脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

逆説的ボクシング

2008-01-16 | Weblog
自分はボクシングの対戦をする時、相手が自分だったらどう攻めていくかと言うことを考えたものである。
普通はどう攻めるかということを考えて、自分のパターンを考えるのだが、しかし自分の場合は、自分がこういうスタンスで立っていたら、相手はこう攻めてくるというシュミレーションをしながら、パンチを撃つパターンを決めて、そしてそこから有効ななパンチを選び練習したものである。
ボクシングというのは攻撃ばかりが目立つ。
恐らくこういう視点にたてば、今まで攻撃主体であったボクシングから、今度は防御主体のボクシングに変わりバランスがとれてくる。
ボクシングも半年もすれば、ディフエンスの重要性も見えてくる。
攻撃するボクシングだけではなく、時には相手がどう攻撃してくるかと言うことを考えて練習することも必要である。


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フリーダムライターズ

2008-01-15 | Weblog
映画フリーダムライターズを見た。自分的には素晴らしい映画で、あらためて教育の素晴らしさを実感した。
映画の内容はこれから見る人がいるといけないので、詳しくは書かないが、ヒラリースワンク演じる一人の女性教師が人種同士いがみあい、暴力と人種差別によってあれはてた学校を、一冊の日記をつけさせることによって変えていく物語である。
私はこの映画をみて思ったのは、「学ぶこと」の素晴らしさ、大切さ、必要性である。
彼女が受け持ったクラスの大半が、小学5年生以下の学力というのもかかわらず、彼女はその生徒達に、何でもいいから日記をつけろと日記をつけさせ、そしてそこから本を読むことを教え、学ぶことの大切さを教えたのであるが、生徒達はその学びの中で次第に人間の尊厳と支え合うことの大切さを知っていくのである。
極めつけはある子どもが路上生活を強いられ、学校に来ることさえ抵抗があったが、しかしこのクラスに受け入れられ、先生が僕に希望を与えてくれたということを言ったシーンがあったが、まさに彼女は「教えること」そして「学ぶこと」によってそのクラスを一つの希望に変えた、改めて教育って素晴らしいんだと思わされる、何度もいうが素晴らしい映画である。
巷では少し勉強じゃあ学校じゃあだめだからとスポーツに頼る、愚かな傾向さえあるような気がする。
ボクシングやサッカーだけしかしないようでは、ろくな人間にならない。これが私の持論である。
しかし学ぶことは人間にとって一番尊いことである。
なぜなら日記のように言葉にし、それを受け取ることによって、その人の気持ちがダイレクトに伝わるし、そのことによって刺激を受けいろんなことに目が開かれるからである。
生徒達は今まであまり字を書くことさえあまりなかった。
しかしこの一冊の日記に、自分の気持ちを言葉にぶつけることで、気持ちに変化がでたのは確かなことである。
そこでもっと自分の気持ちをきちんと伝えたいと思ったものもいるだろうし、書いていくうちに言葉の重みを知ったもの、様々ではあるが、本を読んだりものを書いたりしなかった生徒達が、日記をつけるという行為から、刺激をうけたのは確かなことである。
映画のシーンで生徒たちが「アンネの日記」に興味を持ち、やがてそのアンネをかくまった人が生きていることを聞いて、その人を募金活動などで学校に招き話を聞くのだが、まさにそういったことも、その日記からはじまったのである。
この物語は実話である。
今までろくすっぽ勉強もしない、中にはギャングに属しているような子ども達が、一冊の日記によって学ぶ大切さを教えられ、そしてそのクラスの多くの生徒が大学に進学し学んでいるそうである。
今学級経営において、いろんなテクニックが要求される時代にあって、こんなことを言ったら、わかっていないと言われるのは当たり前のことだが、しかし大事なことは学ぶ大切さである。
人間は学ぶことによって本当の自分を知り、このことによってのみ,根本から変えられていくのではないだろうか。

