脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

We speak japanease you know?

2008-01-17 | Weblog
少し前「ジコチュー」という言葉がはやった。
「俺ジコチューだから」と、自分は自分らしく、流されて生きていないんだということを主張しているのか、恐らくこの言葉は若い人たちの間では往々にして、肯定的につかわれてきたように思える。
しかしこの言葉英語で言えば「IM SEIFISH」である。
大の大人が英語でそんなことを言えば「お前何子どもみたいなことを言っているんだ、馬鹿じゃないのか」ということになる。
英語に比べて日本語はあいまいだというが、それは言葉そのもののことではなく、表現の問題である。
国語学的にはどうかわからないが、私はブログなどを書いていた思うのだが、言葉ひとつひとつの意味においては、日本語ほどはっきりしたことばはないと思うし、重みのある言葉はないと思う。
それにくらべて英語は表現ははっきりしているが、言葉そのものは曖昧で重みがない、例えば昔つかわれていた「charity」と言う重みのある言葉が「love」という世俗的ななことばに変わったように、時代と共に言葉そのものが一般化され変遷を経た歴史がある。
「自己中心」と言う言葉は明確である。
辞書を引いてもわかるように間違いなく否定的な言葉であり、一般的には恥ずべき言葉である。
日本人には恥の文化というものがある。そしてそういうひとつひとつの漢字や言葉には文化があり、深い意味がある。
だからそれらのことをもっと考えて、日本語は選びとられなくては恥をかく、言葉が悪いが、日本語をある程度勉強しなければ恥ずかしいことなのだ。
最近言葉を軽んじてつかわれる傾向がある。
女子高生がメールで「あけおめ」と送ってきたのには正月早々不快であった。
本当に「こいつらあほかはずかしいやつやなあ、恥を知れ」と思ったものである。
日和見主義の人間は気持ちが大事、気持ちを表してくれただけでいいじゃないかというが、しかし日本語を話す自分たちには、その日本語をある程度そういう恥や重みを含めて共通認識する必要があり、ここまで日本語にギャップがあるならば、これは自分たちの恥というよりも、相手に不快感を与えていると言っても過言ではない。
日本語を完璧にマスターしろとはいわない、自分もそれほどわかっている訳ではない。
しかしせめて人に不快感を与える、害のある日本語を使うなと言いたい。



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