産業動物の獣医師の仕事は、生産現場から脱落しそうになった家畜を生産現場に戻してやることである。だからせっかく命を助けることができても、生産できなくなるようでは、治療に値しないことになる。乳牛を例に取るならば、相当具合が悪い牛をやっとの末治癒に持ち込んでも、牛乳を生産できなくなっては、家畜としての存在意義がなくなる。おまけに治療費が嵩むようでは、酪農家からは治療しないでくれと頼まれることになる。たとえ牛乳が出ているようでも、高齢になっていたりあるいは受胎したいなくて来年以降、酪農家に利益をもたらさないようだと、同じように治療することなく、廃用(肉に出されるなどして農場から出されること)になる。
病牛に限らず、健康な牛であっても生産量が少なかったり、生産される牛乳の質が悪かったりしても同じことである。収支を前提に飼養される家畜には、過酷な経済論理が待っている。家畜は愛玩動物ではないのである。拙書「そりゃないよ獣医さん」新風舎刊参照(http://www.creatorsworld.net/okai/)
ところがここにきて、EUなどから「家畜福祉」という耳慣れない言葉が出てくるようになったのである。一例を挙げると、ニワトリは身動ができ砂遊びなどができるようにしなければならなくなる。より健康なニワトリが育つと思うが、卵の価格に跳ね返るのは当然のことである。消費者は容認してくれるだろうか?乳牛も年間200日は太陽の下に出しなさい、一日8時間以上拘束してはならないとなりそうである。当然飼養頭数は少なくなり、牛の病気も減ることだろうし、獣医さんは楽になるが、商売あがったりとなる。畜産農家も消費者もこの動きを認めてくれるのだろうか?