脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Devils adovocate 3

2011-07-06 | Weblog
少し前新聞に英語でサッカーを教えているクラブについての記事が載っていた。
ここではサッカーができる年齢ぐらいから中学生までを対象にしているそうだが、結構入会してくる人が多いらしいのだが、オリーヴでも近い将来英語ボクシング教室を開催しようと思っている。
サッカーと言うスポーツは非常に先見の目があるように思える。
その組織なんかも私が大きらいな封建的とは言えず。アスリートのために公平に機能していると理解しているが、現に言葉をおぼえて外国で活躍する選手の数も多いし、そういう選手たちのインタヴューは非常に興味深い。
以前あるボクサーが「俺が世界を変える」と言うようなことを言っていたが、勢いで言うのはいいのだが、しかし言葉がつたなく「Why」「What」「How」ということがよく分からず、抽象的で伝わってこない。
これに比べて言葉をおぼえて外国で活躍する選手は、この「Why」「How」「What」がはっきりしていて、聞いていてもおもしろいし伝わってくるものが違うように思えるのだが、やはりこの差と言うのは語学をおぼえて実際違う世界で活躍しているか、していないかの差だと思っているが、よく言うが英語をおぼえると言うことは、自分の意見やキャリアをひろげていく上でも不可欠で、物事を深く洞察していくことも英語的であると言うことが今の時代には求められるので、この英語をおぼえるかおぼえないかは重要な事柄である。

しかし言葉と言うものを、生きるためにおぼえなくてはいけない人間もいる。
これは自分の子供の頃の話しだ、自分の小学校にある民族の子供が引越してきた。
アジア人と言うのは他民族との交流がないので、往々にして自分たちと違うというものに対して、抵抗がありがちで、そのコミュニティーの結びつきがつよかったり、幼稚であるとその違うものに対して排除する傾向がある。
その子供も言葉をうまく話せないのか、まわりからバカにされ、おちょくられくやしい思いをしていた。
彼も多少は日本語は話せたのだろうが、所詮付け焼刃でマスターしたという域ではない、ある時彼がおちょくられた時に「クマンハセヨ(やめてくれ)」と言ったことがきっかけで、こいつをおちょくったら面白いことをいうということで、いじめはさらに悪化した。私は彼と仲がよかったので、いろいろと話しをしたのだが、正直言葉がうまく話せないと言うことでバカにするのはおかしい、こういう考え方は単一民族だからこそおこりうるのである。
その時彼はもう日本語は話したくないと泣いていたが、その言葉に同情し、彼をいじめてた人間に憤りを感じて、二人で襲撃してやろうか何て思ったが、しかしそうしたら自分の正体がばれるのがいやで、これ以上深くかかわることはなかったが、しかしどういうやり方でも彼を助けられなかったことは、わたしにとってのひとつの後悔であり、この時勇気を出して、悪いことだと主張すべきであったと思っている。

私がよく軍団でかたまるような人間をきらうのは、考え方が狭く、同じような人間でかたまると同じような考え方や雰囲気をもち多様性を認めることができないからである。
正直このグローバルで多様性を認めなくてはいけない時代に、親玉を中心にかたまるメンタリティーは稚拙である。
そこには師弟関係や上下関係があって、必ず親玉がいるのだが、ひどいのになるとその親玉の親玉がいて、つながっているのだが、親玉にわかったような顔をされてひよっこあつかいされて何とも思わないのだろうか?
日記も書いたが大学生ぐらいの大人に上から目線で成長した何て言うのは失礼だ、そいつがおしめをかえたわけでもないのにあたかも自分の子供のように(子分にするには一番てっとりばやい方法だが)上下関係をはっきりさせて従わせることは、人権を無視している。
はっきり言って未だにそういう閉鎖的で差別的なものの考え方が残っているとしたら、こういう親玉を中心とする封建的な軍団だ。
こういう人間は、親とかそういう人間が喜ぶつぼを知っているので、一部の人間にはめちゃめちゃうけはいいが、しかし自分のテリトリー以外の世界を相手にしないので本当のことがわからず、いやな思いをして泣き寝入りしている人間もいると私は見ている。
さらに私にしてみたら、こういう軍団の中でハイハイと言うことを聞いてやるのは芸である。たとえそれで強くなってもこういう軍団にいる限りは、芸を仕込まれているようにしか見えないのだが、今大事なことは、自分がどこにつながっているかではない、自分自身がどうかである。
自分自身がそこで何をしたいのか、どうありたいのかということは自分でしっかりと考えなくては、答えを見出すことはできない、同じような連中でかたまり、親玉の言うことをハイハイと聞いているような世界では、そこで何かを成し遂げても芸のひとつをおぼえたに過ぎず、悪いがそういう芸ならばサルでもできると思うのだが、自分たちは特別だと威圧感たっぷりに、あまり賢くなさそうな奴が、試合前にパンパンパンと見事にミットをたたく姿は芸と言わずして何なのだろうか。
何のために人間は知性を与えられているのだろうか?知性と言うのは人間に特有のもので、人間だけがホモサピエンスというのも人間だけが知性を持っているからで、その知性や考えと言うのが人間の個性であって、ひとりの親玉を中心にハイハイとまとまること自体おかしいのではないか?
このブログは実際かなり多くの人が見ている。
この場をかりて若い人たちにすすめるが、英語や語学をおぼえると言うのは非常に大事なことで、もしおぼえていろいろな文化や考え方にふれ尊重できたならば、親玉がいて、師弟関係があるような封建的な世界がいかにバカげているかわかる。
実際英語をおぼえて向こうの大学や高校に入ってスポーツしてもいいだろう。むこうに行けば人から何かをやらされるのではなく、自分ですべて考えてやらなくてはいけない。少なくともそういうことが分かるであろう。
むこうに行けば分かるが、大学生ぐらいの人間に子供のような道徳観を語るバカもいないし、威張る奴もいない。
とにかく英語やほかの言葉をおぼえると言うことは当たり前だが、今の社会には必要であり、私はこのくだらない封建社会を解体させるのは英語や外国語の普及によると考えている。

