脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

カミュ 異邦人を読んで

2008-01-10 | Weblog
最近昔読んだカミュの「異邦人」を読んだ。
有名な「ママンは死んだ」という言葉ではじまるこの小説は、複雑きわまりないものではあるが、人間が不条理の中で行きそして戦う姿を表しており、それはカミュの思想であるといってもよい。
物語の内容は、主人公があるきっかけで殺人をおかしてしまう。そして彼は裁判にかけられて死刑になってしまうのだが、ここでカミュは、この主人公と当時の社会的正義の代表である裁判官や司祭とのやりとりを通して、複雑な人間と正義、そしてその不条理について語る。
主人公は死刑にされてしまうのだが、しかしその裁判の中で殺人をおかした彼を、法的に裁くというよりも、彼の人間性について(例えば母親の葬式で泣かなかったとか)あれこれと議論をし、そして最終的には、彼は極悪非道な人間であると判断され、死刑にされてしまうのだが、私はここにある種の人間のヒステリックな一面と正義という名の故にスケープゴートを必要とする人間の不条理を感じる。
確かに殺人は許されることではないし、裁かれて当然である。
しかしそうだからと言って、そこであからさまに彼の人間性あばき、彼を極悪非道な人間にしてしまうのは合点がいかないことではないだろうか。
人間の心は複雑である。
カミュは「人間の行動には根拠」がないと言っているが、それはおそらくその人間のこころというものが、自分でもわからないところで暴走するということであり、この主人公が「太陽がまぶしかったから」という理由で、殺人をおかすようすをえがいたのも人間の心というものは、理解しがたい複雑なものであるからである。
この社会的正義に基づいた人物がもっともな正義、道徳をもって主人公を追いつめていく姿は、行き過ぎた正義を求め、そしてスケープゴートを求める姿は、うがったみかたかもしれないが、ある種の人間の不条理を表しているのではないだろうか。
殺人をおかした極悪非道なこんなやつ、殺人をおかしたあわれな人間、そういう人間は殺してもかまわない、かわいそうだから助けてやるしかないという、人間の行き過ぎた複雑な正義と社会の中で、殺人をおかしてしまったけれどもその中で自分とは何かと言うことを問うた主人公の姿を描いた小説、それがカミュの「異邦人」である。
個人的な話ではあるが私はいわゆる「サヨク」「人権主義者」というのは信用できない、たしかに彼ら彼女らは正しいことをいい、平和、愛を語る。
しかし自分の本能的な何かが信用させないのだ。

* ここでいう不条理(bsurde)とは実存主義の言葉で、人生に意義を見いだす望  みがないこと、絶望的、限界的状況のことである。





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