少し前新聞に英語でサッカーを教えているクラブについての記事が載っていた。
ここではサッカーができる年齢ぐらいから中学生までを対象にしているそうだが、結構入会してくる人が多いらしいのだが、オリーヴでも近い将来英語ボクシング教室を開催しようと思っている。
サッカーと言うスポーツは非常に先見の目があるように思える。
その組織なんかも私が大きらいな封建的とは言えず。アスリートのために公平に機能していると理解しているが、現に言葉をおぼえて外国で活躍する選手の数も多いし、そういう選手たちのインタヴューは非常に興味深い。
以前あるボクサーが「俺が世界を変える」と言うようなことを言っていたが、勢いで言うのはいいのだが、しかし言葉がつたなく「Why」「What」「How」ということがよく分からず、抽象的で伝わってこない。
これに比べて言葉をおぼえて外国で活躍する選手は、この「Why」「How」「What」がはっきりしていて、聞いていてもおもしろいし伝わってくるものが違うように思えるのだが、やはりこの差と言うのは語学をおぼえて実際違う世界で活躍しているか、していないかの差だと思っているが、よく言うが英語をおぼえると言うことは、自分の意見やキャリアをひろげていく上でも不可欠で、物事を深く洞察していくことも英語的であると言うことが今の時代には求められるので、この英語をおぼえるかおぼえないかは重要な事柄である。
しかし言葉と言うものを、生きるためにおぼえなくてはいけない人間もいる。
これは自分の子供の頃の話しだ、自分の小学校にある民族の子供が引越してきた。
アジア人と言うのは他民族との交流がないので、往々にして自分たちと違うというものに対して、抵抗がありがちで、そのコミュニティーの結びつきがつよかったり、幼稚であるとその違うものに対して排除する傾向がある。
その子供も言葉をうまく話せないのか、まわりからバカにされ、おちょくられくやしい思いをしていた。
彼も多少は日本語は話せたのだろうが、所詮付け焼刃でマスターしたという域ではない、ある時彼がおちょくられた時に「クマンハセヨ(やめてくれ)」と言ったことがきっかけで、こいつをおちょくったら面白いことをいうということで、いじめはさらに悪化した。私は彼と仲がよかったので、いろいろと話しをしたのだが、正直言葉がうまく話せないと言うことでバカにするのはおかしい、こういう考え方は単一民族だからこそおこりうるのである。
その時彼はもう日本語は話したくないと泣いていたが、その言葉に同情し、彼をいじめてた人間に憤りを感じて、二人で襲撃してやろうか何て思ったが、しかしそうしたら自分の正体がばれるのがいやで、これ以上深くかかわることはなかったが、しかしどういうやり方でも彼を助けられなかったことは、わたしにとってのひとつの後悔であり、この時勇気を出して、悪いことだと主張すべきであったと思っている。
私がよく軍団でかたまるような人間をきらうのは、考え方が狭く、同じような人間でかたまると同じような考え方や雰囲気をもち多様性を認めることができないからである。
正直このグローバルで多様性を認めなくてはいけない時代に、親玉を中心にかたまるメンタリティーは稚拙である。
そこには師弟関係や上下関係があって、必ず親玉がいるのだが、ひどいのになるとその親玉の親玉がいて、つながっているのだが、親玉にわかったような顔をされてひよっこあつかいされて何とも思わないのだろうか?