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自信

2008-01-11 | Weblog
日本の厳しい運動部で育ってきた選手には、ひとつのトラウマとも言えるものがある。
それは特に地方の選手に多いのだが、それは彼ら彼女らは注意されてダメ出しばかりされてきたせいだろうか、いいところをほめても、それを自信に変えていくことができない、教えていてそんな選手が意外にも多いことに気づかされる。
よく私は日本のスポーツ界は権威主義だというが、練習でも「お前そんなんだったら勝てないぞ」とか「こんなこともできないようじゃあ」というようなマイナス的な言葉がつかわれ、次のステップに行こうにも選手の妨げとなることが多い。
私は前にも言ったことだが、技術を習得するということにおいて、技術を習得するのは何も完璧でなくてもいいし、監督やコーチを納得させなければ次のステップにすすめないというのはおかしい話であり、それができなくても違うことができればいいわけであって、どんどん積極的にステップアップすればいいと思う、そしてその積極的に何かをしようとするのが自信ではないだろうか。
人に何かを言われなければ、何もできないというのはだめだ、たとえへたでも自信を持っていろんなことに挑戦していく意欲、その意欲を持たせるために選手には自信をつけさせたいと思っている。
へたでもいい我流でもいい、自信をもって練習をすれば、おのずとそれが自分流になり、きちんとボクシングができるのである。

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カミュ 異邦人を読んで

2008-01-10 | Weblog
最近昔読んだカミュの「異邦人」を読んだ。
有名な「ママンは死んだ」という言葉ではじまるこの小説は、複雑きわまりないものではあるが、人間が不条理の中で行きそして戦う姿を表しており、それはカミュの思想であるといってもよい。
物語の内容は、主人公があるきっかけで殺人をおかしてしまう。そして彼は裁判にかけられて死刑になってしまうのだが、ここでカミュは、この主人公と当時の社会的正義の代表である裁判官や司祭とのやりとりを通して、複雑な人間と正義、そしてその不条理について語る。
主人公は死刑にされてしまうのだが、しかしその裁判の中で殺人をおかした彼を、法的に裁くというよりも、彼の人間性について(例えば母親の葬式で泣かなかったとか)あれこれと議論をし、そして最終的には、彼は極悪非道な人間であると判断され、死刑にされてしまうのだが、私はここにある種の人間のヒステリックな一面と正義という名の故にスケープゴートを必要とする人間の不条理を感じる。
確かに殺人は許されることではないし、裁かれて当然である。
しかしそうだからと言って、そこであからさまに彼の人間性あばき、彼を極悪非道な人間にしてしまうのは合点がいかないことではないだろうか。
人間の心は複雑である。
カミュは「人間の行動には根拠」がないと言っているが、それはおそらくその人間のこころというものが、自分でもわからないところで暴走するということであり、この主人公が「太陽がまぶしかったから」という理由で、殺人をおかすようすをえがいたのも人間の心というものは、理解しがたい複雑なものであるからである。
この社会的正義に基づいた人物がもっともな正義、道徳をもって主人公を追いつめていく姿は、行き過ぎた正義を求め、そしてスケープゴートを求める姿は、うがったみかたかもしれないが、ある種の人間の不条理を表しているのではないだろうか。
殺人をおかした極悪非道なこんなやつ、殺人をおかしたあわれな人間、そういう人間は殺してもかまわない、かわいそうだから助けてやるしかないという、人間の行き過ぎた複雑な正義と社会の中で、殺人をおかしてしまったけれどもその中で自分とは何かと言うことを問うた主人公の姿を描いた小説、それがカミュの「異邦人」である。
個人的な話ではあるが私はいわゆる「サヨク」「人権主義者」というのは信用できない、たしかに彼ら彼女らは正しいことをいい、平和、愛を語る。
しかし自分の本能的な何かが信用させないのだ。