最後に私から見て、海外のサッカーの監督と言うのは有能なビジネスマンか大学教授のように見えるのだが、それに比べて子分を集めていばるような人間はどう見てもやくざの親玉にしか見えない。














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いさぎよすぎるんじゃない

2011-07-04 | Weblog
何年か前に試合があった時に採点法がボタンになっていた。
これはあるオリンピックの疑惑の採点をめぐって導入されたものであるが、しかしこの採点法には少々採点する側にも技術が必要ではないだろうか。
そのスパーリング大会は、実際そのパンチのヒットポイントがスクリーン上の画面に現れるのであるが、しかしあまりにもヒットポイントの数が少なく、何分間もうちあって「2」とか「3」いっても「8」ぐらいで、おそらくジャッジする側もこの採点法にいささかとまどっているのではないかというのが私の意見である。
その時もポイント的に1ポイント差でリングを降りた選手に、対戦相手がいかにも自分の勝ちだというような感じであいさつにきたのだが、しかし私に言わせて見れば、その試合は採点法の不慣れという点を考えて、ポイントがひとつ多いぐらいでは勝ちとは言い難いもので、終わってからその選手にあれだけうちあって、とにかくあたったら1ポイントとみなされるアマチュアにおいて、ヒットとみなされるパンチの数が「1」とか「2」って言うことありえんやろと言ったが、この結果は人間の感覚の限界を物語っているようなもので、オリンピックであれだけスピードの速い選手のパンチを、専門家でもあるまいし、人間の肉眼でどこまでとらえることができるかあやしいものである。
それにしても日本人は負けをあっさり認めすぎである。
終わってからも負けた選手に堂々とあいさつに行くのであるから、驚いたのだが、こういう行為は向こうではあまり見られない。プロの試合などでは、終わった後にハグし合ったり、たたえ合うが、しかしそれはおわってリングの上での話しで、勝った相手にありがとうとわざわざ言いに行くのも何であるが、もし向こうなら勝った相手に「Thank you」などと手を差し伸べれば「What(何が)」と驚かれるであろうが、むこうはいくらアマチュアであっても勝負は勝負、こういう時はシビアなのだ。


その試合はずっと前から、審判たちも公平で高圧的ではないので、気持ちよく参加できるのだが、その大会が雰囲気がよく気持ちよく参加できるのは、偉そうな体育会系の軍団が牛耳っていないからだと理解しているが、封建的な連中がその大会や試合を牛耳るとその大会自体が一部の人間たちのものになってしまいがちであるが、しかしそこはできるだけたくさんの人たちを競技に参加させようと言う心づかいが見られる。
現に会場は真面目そうな人間からヤンキーっぽいのなど様々で、一目見てどこの軍団に属しているか分かるような輩たちとは大違いである。
前のブログで「人権」と言うのはたいへん重要な事柄で、人権教育を十分理解していないと組織と言うのは封建的になり、人の権利をおろそかにしてしまいがちであると言うことを述べたが、物事を反対側から言えば封建的であること自体人権が守られることがないと思っているのだが、封建的な社会にどっぷりつかった人間は、ただ言われたことをやってきただけなので、人間の権利や自由と言うことに関して少々というかかなり疎いと考えている。