日記も書いたが大学生ぐらいの大人に上から目線で成長した何て言うのは失礼だ、そいつがおしめをかえたわけでもないのにあたかも自分の子供のように(子分にするには一番てっとりばやい方法だが)上下関係をはっきりさせて従わせることは、人権を無視している。
はっきり言って未だにそういう閉鎖的で差別的なものの考え方が残っているとしたら、こういう親玉を中心とする封建的な軍団だ。
こういう人間は、親とかそういう人間が喜ぶつぼを知っているので、一部の人間にはめちゃめちゃうけはいいが、しかし自分のテリトリー以外の世界を相手にしないので本当のことがわからず、いやな思いをして泣き寝入りしている人間もいると私は見ている。
さらに私にしてみたら、こういう軍団の中でハイハイと言うことを聞いてやるのは芸である。たとえそれで強くなってもこういう軍団にいる限りは、芸を仕込まれているようにしか見えないのだが、今大事なことは、自分がどこにつながっているかではない、自分自身がどうかである。
自分自身がそこで何をしたいのか、どうありたいのかということは自分でしっかりと考えなくては、答えを見出すことはできない、同じような連中でかたまり、親玉の言うことをハイハイと聞いているような世界では、そこで何かを成し遂げても芸のひとつをおぼえたに過ぎず、悪いがそういう芸ならばサルでもできると思うのだが、自分たちは特別だと威圧感たっぷりに、あまり賢くなさそうな奴が、試合前にパンパンパンと見事にミットをたたく姿は芸と言わずして何なのだろうか。
何のために人間は知性を与えられているのだろうか?知性と言うのは人間に特有のもので、人間だけがホモサピエンスというのも人間だけが知性を持っているからで、その知性や考えと言うのが人間の個性であって、ひとりの親玉を中心にハイハイとまとまること自体おかしいのではないか?
このブログは実際かなり多くの人が見ている。
この場をかりて若い人たちにすすめるが、英語や語学をおぼえると言うのは非常に大事なことで、もしおぼえていろいろな文化や考え方にふれ尊重できたならば、親玉がいて、師弟関係があるような封建的な世界がいかにバカげているかわかる。
実際英語をおぼえて向こうの大学や高校に入ってスポーツしてもいいだろう。むこうに行けば人から何かをやらされるのではなく、自分ですべて考えてやらなくてはいけない。少なくともそういうことが分かるであろう。
むこうに行けば分かるが、大学生ぐらいの人間に子供のような道徳観を語るバカもいないし、威張る奴もいない。
とにかく英語やほかの言葉をおぼえると言うことは当たり前だが、今の社会には必要であり、私はこのくだらない封建社会を解体させるのは英語や外国語の普及によると考えている。
最後に私から見て、海外のサッカーの監督と言うのは有能なビジネスマンか大学教授のように見えるのだが、それに比べて子分を集めていばるような人間はどう見てもやくざの親玉にしか見えない。
ここではサッカーができる年齢ぐらいから中学生までを対象にしているそうだが、結構入会してくる人が多いらしいのだが、オリーヴでも近い将来英語ボクシング教室を開催しようと思っている。
サッカーと言うスポーツは非常に先見の目があるように思える。
その組織なんかも私が大きらいな封建的とは言えず。アスリートのために公平に機能していると理解しているが、現に言葉をおぼえて外国で活躍する選手の数も多いし、そういう選手たちのインタヴューは非常に興味深い。
以前あるボクサーが「俺が世界を変える」と言うようなことを言っていたが、勢いで言うのはいいのだが、しかし言葉がつたなく「Why」「What」「How」ということがよく分からず、抽象的で伝わってこない。
これに比べて言葉をおぼえて外国で活躍する選手は、この「Why」「How」「What」がはっきりしていて、聞いていてもおもしろいし伝わってくるものが違うように思えるのだが、やはりこの差と言うのは語学をおぼえて実際違う世界で活躍しているか、していないかの差だと思っているが、よく言うが英語をおぼえると言うことは、自分の意見やキャリアをひろげていく上でも不可欠で、物事を深く洞察していくことも英語的であると言うことが今の時代には求められるので、この英語をおぼえるかおぼえないかは重要な事柄である。
しかし言葉と言うものを、生きるためにおぼえなくてはいけない人間もいる。
これは自分の子供の頃の話しだ、自分の小学校にある民族の子供が引越してきた。
アジア人と言うのは他民族との交流がないので、往々にして自分たちと違うというものに対して、抵抗がありがちで、そのコミュニティーの結びつきがつよかったり、幼稚であるとその違うものに対して排除する傾向がある。
その子供も言葉をうまく話せないのか、まわりからバカにされ、おちょくられくやしい思いをしていた。
彼も多少は日本語は話せたのだろうが、所詮付け焼刃でマスターしたという域ではない、ある時彼がおちょくられた時に「クマンハセヨ(やめてくれ)」と言ったことがきっかけで、こいつをおちょくったら面白いことをいうということで、いじめはさらに悪化した。私は彼と仲がよかったので、いろいろと話しをしたのだが、正直言葉がうまく話せないと言うことでバカにするのはおかしい、こういう考え方は単一民族だからこそおこりうるのである。
その時彼はもう日本語は話したくないと泣いていたが、その言葉に同情し、彼をいじめてた人間に憤りを感じて、二人で襲撃してやろうか何て思ったが、しかしそうしたら自分の正体がばれるのがいやで、これ以上深くかかわることはなかったが、しかしどういうやり方でも彼を助けられなかったことは、わたしにとってのひとつの後悔であり、この時勇気を出して、悪いことだと主張すべきであったと思っている。
私がよく軍団でかたまるような人間をきらうのは、考え方が狭く、同じような人間でかたまると同じような考え方や雰囲気をもち多様性を認めることができないからである。
正直このグローバルで多様性を認めなくてはいけない時代に、親玉を中心にかたまるメンタリティーは稚拙である。
そこには師弟関係や上下関係があって、必ず親玉がいるのだが、ひどいのになるとその親玉の親玉がいて、つながっているのだが、親玉にわかったような顔をされてひよっこあつかいされて何とも思わないのだろうか?