* ここでいう不条理(bsurde)とは実存主義の言葉で、人生に意義を見いだす望  みがないこと、絶望的、限界的状況のことである。





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がんばれ中年Ⅱ

2008-01-09 | Weblog
2月15日はスパーリング大会を予定している。
メンバーも増え今回も参加者が増えそうである。
自分たちがスパーリング大会を計画したのは、特に中年世代を励ましたいからである。
今日も「この年になって、ボクシングができるとは思わなかった」と練習生の人がいっっていたけど、ある程度年齢のいった人が、こういうはげしいスポーツに積極的に参加することで自信をつけ青春を取り戻して欲しいと思っている。
だからスパーリング大会はできる人の大会ではない、チャレンジする人のための大会である。
私も40を越えて今一番励まされることは、こういった中年の人たちが立ち上がり、がんばっている姿である。
ある程度年齢がいけば「えっボクシング」とひいいてしまうが、それでも」がんばってチャレンジしようとする中年達には頭がさがる思いである。
40を越えたら運動することに限界がある。しかしそのチャレンジ精神がある限り、ボクシングを教え続けたい。

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閑話休題

2008-01-07 | Weblog
日曜日とコーヒーショップでコーヒーを飲んでいた。
しばらくすると横におばさん連合がすわり騒ぎ始めた。
うるさいなあと思いつつも読書に集中するが、しかしあまりにも声がでかいので話が聞こえてくる。
どうやら話は学校の話である。何人かのおばさんたちがああだこうだと学校や教師の悪口を言っている。とにかくうるさい。
そしてひとりのおばさんなどは、教師の態度がどうのこうの、そしてそれに対して「私は一言言ってやった」などとまるでその話を武勇伝かのように話していた。
しかし今や立場の弱い教師や校長に一言言うというのは勇気がいることではないし、ましてや武勇伝のようにいきがって語るのはみっともない話である。
勉強を学び学校生活を送るというのは、学校側だけでの問題ではない、むしろ家庭のしつけや教育というものの方が重要である。
今や学級経営は教師の問題ではない。教室では勝手にに騒ぎ立て、注意しても聞かない子どもが増えているというが、いちどその様子を見に見学にいけば、いかに家庭のしつけというものが大事かということを、口で言うだけではなくわかってもらえるのではないかと思う。
給食費を滞納してパチンコをする馬鹿親、給食費や保育料の滞納など当たり前のような時代になり、教師をたてるどころか、家に帰ると悪口をいうような,そういう社会的環境に於いて,まともな学級経営がなりたつだろうか不思議である。
もはや子どもの教育は教師側や学校側だけに問題があるのではない。
田舎の学校では酒を飲んでの親睦会とか言うなれ合いがあるが、むしろそういう無駄な場を持つよりも、視察の機会を入れ、保護者の親にも,きちんと発題させる勉強会を開き、意見を交換するのはどうであろうか、また学級がどのようなものか知ってもらうため、TVカメラなどで、時々様子を知らせたらどうであろうかと思う。