正直そのスパーリング大会には、髪の毛が茶色というような感じのヤンキーもいたが、いろいろな人間がいるので、ボクシングと言う競技をする上では気になることはないと思う、たぶん気になるとしたらそういう軍団がヤンキーとか怖いお兄さんと同列だからこそ、うざいわけであって、こういう軍団の親玉は、礼儀とかその他のことにおいても自分たちと同じでなければ気にいらない、認めないからやっかいであるのだが、しかしもし礼儀と同じように、アマチュアの選手は競技理解のために、国際試合にToeic何点以上でないと出場できないという規定を設けらたらどうするつもりなのか見ものであるが、もしそうなったら言葉も理解できないので、言い返すこともできないと思うが、親玉も含め国内で自分たちの後ろ盾が多いからいばれるというのは非常にみじめである。
正直こういう封建的と言うか、いかにも体育会系の軍団が多いと、会場などはある種の威圧感と閉塞感を感じるので、不快でうっとうしいので行きたくないと思っているのであるが、さらに彼らがうっとうしいのは、その威圧感が全体を通して軍団ででていることである。













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Devils adovocate 2

2011-07-01 | Weblog
昔から私はおかしいと思ったことに対して意見をする人間で、そのため敵をつくったりしたものだが、まわりもよく分かっているとおもうが、とにかく物事をはっきり言う人間である。
正直最近のアマチュアは弱くなった、余計なお世話だと言われればそれまでだが、83年のロサンゼルスオリンピックなんて全盛期だっただろ。私も影響を受けて、たいした才能もないくせに、日本のために競技したい、日本人として自分も出場で来たらいいとがんばったものだが、今やそのオリンピックも今では鳴かず飛ばずの状態である。

私自身の分析ではボクシングが弱くなった原因は二つあると思っている。
一つは前にも言ったが語学ができない、特に英語を話したり、外国語を話せる人間がほとんどいない、ある程度のレヴェルでボクシングをやっていて英語を片言でも話せる奴など聞いたこともないが、だいたいそういう奴に「英語は?」と聞くと「赤点でした」と言うのがおちで、この件に関しては以前ブログで取り上げたが、今や情報と言うのは英語が読めるか読めないかということは非常に重要なことである。しかしこういう時代にあっても「英語は?」と聞かれて「赤点でした」と臆面なく言えると言うことは、自覚していない、もう少しそういう語学の重要性を自らが説くと言うことは非常に大事なことではないだろうか?

さらにもう一つは封建的であること、これは正直私は元凶だと考えている。
この世界は封建的すぎてついていけない、そういうことを言うと村八分にされることは間違いないのだが、しかし何かわからないが特別な人間が集まって自分たちで礼儀とか常識を作り上げているようで、それにあてはまらないというか従わない人間は、あいつはなっていないとか、礼儀ができていないなどと、レッテルをはられ相手にされず損をすることが多いのだが、審判やジャッジの印象がわるくなるなんていう発言はおかしい、ルールに従って競技しろと言うのはわかるが、審判の印象をよくしろとはどういうことだろうか、こういう言葉は試合前には異常と言っていいほどつかわれるのだが、ほとんどの審判は忙しい中時間をとってボランティアできてくれているのに、こういうことを言うと審判やジャッジと競技者の間に溝ができるではないか。こういう言葉に権威主義があらわれているのだが、それは一部の人間であろう。

私は正直「Tatoo」ぐらいならば試合に出場してもいいと言う考えである。
うちのクラブはそういう人はいないのだが、おそらくそういう人間は素行に問題があるとみなしているのだろうか?しかし私自身はたくさんの不良と言うものとかかってきて、かなり迷惑をかけれてきたが、基本的に彼ら彼女らは、自分たちがわるいと言うことは分かっているので、悪いと言うことに対しては信頼と言うものがあれば受け入れようとする。しかしこれに対してボスザルにしか服従できない封建的な世界に生きる輩のほうが、そこで教えられるヒエラルキーや、くだらないプライドや価値観があるので厄介でたちがわるいと思っている。
おもしろいことに封建的な世界に生きる奴を見ると、必ずそいつの親玉と言うのが見えてくる。
何々組系何々組といったような感じで、さしづめその群れのティーンエイジャーは構成員というところだろうか?
そういう奴に限って一匹オオカミなどとほえているが、しかし実際そいつを見ると、その仲間や親玉の存在が何々軍団を通してぞろぞろと100匹以上でてくるのだが、同じ髪型で同じ服を着て監督やOBに気を使う姿はまさにそれで、軍隊ややくざの組織であれば○であるが、しかし今の教育としては人権問題なども含めてブーッである。

はっきり言って封建的であると、スポーツを一般化することは難しい、なぜならそういう世界は往々にして、今考えたらおかしい、人権にかかわることが封建制と言う権威主義という名のもとで絶対化されるからである。

人権教育というものがしっかりとしていない、理解していないと言うのは非常に偏りがあり、封建的になりがちだ、ある意味それは世代と言うことにも言えると思うのだが、組織が若返ると言うことは大事なことである。
私は考える。封建的である組織を崩すためには、意見が言えて英語を話せる30代あるいは40代、場合によっては20代でもいい、そしてさらに男に気をつかわない、お茶くみしない女性の存在が必要である。

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