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もやもや日記

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『マッド・シティ』

2010年12月16日 | 映像


1997年 アメリカ
監督:コスタ=ガブラス
出演:ダスティン・ホフマン ジョン・トラボルタ


《あらすじ》
そのTVスクープは、残酷な事件へのプロローグ。ダスティン・ホフマン、ジョン・トラボルタ競演。 メディアの真実に迫る、衝撃の問題作。

地方局で取材記者を務めるマックス・ブラケットは、キー局への返り咲きを狙ってた。ある日、アシスタントを連れて自然博物館へ取材に出向き、そこで人質事件に巻き込まれる。犯人は、博物館の元警備員サム・ベイリー。経費削減のために解雇された彼は、再就職を頼みに館長に会いに来たのだが、つい興奮して発砲してしまったのだ…。ニュース記者と銃撃犯の運命的な出会いは、やがて全米が注目する取り返しのつかない事件へと発展していく。現代社会の狂気を描いた衝撃作。






コスタ=ガブラスは怒っている。

コスタ=ガブラスの作品の中では、誰も救われないし、誰も許されない。ガブラス先生の厳しい非難は現代社会を生きる我々全てに向けて激しく炸裂するのであった。一緒に観ていたK氏はしばらく無口になりました。私もまた……


さて、『Z』『ミッシング』に続いて、この『マッド・シティ』を観てみました。ガブラス監督作品としては、この映画が現時点ではもっとも入手しやすく、また気軽にレンタルすることもできるようです。そういうわけでちょっと借りてきた。でもやっぱり持っていてもいい作品だな。今度買おう。
ちなみに私は傑作『Z』については過去に記事を書きましたが、『告白』『戒厳令』は持っているけどまだ観ておらず、『ミッシング』については観たけど記事を書けませんでした。けっこう辛かったので。そのうちちゃんとまとめておきたいと思うものの、見直す勇気が涌いて来ない…(/o\;) ぐさーっと刺さるのは『Z』も同様でしたが、『ミッシング』も刺さりましたね。あの場面のジャック・レモンの顔が忘れられないぜ……。後味の悪さということでは、この人の映画はなかなか安定感があります。観終わると、私などはとにかく謝りたくなるのです。無能で無責任な大衆として生きていてスミマセン! みたいな……


『マッド・シティ』は私が既に観た2作品と比べると、ややソフトな仕上がりになっていた気がします。ガブラス先生の攻撃力が若干低めに抑えられているような感触がありました。しかしやはり観賞後、無闇に謝罪したくなるところは変わりませんでした。

この映画はダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタという2大スターの競演ということもあり、しかもパッケージのデザインもなんだか痛快アクションみたいな構図に見えなくもないので、うっかりするといわゆる娯楽映画として観るつもりになる人もいるかもしれません。

しかし、だとしたら、危険!

いえ、実際この映画にはガブラス作品らしいテンポの良い展開と巧みな構成による痺れるような格好よさがありますし、また軽妙なユーモアもそこここに盛り込まれてもいますが、それだけでは終わりません。これはかなりシリアスな社会派ドラマであり、ここでは登場人物の全員が(主役も脇役もその他大勢も全て)一様に非難されているし、もう一歩進んで、これは映画でありながら、それをただ面白可笑しく鑑賞しようとする観客の態度そのものまで批判されているような気持ちになる映画なのです。

ガブラス先生は全てを批判する。私を、あなたを、現代社会を歪んだままにしておく全ての人間を批判します。権力者も、ただの一般民衆も、誰もその批判の矛先から逃れることはできません。もちろん中には正義の人も登場しますが、彼らもまたその無力さのために結局は滅んでしまうのです。さあ、どうする? さあ、どうするんだ? 何にも考えないで、いつもどこかで誰かが苦しんでいるのに、その脇で自分さえよければいいのか? 人は誰だって生きる為に必死で、自分の利益になることだけしていたいし、当面自分には関係なさそうな問題からは目を背けたくなったって仕方がないさ。しかし、今、お前がピンチに陥ったぞ。さあ、どうする? 誰が悪いんだ? 私か? お前か? そうだ、私が悪いんだ、あいつも悪いんだ、お前だって悪かったんだ。皆がこんなふうに放っておいたんだ! どうするんだ? 今頃になって泣きわめくのか? なぜだ、なんでこの世の中はこんなふうになってしまったと思っているのだ! そんなふうにしておいたのは、我々自身だというのに……。


