまうとバランスがわるくなる。
私は思う。我々のようにどこに向かっているか分からない、ひとりびとりが好きなことをやって、目指すものが違う、コミュニティがあってもいいだろう。
日本人はまとまっていると言うことをよしとするが、しかしこのまとまっているというのは何なのだろうか?私からすれば単にべたべたして仲がいいというだけで、閉鎖的であるだけだ。
仲間とか家族的という言葉はこういう公共の場においては必要のない言葉である。
無論それは仲間に入れない少数の人間のことを考えたらということであるが。しかし保守的であるとバカの一つおぼえのようにこういう言葉、雰囲気で協調しようとするが、こういう集団はある意味自分たちでパスを回している子供と同じである。
自分たちはこんなに仲がいいということを協調するのもいいが、しかし今は21世紀で多様性を認めなくてはならない時代である。たぶんこういうことを強調するのは、外の世界に出たことがない、語学がまったくダメだと思うが、実際にそういう奴らを見て見たらいい。
今本当に改めて公共性とか平等と言うことを問うことが必要であり、この公共性とか平等と言うのは、全体を通してみなくては見えてこないことがらであるから、このことを深く考えることが多様性を認めることとつながると信じている。


個性の強い子供はIQの高い子供が多く、やたら計算がはやかったり、驚くほど暗記力にすぐれていたり、中には何か国語も話す子供もいる。
こういう子供に礼儀とかバカなしきたりが通用するはずはない、言うことが大人びているので、中にはあいつは生意気だとか、子供らしくないと言うようなバカもいるが、しかし子供らしくないのが彼、彼女の個性であり、彼、彼女らは自分のこういう個性を十分に知っていると思うのだが、IQの高い子にはへんに大人ぶらずに、まともに話してやったらいい、こういう時も礼儀とか、上下関係など気にしていては何もできないが、とにかく同じ目線で話してやると信用されることもあるだろう。

















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