日記も書いたが大学生ぐらいの大人に上から目線で成長した何て言うのは失礼だ、そいつがおしめをかえたわけでもないのにあたかも自分の子供のように(子分にするには一番てっとりばやい方法だが)上下関係をはっきりさせて従わせることは、人権を無視している。
はっきり言って未だにそういう閉鎖的で差別的なものの考え方が残っているとしたら、こういう親玉を中心とする封建的な軍団だ。
こういう人間は、親とかそういう人間が喜ぶつぼを知っているので、一部の人間にはめちゃめちゃうけはいいが、しかし自分のテリトリー以外の世界を相手にしないので本当のことがわからず、いやな思いをして泣き寝入りしている人間もいると私は見ている。
さらに私にしてみたら、こういう軍団の中でハイハイと言うことを聞いてやるのは芸である。たとえそれで強くなってもこういう軍団にいる限りは、芸を仕込まれているようにしか見えないのだが、今大事なことは、自分がどこにつながっているかではない、自分自身がどうかである。
自分自身がそこで何をしたいのか、どうありたいのかということは自分でしっかりと考えなくては、答えを見出すことはできない、同じような連中でかたまり、親玉の言うことをハイハイと聞いているような世界では、そこで何かを成し遂げても芸のひとつをおぼえたに過ぎず、悪いがそういう芸ならばサルでもできると思うのだが、自分たちは特別だと威圧感たっぷりに、あまり賢くなさそうな奴が、試合前にパンパンパンと見事にミットをたたく姿は芸と言わずして何なのだろうか。
何のために人間は知性を与えられているのだろうか?知性と言うのは人間に特有のもので、人間だけがホモサピエンスというのも人間だけが知性を持っているからで、その知性や考えと言うのが人間の個性であって、ひとりの親玉を中心にハイハイとまとまること自体おかしいのではないか?
このブログは実際かなり多くの人が見ている。
この場をかりて若い人たちにすすめるが、英語や語学をおぼえると言うのは非常に大事なことで、もしおぼえていろいろな文化や考え方にふれ尊重できたならば、親玉がいて、師弟関係があるような封建的な世界がいかにバカげているかわかる。
実際英語をおぼえて向こうの大学や高校に入ってスポーツしてもいいだろう。むこうに行けば人から何かをやらされるのではなく、自分ですべて考えてやらなくてはいけない。少なくともそういうことが分かるであろう。
むこうに行けば分かるが、大学生ぐらいの人間に子供のような道徳観を語るバカもいないし、威張る奴もいない。
とにかく英語やほかの言葉をおぼえると言うことは当たり前だが、今の社会には必要であり、私はこのくだらない封建社会を解体させるのは英語や外国語の普及によると考えている。
最後に私から見て、海外のサッカーの監督と言うのは有能なビジネスマンか大学教授のように見えるのだが、それに比べて子分を集めていばるような人間はどう見てもやくざの親玉にしか見えない。