地方のテレビ局の取材記者マックス(ダスティン・ホフマン)は、新米助手と共に取材に出向いた自然博物館で思わぬ事件に遭遇する。銃を持った男が、館長と見学に訪れていた子供たちを人質にとって立てこもり、しかも事故的に発射された銃弾で、警備員がひとり負傷してしまった。これをスクープできれば、自分も再び全国ネットワークへと帰ることができるぞ、と考えるマックスは、事件が大きくなってしまったことに動揺する犯人、この博物館の元警備員である男サム(ジョン・トラボルタ)と交渉を開始するのであった。

マックスは最初は自分の出世のために事件を利用しようと考えるものの、次第に自分ではそのつもりもなく犯人となってしまったサムに同情し、なんとか報道の力によって世間の同情を買い、サムの罪を軽くしてやれないものだろうかと考えるようになる。元々マックスにはそのような人道を重く見る性質があり、地方局に左遷されたのもそもそもはそれが原因でもあったのだ。マックスは「立てこもり犯のインタビュー生中継」を企画し、サムがごく普通の男であること、家族を愛し子供が二人いること、だから人質の子供たちにも親切にしていること、事件を起こしたのは不運に見舞われてやむなくのことであったということなどを伝え、世間の同情がサムに集まってきたかにみえたが……

立てこもり現場である博物館前では、なぜか群衆がお祭り騒ぎを始めたり(いつの間にか屋台とか出てるし;)、警察の人間までがこの事件を出世のえさにしようと考えたり、報道関係者にいたっては、捏造、やらせ、不法侵入、なんでもありで、とにかく自局の視聴率を上げる為に手段を選ばず報道し、民衆を煽ります。現在でもよく見られるこのような光景が、映画の中でも露骨に繰り広げられます。


答えは用意されていません。だから、この映画を観ても、スッキリするなんてことはなさそうです。しかし、胸に突き刺さるものがあることを、確かに感じるでしょう。この刺さったものを、どうするか。考えたってどうせ自分にはどうにも出来ないから、突き刺さっているもののことなんて忘れてしまうか? それとも、どうせ何にもならなくとも、とりあえず何らかを考えてみるか? さあ、どうする? どうする? さあ、どうしよう。どうしたらいいんだ!









流星群

2010年12月15日 | もやもや日記



私が住んでいるこの街は明るすぎて、流星群を見ることはできませんでした。
火曜日の真夜中に、厚着をしてベランダから空を見上げてみましたが、まったく観測できず! あと少し時期が遅ければ、帰省の時にでも見られたかもしれないのになぁ。あ、でも向こうは冬で天気が悪いから、どのみち見られなかったかな。。。

流星群をちゃんと数えたのは、もうずいぶん昔のことです。文京区の、大塚の、教育の森の広場で、見知らぬ人々と空を見上げながら夜通し星を数えたことがあります。だから、都会でも場所によっては見られるはずですよねー??
次回に期待(・g・)





雨の西中島南方→梅田

2010年12月14日 | 旅の記録

実家の犬ピーちゃんを主人公に、
カレンダーを作ってもらった!






昨日はあいにくの雨でしたが、お友達のユキさんと西中島南方周辺から梅田あたりを散策してきました。ほとんどの時間は食事とお茶と漫画探索とおしゃべりに費やされましたが、別に、あの、あ…遊びに行った(だけ)ってわけじゃなかったんですよ! 仕事の話もしたんですよ!

ということで、実は先日私はユキさんからの依頼で、ちょっと絵の仕事をさせていただいたのでした。上の画像はその成果物であるところの来年のカレンダーなのですが、試し刷りの時に我が家(実家)のピーちゃんの写真を入れて刷ってもらったものです。ピーちゃんを取り囲んでいる枠の部分を私が描かせてもらったというわけで!

 ←こんな枠。

ちゃんと印刷されてくると私の絵もなかなかちゃんとして見えるようで感激しました! ユキさん、楽しいお仕事をいただき、どうもありがとうございました~♪♪ カレンダーは大事に飾らせてもらいます!
このように、お友達のお力添えで細々ながら働けている私。別の友達にも仕事をまわしてもらったりして大変に助けられているので、今度「今年の私の仕事の成果まとめ」をやっておきたいと思います(いつの間にか完全無職からは脱却していた!)。
みなさん、いつもありがとうございます~!!(´;ω;`)ノシ




さて、残りは昨日の散策の模様をまとめておきます。
昨日もまたユキさんのお話には爆笑させられ(なぜか、ユキさんのお話は何を聞いても面白い。失敗談ですら、何か悩みがあるらしいという話ですら面白い。こういう話を薄暗い愚痴にせずに話せるユキさんという人は、素晴らしい才能をお持ちだと思います^_^)、それで私はそうそうに声を嗄らして終盤では普通に話そうと思うのにも声が裏返ってしまう始末。。。あーでも、楽しかったです!


