アメリカ人はヒーロー求める。
私はむこうへ行ってキャプテンに任命されたが、言葉や習慣にハンデのある人間に求められたのは、それはヒーローになることであった。
ヒーローと言っても漫画に出てくるバットマンやスパイダーマンのようなものではない、ここで言うヒーローとは、ある種の強さが要求されるということである。
日本ではしばしばリーダーに要求されることは調和である。
人の意見を聞き、それらをうまくまとめていく資質がリーダーに要求される。
しかしアメリカ人をまとめて行くには、人の話を聞いてまとめることではリーダーになることはできない、もともと言っていることがばらばらであるから、ある種のカリスマ性、強いということが相手をまとめる条件なのである。
しかし強いと言ってもそれは腕力による腕っ節の強さや権力というようなものではない。確かにMウエーバーが「力の原理」(力あるものが求心力をもつ)と唱えるような単なる力というものが存在するが、しかしここでいう強さというのは、心の強さ、意志の強さである。
確かに歴代の大統領や政治家をみると、リンカーンやケネディのように強い意志を持った人間が国を動かしてきた事実がある。
自分事で恐縮であるが、たぶん自分がリーダーに選ばれた理由は目的がはっきりしていたからだと思う。
政治家とは比べものにはならないが、コーチがいうには、自分は信じる力が強いらしい「たとえ全員負けても、自分は絶対勝てるんだ」という気持ちを持ち続けることができる。
そういうオーラをだしているそうで、そういう気持ちを周りが認め、士気が高まるからリーダーにしたような気がする。
ここまで書いてしまえば自画自賛のような気がするが、しかし私は決して自慢している気はないし、自分はすごいと思ったことなどない、本当である。
大切なのは心の持ち方、意志、自分を信じる力である。
たとえ自分のように習慣や言葉の壁、能力がなくても自分を信じ、戦えば周りはその人をヒーローとして認め、それについてきてくれるということそのことを伝えたいのだ。
ヒーローというのは目立つことではない。
私は若い人が考えるヒーローは目立ちたがり屋であるように思えて仕方がないが、そんな奴は宴会にいったらいくらでもいる。大切なのは意志の強さであり、自分を信じることそのことがヒーローに求められる条件であり、そういう人間をボクシングを通して育てたいと願う。
私はむこうへ行ってキャプテンに任命されたが、言葉や習慣にハンデのある人間に求められたのは、それはヒーローになることであった。
ヒーローと言っても漫画に出てくるバットマンやスパイダーマンのようなものではない、ここで言うヒーローとは、ある種の強さが要求されるということである。
日本ではしばしばリーダーに要求されることは調和である。
人の意見を聞き、それらをうまくまとめていく資質がリーダーに要求される。
しかしアメリカ人をまとめて行くには、人の話を聞いてまとめることではリーダーになることはできない、もともと言っていることがばらばらであるから、ある種のカリスマ性、強いということが相手をまとめる条件なのである。
しかし強いと言ってもそれは腕力による腕っ節の強さや権力というようなものではない。確かにMウエーバーが「力の原理」(力あるものが求心力をもつ)と唱えるような単なる力というものが存在するが、しかしここでいう強さというのは、心の強さ、意志の強さである。
確かに歴代の大統領や政治家をみると、リンカーンやケネディのように強い意志を持った人間が国を動かしてきた事実がある。
自分事で恐縮であるが、たぶん自分がリーダーに選ばれた理由は目的がはっきりしていたからだと思う。
政治家とは比べものにはならないが、コーチがいうには、自分は信じる力が強いらしい「たとえ全員負けても、自分は絶対勝てるんだ」という気持ちを持ち続けることができる。
そういうオーラをだしているそうで、そういう気持ちを周りが認め、士気が高まるからリーダーにしたような気がする。
ここまで書いてしまえば自画自賛のような気がするが、しかし私は決して自慢している気はないし、自分はすごいと思ったことなどない、本当である。
大切なのは心の持ち方、意志、自分を信じる力である。
たとえ自分のように習慣や言葉の壁、能力がなくても自分を信じ、戦えば周りはその人をヒーローとして認め、それについてきてくれるということそのことを伝えたいのだ。
ヒーローというのは目立つことではない。
私は若い人が考えるヒーローは目立ちたがり屋であるように思えて仕方がないが、そんな奴は宴会にいったらいくらでもいる。大切なのは意志の強さであり、自分を信じることそのことがヒーローに求められる条件であり、そういう人間をボクシングを通して育てたいと願う。