半透明記録

もやもや日記

『マッド・シティ』

2010年12月16日 | 映像


1997年 アメリカ
監督:コスタ=ガブラス
出演:ダスティン・ホフマン ジョン・トラボルタ


《あらすじ》
そのTVスクープは、残酷な事件へのプロローグ。ダスティン・ホフマン、ジョン・トラボルタ競演。 メディアの真実に迫る、衝撃の問題作。

地方局で取材記者を務めるマックス・ブラケットは、キー局への返り咲きを狙ってた。ある日、アシスタントを連れて自然博物館へ取材に出向き、そこで人質事件に巻き込まれる。犯人は、博物館の元警備員サム・ベイリー。経費削減のために解雇された彼は、再就職を頼みに館長に会いに来たのだが、つい興奮して発砲してしまったのだ…。ニュース記者と銃撃犯の運命的な出会いは、やがて全米が注目する取り返しのつかない事件へと発展していく。現代社会の狂気を描いた衝撃作。






コスタ=ガブラスは怒っている。

コスタ=ガブラスの作品の中では、誰も救われないし、誰も許されない。ガブラス先生の厳しい非難は現代社会を生きる我々全てに向けて激しく炸裂するのであった。一緒に観ていたK氏はしばらく無口になりました。私もまた……


さて、『Z』『ミッシング』に続いて、この『マッド・シティ』を観てみました。ガブラス監督作品としては、この映画が現時点ではもっとも入手しやすく、また気軽にレンタルすることもできるようです。そういうわけでちょっと借りてきた。でもやっぱり持っていてもいい作品だな。今度買おう。
ちなみに私は傑作『Z』については過去に記事を書きましたが、『告白』『戒厳令』は持っているけどまだ観ておらず、『ミッシング』については観たけど記事を書けませんでした。けっこう辛かったので。そのうちちゃんとまとめておきたいと思うものの、見直す勇気が涌いて来ない…(/o\;) ぐさーっと刺さるのは『Z』も同様でしたが、『ミッシング』も刺さりましたね。あの場面のジャック・レモンの顔が忘れられないぜ……。後味の悪さということでは、この人の映画はなかなか安定感があります。観終わると、私などはとにかく謝りたくなるのです。無能で無責任な大衆として生きていてスミマセン! みたいな……


『マッド・シティ』は私が既に観た2作品と比べると、ややソフトな仕上がりになっていた気がします。ガブラス先生の攻撃力が若干低めに抑えられているような感触がありました。しかしやはり観賞後、無闇に謝罪したくなるところは変わりませんでした。

この映画はダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタという2大スターの競演ということもあり、しかもパッケージのデザインもなんだか痛快アクションみたいな構図に見えなくもないので、うっかりするといわゆる娯楽映画として観るつもりになる人もいるかもしれません。

しかし、だとしたら、危険!

いえ、実際この映画にはガブラス作品らしいテンポの良い展開と巧みな構成による痺れるような格好よさがありますし、また軽妙なユーモアもそこここに盛り込まれてもいますが、それだけでは終わりません。これはかなりシリアスな社会派ドラマであり、ここでは登場人物の全員が(主役も脇役もその他大勢も全て)一様に非難されているし、もう一歩進んで、これは映画でありながら、それをただ面白可笑しく鑑賞しようとする観客の態度そのものまで批判されているような気持ちになる映画なのです。

ガブラス先生は全てを批判する。私を、あなたを、現代社会を歪んだままにしておく全ての人間を批判します。権力者も、ただの一般民衆も、誰もその批判の矛先から逃れることはできません。もちろん中には正義の人も登場しますが、彼らもまたその無力さのために結局は滅んでしまうのです。さあ、どうする? さあ、どうするんだ? 何にも考えないで、いつもどこかで誰かが苦しんでいるのに、その脇で自分さえよければいいのか? 人は誰だって生きる為に必死で、自分の利益になることだけしていたいし、当面自分には関係なさそうな問題からは目を背けたくなったって仕方がないさ。しかし、今、お前がピンチに陥ったぞ。さあ、どうする? 誰が悪いんだ? 私か? お前か? そうだ、私が悪いんだ、あいつも悪いんだ、お前だって悪かったんだ。皆がこんなふうに放っておいたんだ! どうするんだ? 今頃になって泣きわめくのか? なぜだ、なんでこの世の中はこんなふうになってしまったと思っているのだ! そんなふうにしておいたのは、我々自身だというのに……。


地方のテレビ局の取材記者マックス(ダスティン・ホフマン)は、新米助手と共に取材に出向いた自然博物館で思わぬ事件に遭遇する。銃を持った男が、館長と見学に訪れていた子供たちを人質にとって立てこもり、しかも事故的に発射された銃弾で、警備員がひとり負傷してしまった。これをスクープできれば、自分も再び全国ネットワークへと帰ることができるぞ、と考えるマックスは、事件が大きくなってしまったことに動揺する犯人、この博物館の元警備員である男サム(ジョン・トラボルタ)と交渉を開始するのであった。

マックスは最初は自分の出世のために事件を利用しようと考えるものの、次第に自分ではそのつもりもなく犯人となってしまったサムに同情し、なんとか報道の力によって世間の同情を買い、サムの罪を軽くしてやれないものだろうかと考えるようになる。元々マックスにはそのような人道を重く見る性質があり、地方局に左遷されたのもそもそもはそれが原因でもあったのだ。マックスは「立てこもり犯のインタビュー生中継」を企画し、サムがごく普通の男であること、家族を愛し子供が二人いること、だから人質の子供たちにも親切にしていること、事件を起こしたのは不運に見舞われてやむなくのことであったということなどを伝え、世間の同情がサムに集まってきたかにみえたが……

立てこもり現場である博物館前では、なぜか群衆がお祭り騒ぎを始めたり(いつの間にか屋台とか出てるし;)、警察の人間までがこの事件を出世のえさにしようと考えたり、報道関係者にいたっては、捏造、やらせ、不法侵入、なんでもありで、とにかく自局の視聴率を上げる為に手段を選ばず報道し、民衆を煽ります。現在でもよく見られるこのような光景が、映画の中でも露骨に繰り広げられます。


答えは用意されていません。だから、この映画を観ても、スッキリするなんてことはなさそうです。しかし、胸に突き刺さるものがあることを、確かに感じるでしょう。この刺さったものを、どうするか。考えたってどうせ自分にはどうにも出来ないから、突き刺さっているもののことなんて忘れてしまうか? それとも、どうせ何にもならなくとも、とりあえず何らかを考えてみるか? さあ、どうする? どうする? さあ、どうしよう。どうしたらいいんだ!









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