12:00 西中島南方(にしなかじまみなみかた)にて集合

雨の昼下がりに待ち合わせ。地下鉄御堂筋線の西中島南方駅には二つ出口があって、うっかり私は2番出口に出てしまいましたが、ユキさんは1番でお待ちでした;(その旨メールをいただいていたのに気づかなかった私…)
それでもギリギリ待ち合わせ時間に滑り込んでユキさんと合流。近くのパスタのお店に連れて行ってもらいました。

【アスペルジュ】というそのお店は、駅から北西に歩いたほど近くにありました。奥行きのある店内はお昼時とあって、お客さんが次々と入ってきます。私もユキさんもランチのBコースを注文。パスタは好きなものを選べるらしいので、ユキさんは海老とルッコラの生パスタを、私はタラコクリームの生パスタを頼みました。コースには自家製のパンもついているのですが、このパンがおいしかった! 熱々のフワフワ! テーブルに備え付けられていた小瓶に謎のソースが入っていたのですが、お店の人によるとドライトマトのソースだそうで、パンにつけて食べるためのものとのこと。ほどよい酸味が美味しかったです。生パスタの方も食べやすくて非常に美味しかった!
食後のコーヒーを飲みながら、しゃべり倒し、14時!
「そ、そろそろ出ようか…」ということになり、お店をあとに。お会計のときに、くじ引きをさせてもらって、黄色かピンクが出たら割引券が当たりますよ♪ とお店のお姉さんがおっしゃるので引いてみたところ、私は黄色が出ました! しかし後で思い返せば、あれはきっと箱には黄色とピンクのボールしか入ってなかったのではないかと(なにしろ私はくじ運というものが皆無で)。それはともかく、美味しかったからまた行きたいですね♪


14:30 梅田地下街

「梅田まで御堂筋と阪急、どっちがいい?」と聞かれたので、私は「阪急!」と即答。阪急電車は十三(じゅうそう)と梅田の間で川を渡るのですが(御堂筋でも川を渡るけど)、私は阪急で川を渡るのが好きなんですよね。御堂筋は車道が並走しているので、電車の車窓からはあまり川面が見えない印象なのですが、阪急は車窓から見下ろすと足もとが川! あの感じが私は好きでたまらないのでした。そういうわけで阪急電車に揺られながら、さきほどからずっと気になっていたユキさんの履いているすんごく可愛いブーツについて伺うと、神戸で買ったものであること、しかも驚異の超特価であったということなので、今度ぜひ神戸を案内してもらおうとお願いしておきました。神戸、いいですよね~。ていうか、関西って都市同士が近くて、やっぱ楽しいですよね~~。

梅田到着。
雨の日は梅田に限ります。梅田なら、一切地上に出なくとも、地下にはまるで不思議のダンジョンのごとき巨大な地下街が広がっていて、大阪歴もそろそろ7年になろうとする私をいまだに迷子にするのでありました。この日はユキさんがいらしたから迷わずに済みましたが、階段を上がるごとに「あー、ここを上がるとあそこに繋がってるのか」という私の予想がことごとく裏切られたのには動揺を隠せませんでした。だめだ、阪急周辺はいまだによく分からない。迷路、迷路ですよ!(ToT)

それでひたすらユキさんについて歩く。泉の広場から地上へ出て、まずは【まんだらけ】で漫画を物色。いくつか私のおすすめをおすすめしておきました。ほのぼの少女漫画を中心に選んだので、楽しんでいただけるといいなぁ♪

次に【ジュンク堂】堂島本店。地下街の北の端のほうから、今度は南の端の方までてくてくと歩きます。とにかく梅田の地下街は巨大なんです。ここをぐるぐる回るだけでも暇をつぶせるかと。私は期せずして普段はこの地下街をぐるぐるぐるぐる歩いてしまうのですが(=迷子)、いつかちゃんと地上出口との位置関係も含めて脳内地図を完成させたいものです。