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日本人的イマジネーション

2008-01-05 | Weblog
みなさんはハワイにゴーストツアーというのがあるのをご存じであろうか?
これはグレングラントという心霊やおばけの研究家が、ハワイのホーンテッドプレイスを紹介するツアーで、英語でしかそのツアーがないので日本人には知られてはいないが、アメリカでは少し知られているツアーである。
ハワイは古戦場が多いせいか多くの心霊話を聞く。
有名なのがよく日本人が観光地として行くカゼのきつい場所がある。
あそこはなぜか知らないが絶対豚肉を持って行ってはいけないらしく、地元の人間は絶対にそうしないそうである。
ハワイ大学にも幽霊がでるし、私の住んでいたアパートも地元ではめちゃめちゃ有名らしく(名前は言わないが)私が入居したときは、まだ前の人の荷物が残っていて「時間がない、この荷物もらってくれ」という書き置きがあり、不思議に思って大家に聞くとお茶を濁されたが、ハワイはこういういわくつきの場所が多いらしい。
そのグレングラントの書いた本に「ghost story in hawaii」という有名な本がある。
この本は日本人にとって興味深い本で、何が興味深いかというと、この本の中にははっきりとハワイでのカッパやムジナの存在が認められているのだ。
私の見解では、カッパやムジナが化けるというのは人間のイマジネーションで、こういう化け物は存在しない。
おそらくカッパやムジナは、日系人が伝えたものであろうと思うが、それにしても驚くのはこういう作り話のようなものが、ハワイに伝わり今まで信じられていると言うことだ。
私はここに日本人の持つイマジネーションのすごさというものを感じる。
漫画にしてもそうだ、漫画も日本人のイマジネーションを漫画というものを通して、アジアをはじめアメリカ、フランス世界各国に拡がっている。
漫画文化と言うが、おそらくそういうセンスは日本人よりも秀でている民族はいないのではないかと思う。
アメリカやヨーロッパでもそういう空想上の作り話がある。
しかしだいたいのストーリーが宗教的なものであり、もともと宗教的な事柄を土台にして生まれてくる創造物にはイマジネーションの限界がある。
しかし日本のカッパやムジナが化かすというのは民間伝承であり、いにしえの時代に人間が森やその特定な場所で想像力を働かせ、あるいはそれを促されてでてきた創造物であり、それは人間の生活に密着し創造性に満ちあふれている。だからおもしろいのではないだろうか。
少し話はややこしくなるが、西洋人の生き方は大きく見て、あるものが彼ら彼女らを支配している。
それが彼ら彼女らの言う宗教であり、いい悪いは別にして、そこに日本人と西洋人の差があるのではないだろうか。
おそらく基本的には一神教の西洋人の中には、本能的に超えてはならないイマジネーションがある。
しかし日本人は彼ら彼女らのように超えてはならないタブーはなく、自由に想像力を働かせて時には無知ではないかと思われるが、(エバンゲリオンや三位一体などを無意味につかうなどそうであるが)それでもいいか悪いかは別にしてイマジネーションを働かせていろんなものを想像していくそれが日本人ではないだろうか。


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ALEA JACTA EST(賽は投げられた)

2008-01-04 | Weblog
2008年の歩みがはじまった。今年もやはりクラブが会員の人に喜びを与える場として用いられることを望んでいる。
多くの人間はストレスを抱えている。よくよく考えてみると我々は日頃本当に人から尊厳を持たれているだろうか。
サーヴィス業をやっているものであればこのことはよくわかると思う。
意外と客というのは売り手に対してはぞんざいであり、いやな思いをすることもしばしばあるのではないだろうか。
去年の暮れひとりの親しい友人と会った。
自分の友人で元インターハイのチャンピオンの弟であるが、本にもでてくるちょっとした有名人である。
彼は大阪でも一番と言われるぐらいの暴走族の元リーダーで、少年院で聖書を読んで改心し、今はとある町で牧師さんをやっている。
彼がおもに面倒を見ているのは俗にいう不良少年達で、教会というようなところからは想像もできない、そんな子ども達の悩みを真剣に聞き面倒を見ているのだ。
そして抱えている子ども達はいずれも複雑で、中には人には言えない過去を抱えた子もいる。
しかしそれでも彼はその子ども達と真剣に向き合い、面倒を見ている、宗教という小さな枠にとらえられていない本物の牧師さんである。
私は彼と接していて思わされたことは、人をどれだけ本当に受け入れ、その人を心から尊重できるかということである。
どの集団もこの事がなければ無味乾燥なものになってしまうと教えられた。
クラブに来てくれる人は忙しい中、時間をさいて来てくれる。
だから教える側もひとりひとりを大切にし、受け入れ来てくれることに感謝をしながらボクシングを教えたいと思っている。
人生は戦いである、だから生きることに於いて、傷つきたおれそうになることもある。
そういうときこそみんなの支えとなれるよう、クラブが信頼の場となり、会員の人がこのスポーツを通して喜びを持ち、日頃の活力を得ることができるよう努力したいと思っている。




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