私たちは栄養学で、ビタミンAが欠乏すると鳥目になり、Cなら壊血病、Dならくる病と、今では誰も見たことのないような病気になると教え込まれた。パズルとしての試験に合格するために、誰もが暗記したものである。これは、戦後のモノない時代の産物である。
現在ではむしろ栄養過剰になることによる障害が、栄養学に求められている。ようやく最近になって、肥満が机上に登るようになったくらいである。
児童の犯罪は貧困や社会的な疎外が原因であり、これらを取り除くことで解決するとする、これが基本的な考え方である。貧困が犯罪を培うとするのである。ところが、現在は裕福であり何不自由ない環境が生み出す児童犯罪の方が多いくらいである。
農村は貧しく封建的であるとして戦後間もなく設けられた、生活改良普及員や農業改良普及員も現在はどのような意味を持つのか解らない。少なくとも、酪農の現場では、学校で学んできた普及員よりも、経験を積んだ農民や懸命にモノを売り込む商社の職員の技術に、彼らは到底かなわない。
かつて北海道は数々の名力士を産んだ、相撲王国であった。雪の中遠い道を幼いころ懸命に歩いて、足腰が鍛えられたのであろう。貧困が生むハングリー精神も培われた。現在は僅かに、根室出身の関取が一名いるだけである。現在北海道で最も僻地に位置する当地では、スクールバスが普及して子どもたちは歩くことが極端に少なくなった。当地は北海道で、児童の肥満度が2位の現状にある。
高度成長経済を経て、この国はことの良し悪しはさておいて、モノが溢れ豊かになったことは事実である。いくら格差社会といっても、戦後のモノのない時代とは比較にならない。不足による仮説は、経済活動でも同じである。過剰を想定していない。いつまで経っても発展を目指している。過剰を経済活動は理解しない。
成熟社会にあっては、不足ばかりを論じていても意味がない。過剰が生み出す弊害も同時にやらなければ、人間の活動を制御する根拠も見えなくなってしまう。
過剰に生産し、売れなければ価格をさげる。デフレを助長させる要因でもある。
成長戦略とは何であろうか?
卵や牛乳は特売の目玉商品である。ただの安いだけの商品に成り下がり体の為、健康の為に食べる人が減っている。安いから買うのである。
内外価格差を鵜呑みにし、ひたすら生産量を追求するだけである。食に満たされ肥満、メタリック症候群が問題化になっている。
金や物が沢山ある事が必ずしも豊かだとはおもえませんね。
食糧危機や輸入が激減しない限り、『過剰』は、なくなりませんね。