で、【ジュンク堂】では、漫画と小説を物色。ユキさんがおもむろに「なんか人生について考える、みたいな本ってある?」などとおっしゃるので、一言に人生について考えると言ってもそれはきっとポジティブ方向へのものですよね? と思い至ると、おもに懐疑と怒り、怪奇と幻想に溺れた読書を続ける私は一瞬うろたえてしまいました。しかし不意に以前 kajiさんから貰ったパウロ・コエーリョの『アルケミスト』がお告げのようにひらめいたので、それをおすすめしておきました。あれはよいものですよね。人生って素晴らしいですね! それは不思議でやはり美しいものだったのですね! という気持ちになれます(この私ですら!)。お気に召すといいなぁ。(過去記事はこちら→『アルケミスト』

次にユキさんから私におすすめしてくださったのは、ウサギがさまざまの方法で自殺しようとするさまをユーモラスに描いた本。絵本というより1コマの漫画のようなスタイルで、死に向かおうとするウサギが延々と描かれているのですが、その表情があまりにもとぼけているところが魅力でした。これは、じわじわきますね(^o^)! 今度ちゃんと読んでみます!



【ジュンク堂】を出て、さらに歩き回る。
で、休憩にお茶をして、さらにおしゃべりを続けて、ついでに夕飯も食べて行こうということで、素敵なうどん屋さんを教えていただくも、カキフライの魅力に負けてもう一軒教えてもらった定食屋さんで夕飯をとることに。この定食屋さんは最初に訪れた【まんだらけ】が近くにある泉の広場の脇にあって、とにかくこの日は梅田の地下を縦横無尽に歩き回ったということでした。ユキさん、おつかれさまでした!

食事の合間に、私の食事に関する奇妙な癖についてお話しすると、ユキさんはどういうわけか非常な関心を示されました。単に、お膳を順繰りに食べていって、最後に必ず味噌汁→ご飯二口分で終わるというルールを遵守しつづけて30年、というだけの癖なんですけどね(←キモイこだわり;)。とても面白がってくれたので、私も楽しかったです。
カキフライは美味しかったです。今年はようやく食べることができた! うめえ! 揚げ物、最高です~~!



というわけで、この夜も足取りも軽く超絶ハイテンションで帰路につきましたが、あー、それにしても楽しかった!
あんなにお話ししたのにまだ足りない感じです。とりあえず、10日ほどあとに「忘年会」の約束をしてお別れしてきました。アハハ! 楽しい! 今年は私は移動が激しかったけれど、結局どこへ行っても私は友人に恵まれているおかげで、なんやかんや言いながらも楽しく過ごせます。
みなさん、おかげさまで楽しいです! 今年お会いできた方々、お会いできなかったけど言葉をかけてくださった方々、来年もどうぞよろしくお願いします~!

…って、まだちょっと早いか。
今年も残りわずかですが、引続きよろしくお願いします♪♪







夜の季節

2010年12月12日 | もやもや日記



よく光るのを
急いで飾り付けるんだ!
よく光るのを
もっともっと集めるんだ!





夜が長くなってます。私はクリスマスが近づいてくる今頃の雰囲気は好きです。別にクリスマスだからって何か予定があるとかごちそうを食べるとかいうこともないんですけどね。騒々しいような、わくわくするような気分がないこともないような気がしています。でも寒いのは嫌だなー。


クリスマスカードを送ろうと思っていたのですが、そろそろ送らないとヤバイ…(ヽ´ω`)過ぎてしまうぜ……




チャンス到来

2010年12月11日 | 読書ー雑記






バルガス=リョサの『世界終末戦争』が出ましたね! ノーベル賞効果ってやつですね、めでたい! これは本当に面白い作品だったので、私としてはすぐにでも手に入れておきたい1冊ですが、えーと、あのー、今月はもうあれこれと散財してしまったので、もうちょっとしてから買おうかと思います。あ、そう言えば、装幀も新しくなっていますね。私は前の黄色いのも好きでしたけど、こちらもシックな感じでよろしいかと。

実は『緑の家』もまだ買っていないし、手元に置いておくべき本は他にも沢山あるのですが、うーむ、キリがない。闇雲に所有しても読まなきゃしょうがないですよね。いつまで未読のまま積んでおくのかと時々は自問してしまうのですが、とりあえず手元にないと落ち着かない本というのはやはりあるものでして…。先日も、以前から欲しくてたまらなかった本を1冊入手したばかり。あー、また増やしてしまった。
今年はひとまずこのくらいにしておこう。そして年が明けたら、また気合いを入れ直して、読んだり買ったりしようと思います。



オーソージチュー

2010年12月10日 | もやもや日記

プラスチックのシートで出来たツリー。
手帳型になっていて、円形に開いて直立させると
このようにツリーが見えるのです!




昨日は、掃除機をかけていたら、ふいに「大掃除スイッチ」がオンになって、その後狂ったように部屋を片付けました。このスイッチはいつもオンだとよいのですが、あいにく半年に一回くらいしか押されなくて、まあなんて言うか私の部屋は引っ越してきた時の段ボール箱がまだ7個もそこかしこに積んであるような惨状でした。それを一念発起して整理したところ、部屋が見違えるほどに広くなった! 段ボールなんていらなかったんだ!(←早く気がつきたかった、この事実に…)

で、どうやって段ボールを減らしたのかというと、うちには天井まで届く背の高い組立て式の本棚があるのですが、部屋の形状の問題により昨日までは途中までしか組んでいなかったのを、思い切って正式に組み直してみました。おお、これでちゃんと本を収納できるというものです。今回も前後2重並べのスタイルを守り、箱に入れられたままになっていた可哀想な本に日の目を見せてあげることに成功。うむうむ、常にこうありたいものだ。



「まだ詰める余裕があるな…」
と悪魔が囁く。
地域別・ジャンル別に分けてあるのですが、
南米にはまだかなりの余裕があるぜ!


本棚はこれまでもほとんど小説に占められていて、漫画は放置気味。『ONE PIECE』などは60冊もあってずっと箱詰めのままにしていたのですが、段ボールを加工して本棚仕様にいくらか耐久性を上げた小さな棚(ちなみにその棚は同じものをもう一つ上に積むのに耐えるほどの強度)のようなものを作って、そこへ詰めてみました。手作り感満載ですが、部屋の隅に布を掛けて置いとけば、どうにか見栄え的にも耐えるものに仕上がったので、とりあえず満足!(写真を撮ろうかと思ったけど、侘しすぎるのでヤメタ!)


あー、すっきりした。やはり部屋に段ボールが積んであって、しかもその段ボールというのが一年前に大阪から横浜へ移ったとき、つまり最初の引っ越しの時の古い段ボールのままであるというのは、精神衛生上よくないことでありました。気持ちも滅入るというもんです。今回の大片付けでは、その古い段ボール箱を殲滅出来ましたよ。でも、実は…新しい方の段ボールは まだ4個残っているんです……(まだ漫画が1箱分詰まっている;)…ウウっ! でも、大丈夫! そのうち2個はクローゼットにきっちり仕舞ったし、外に出てるのは2個だけ! 片付いた! 片付いたよ!(´;ω;`)



ともかく、越してきてはじめて部屋が広々と気持ちがいいので、私は愛用の椅子を持ったままあちこちに移動して座ってみたりしています。どこでも椅子が置けるほどに整頓された部屋っていいですね(←早くその事実に気づ…)
もうちょっと片付けて、すがすがしく年を越したいと思います!





かわいい皿

2010年12月08日 | もやもや日記

数日前に焼いたブドウパンは
ちょっと固くなってきた




昨日の記事はちょっと重苦しかったかな、と反省。でも書いているときはかなり明るいテンションで、陽気な仕上がりになった☆と自分では思っていたのですが、今朝読み返してみると、ちょっとやっぱ薄暗かったと思いました。あれ?



さて、このあいだ、可愛いお皿をセットで買いました。おもちゃの柄の陶器の皿です。平たい皿と、少し深めの皿、それとお揃いのマグカップのセットでした。新しい皿に盛ると、それだけでいつもの食卓が違った感じになるのでいいですね。

実はここ数ヶ月の間に、私は長年使ってきた器をいくつも壊してしまいました。Bodamのティーサーバーもお湯を注いだらひびが入ってしまったし、大昔にデパートのマルイでもらったペアのカフェオレボウル(?)の片方も手を滑らせて割ってしまったし、えーと、あとほかにもなにか割った気がする…(ヽ´ω`)

そういうわけで、ちょっとばかり買い替え中なのですが、スープ用の深い器を買いたかったのに、あまりに可愛かったので上のお皿セットを買ってしまった私。平皿はもうあるのになー。でも可愛かったんだよー。
あとは、黒くて、つるつるしてなくて薄い、焼き魚をのせられるようなお皿がほしい。でも、薄い皿というのは、私の経験からするとすぐに割れるんだよな(というか私がうっかり割ってしまう。粗雑さが…)。うーむ。


美味しければ、どういうお皿に盛りつけてあってもいいような気もしますが、私の料理はとくに美味しいものでもないので、せめて見た目くらいは美味しそうに見える必要があるのではないかと(いまさら)考え中です。あと、いつもできたてをお皿に盛ると、お皿が冷たいので料理も冷めてしまうのですが、これはどうしたらよいのでしょうか。部屋が寒すぎるのだろうか。料理屋さんの出してくれるお皿はいつも温かいような気がするので、どうやって温めているのか気になる!




ついでに、薄くて高価な皿はすぐ割れるのに、100円ショップで買ったみたいなデカクてやたらと重いドンブリなんかは、その滑りやすそうな形状にもかかわらず、私の手から滑り落ちることもなくもう10年くらい平気で役目を果たしてくれています。ふしぎ!




人は生きることを望んでいる…?

2010年12月07日 | 学習



『人は生きることを望んでいる』というエレンブルグのエッセイと演説集がありました。私はまだ読んでいませんが。語呂が良かったのでこの記事のタイトルにも使わせてもらうことにしましたが、私の記事本文の内容とはあまり関係がないような…。でも語呂が良かったので……



先日私は失ったものは取り返せないということを書きました。ちょっと大げさな書きようだったかもしれませんが、実際、失ったものは取り返せない、そうですよね、持っているものは形のあるものはいつかは失われるのが世の常だと言います。私にだってそれくらいのことは分かりますし、そもそも私のごときが失ったものなんて客観的に見れば大したものでもないだろうとも思うのです。でも、でも。

というわけで、私の欲望や喪失感についてあれこれ考えながら以下にさらなる文章を書いてみたものの、特に具体的なことや意味のありそうなことは書けませんでした。でももし興味がおありでしたらどうぞ!
先にお断りしておくと、具体的に失ったものについては本当にどうもあまり書けませんでした。書けるくらいだったら、それはまだ失っていないということではないかと。遠くなり過ぎて、私ではもう届きませんね。でも、失われてしまったあとに残っている空白についてはいつか何か書けるかもしれません。



さて、私が失ったものを数えると、パッと思いつくだけでもちょっと多すぎて数えきれません。抽象的なことしか書けませんが、たとえば若さとか、品性とか知性とか(これは失ったというより身に付かなかった。まだ望みはあると信じたいが…)、それから貯金とか、定職とか、あとほかにも色々……

ここで書けそうなものの中で他に大きなものといえば、夢と希望を失ったことですね。私はもうかつてほど未来に希望を持ってないし(持っているという自己暗示をかけてはいますが)、かつて見たような美しい夢も見られなくなりました。私とてかつては「年を取れば次第に立派な大人になれる」と思っていましたし、「世の中も時代が進めば次第に素晴らしくなる」と夢見ていました。また、こういうことを言うといつも怒られるのですが、私は何でも誰でも自分の思い通りになってほしかったし、当然そうなると疑いませんでした。でも全然そうはならなかった。私は多くを失ったというよりも、ほとんど手に入らなかった(入るはずもなかった)だけで、運良く手に入ったものもその価値が分からずに自分からあっさり投げ捨てたりしただけです。それでは手ぶら状態になっても当然ですね。

もちろん、その合間にも私に得られたものはありますし、いまだ保持しているものだってありますけれど、それだけでは足りないのです。そういう私の態度が間違っている、というのも理解できる。それで、たとえばこういう考え方が私は最も嫌いなのですが、「世の中には私よりももっと不足して不幸に喘いでいる人がいる。私はまだ恵まれている方なんだ。このくらいで満足しておくんだ」と、自らを納得させることだって頑張ればできたかもしれません(自分はどこかの不幸な誰かに比べればマシ。そういう考え方はなかなか受け入れられませんが、こういうふうに私はよく人からたしなめられたものです)。あるいは、こう考えることが重要だと知りつつあることには、「満たされていると自分で思えば、今からすぐにでも私は満たされていることになる」というふうに心を入れ替えることもできるかもしれません(見方によっては諦め切っているだけのようにも思えるけれど)。でも私は全てが欲しかったのです。望む全てを、ただで与えてほしかった。わがままでも傲慢でも分不相応でも何でも、そうあってほしかった。でなければ、なにしに私を呼んだのかと。そして、全てを手に入れたいんだけれど、そのために努力するのは嫌だったりするんです。受け身なんですよ。徹底的に受動的。なるほど「君は間違っている」と言われてもしかたないですね、うんうん。


でもさ。私が間違っているのはいいんだけど、でもさ、

欲望ってのは、じゃあいったい何の為にあるんですかね?
欲することを許しておきながら、対象を手に入れることは許さない。そんなことがあっていいもんでしょうか? ひどいじゃないか。分不相応なものを欲しがる私が悪いのか? 「そうだ、何の努力もなく得ようだなんて、君が間違っているんだ」と宣告されたこともあり、私もしばらくは欲望を抑える努力をしましたよ。以前に比べると私は人当たりも物わかりも良くなったし、諦めることだってかなり覚えたつもりです。そしたら加減が分からず、私は生きること自体への欲望をどの程度に保ったらよいのか分からなくもなっています。こうやって生きるのには少し飽きてきている。と言って、死ぬ気はさらさらない。なんで私が死ななきゃならんのだ。私は無知で愚かで何度も過ちを犯し、そしていつもやたらと不安にとらわれているけれど、その不安と不満が嫌だと言うのに、そんなんでも何も失いたくないと、楽して全てを手に入れたいと言ってるのに、なぜ私が死ななきゃならんのだ。ああ、だけど、なんだろうな、生きるって?

私が望む全てとは何かといって、そんなたいしたものではないのです。

ひとつには、誰も不安や不足に悩まされたり、虐げたり虐げられたりすることのない世界の実現(私の心の平安のために)。
ふたつめは、生きることや死ぬことに対してむやみな恐れや悲しみを感じなくて済む精神性の獲得(私の心の平安のために)。
みっつめは、私の心の平安。もう何もいらないくらいに、最初から満たしてほしい。たとえ私が何者でもなくとも。私の望みに対して、私が相応しくなくても。失うことができないくらいに、最後まで満たしてほしい。

ね、この程度ですよ。たいしたことないですよ。さっさと実現してくれよ。相応の努力しろって? どう努力しろって言うんだ。知るか! いいからくれよ! ただで! ただで、望みの全てを!(そう言えば、この意味において、ストルガツキー兄弟作『ストーカー』の主人公レドリック・シュハルトの最後の叫びは私を激しく打ちのめしたものです)


叶わなかった望みと叶わない望みは(抽象的に表現すると)おおむね上のようなものであるわけですが、私が持っていたはずのもののうちでもっとも大きな喪失のひとつ、私に大きな打撃を与えたもののひとつは、「こうあるべきだった私と世界とへの幻想」を自ら破壊してしまったことかもしれません。そしてそれが「最初から幻覚でしかなかった」ことに気づいてしまったことかもしれません。無気力で不能の、やけっぱちの人間でしかなかったということには気づきたくなかった。「変わる努力をしろ」と言われても、「なぜ私が努力しなければならないんだ」と本心から思ってしまう私の卑劣さにも気づきたくなかった。
なるべくこの事実を忘れようと努力していたのに(努力の方向が間違っているというツッコミはご容赦ください)、しばらく前にうっかり思い出してしまって、今またガッカリしているところです。こんなやる気のない人間は早く滅んだ方が世の中のためだと思うのに、これがなかなか滅びないんですよね。もし私が誤っているとしても、それを放置しておくのは世界の怠慢であると言えませんかね。世の中がどうなっているのやら、私にはさっぱり納得がいかないわけですよ。どうなっているんだ、この世の中は。どうなっているんだ、私という人間も……。


そういうわけでここしばらくの間、自らの欲深さのことでまたちょっと落ち込んでいたのですが、このようなことを考えてムカムカしていたら、なにやら元気が出てきました。今、私を底の方で生かしているのはこの溢れて渦巻く疑惑と不満の塊なのかもしれませんね。ああ、とても生きているという感触があるよ。ときどき襲われるひどい空しさのなかでもまだまだ生きていけそうであるよ。私は、私自身にも世の中に対しても多く疑問を感じるし、多く不満も感じています。欲深くって鬱陶しいのです。爽やかで大らかで朗らかな人物になんてなれないよ。でも、なにがなにやら分からぬこの世の中で、私がこんな人間だからって、とりあえず、

 そんなことは私の責任じゃないぜ!

 (…です…よ…ね……?)







The Corrsー“Runaway”

2010年12月05日 | 学習





The Corrs の Runaway 。懐かしい。

The Corrs というと、アイルランド出身の3姉妹とそのお兄さんによる4人組フォークロック・バンド。3姉妹の方はものすっごく美人ぞろいなのに、お兄さんだけはどうしてかちょっと残念な感じで……という失礼な印象を私は長年抱いていたわけですが、今PVを見る限りではお兄さんもなかなかハンサムでしたね。あれ? どうしてそんなふうに誤解してたんだろう(^_^;)? とにかく3姉妹が皆美人なので見ていても聞いていても癒されます。美しいのう。

 Say it's true,
 there's nothing like me and you
 I'm not alone,
 tell me you feel it too


この「Runaway」はシンプルな歌詞に伸びやかな歌声、郷愁を誘うような柔らかい旋律、実に美しい歌ですね。発表は1995年。あー、もう15年も前なのか。

若い頃に好きだった曲を聴くのは、懐かしいと同時に少し胸が痛みますね。あれから過ぎていった日々の間、音楽や文学やさまざまな映像は、いつも私の心を慰め、この過大な欲望をなだめようとしてくれていますが、でも、あの頃はただ好きなだけだった。私はただそれらを好きだというだけで、意味だとか価値だとかいうことは何も望んでおらず、それで充分に満たされていたのに。あの頃はこの世界に特に何も望まないでいたから、私は幸福だったのだと思う。その幸福は無知と盲目と愚かさとがもたらしていたものだとしても、あの頃、世界は私のものだったのになぁ。私の無知と盲目と愚かさとは今でもさほど変わらないようなのに、どうして隔たってしまったのだろう。何が変わってしまったのだろう。理由は分かっている。分かってはいるのだけれど……。


追憶が、今日も私をねじり上げます。取り返しのつかないほどに隔たってしまったという思いに、泣きたくなる。私は進めば進むほどに欲望を深め、欲望が深まれば深まるほどに多くを失ってゆくだけの気がする。取り返しのつかないほどに失ってしまった。喪失感を埋める為にますます欲望だけが膨らんでいく。でももう取り返せない。そう、失ったものはもう取り返せないのだ。


だから、あの頃あの時のものをただ好きでいたように、今も、今こそ愛すべきものを愛するんだ。そういうものを探すんだ。幸福は追憶の中にしかないと私は思うなら、今がいつかの追憶になるように。いつか振り返ったとき、たとえさらに多くを失っていたとしても、今を幸福な時代だったと思えるくらいに。

 I would run away
 I would run away with you

 Cause I am falling in love with you
 No never I'm never gonna stop
 Falling in love with you





樹木

2010年12月04日 | もやもや日記

すっかり丸裸になった。





常緑樹というのは冬になってもその美しい緑を保って、雪が降ると葉の上にそれを積もらせて耐えている美しさがあります。一方葉を落とす種類の樹々というのは、今くらいの時期になるとフルフルと震える数枚の葉だけを残して丸裸。これはしかし、よくよく考えてみると少し不思議ですね。寒いからこそ葉を落とすというその発想が。

落葉樹にしてみれば、そんなのは不思議でもなんでもないのでしょうが、寒くなってきてモコモコと着込み始めた私からするとちょっと不思議だったんです。だって、枝だけになったあの姿というのは、すごーく寒々しいではないですか。寒そうすぎる。あと、毎年毎年葉っぱを新しく生え変わらせるというのも、エネルギー使い過ぎじゃない? とか思ってしまいます。せめて数年くらいは使おうぜ。とか思ってしまいます。

そんなくだらないことを思いながら、しばらく裸の樹を眺めていたのですが、落葉がなかったら困ることだってあるよな。落葉を踏みしめる楽しさとかさ。焚き火で作る焼き芋の美味しさとかさ(やったことないけど)。


人間の当たり前は、他の動物や植物の当たり前とは当然異なっているはずです。では、当たり前とはなんなのか。人間は人間にとっての当たり前のなかだけで生きるのがいいんでしょうかね。いいとか何とかでなくて、そうならざるを得ないものなんでしょうか。でも人は、外の世界のことや自分とは違った価値基準をいつも知りたいと思っているはずだし、そういう自分とは異なるものをある程度認識することはできているはずだよな。沢山の異なったものがあったら、私はそれらをどうやって整理したらよいのだろう。沢山のもののそれぞれにそれなりの良さがあるように思えたら、私はどれを当たり前の基準としたらいいのだろうか。
とりとめがなくなってきたので、本日はこのへんで。


あ、ツタヤでDVDレンタルが激安だったので、沢山借りてきました。張り切って観ないと!!