『人は生きることを望んでいる』というエレンブルグのエッセイと演説集がありました。私はまだ読んでいませんが。語呂が良かったのでこの記事のタイトルにも使わせてもらうことにしましたが、私の記事本文の内容とはあまり関係がないような…。でも語呂が良かったので……
先日私は失ったものは取り返せないということを書きました。ちょっと大げさな書きようだったかもしれませんが、実際、失ったものは取り返せない、そうですよね、持っているものは形のあるものはいつかは失われるのが世の常だと言います。私にだってそれくらいのことは分かりますし、そもそも私のごときが失ったものなんて客観的に見れば大したものでもないだろうとも思うのです。でも、でも。
というわけで、私の欲望や喪失感についてあれこれ考えながら以下にさらなる文章を書いてみたものの、特に具体的なことや意味のありそうなことは書けませんでした。でももし興味がおありでしたらどうぞ!
先にお断りしておくと、具体的に失ったものについては本当にどうもあまり書けませんでした。書けるくらいだったら、それはまだ失っていないということではないかと。遠くなり過ぎて、私ではもう届きませんね。でも、失われてしまったあとに残っている空白についてはいつか何か書けるかもしれません。
さて、私が失ったものを数えると、パッと思いつくだけでもちょっと多すぎて数えきれません。抽象的なことしか書けませんが、たとえば若さとか、品性とか知性とか(これは失ったというより身に付かなかった。まだ望みはあると信じたいが…)、それから貯金とか、定職とか、あとほかにも色々……
ここで書けそうなものの中で他に大きなものといえば、夢と希望を失ったことですね。私はもうかつてほど未来に希望を持ってないし(持っているという自己暗示をかけてはいますが)、かつて見たような美しい夢も見られなくなりました。私とてかつては「年を取れば次第に立派な大人になれる」と思っていましたし、「世の中も時代が進めば次第に素晴らしくなる」と夢見ていました。また、こういうことを言うといつも怒られるのですが、私は何でも誰でも自分の思い通りになってほしかったし、当然そうなると疑いませんでした。でも全然そうはならなかった。私は多くを失ったというよりも、ほとんど手に入らなかった(入るはずもなかった)だけで、運良く手に入ったものもその価値が分からずに自分からあっさり投げ捨てたりしただけです。それでは手ぶら状態になっても当然ですね。
もちろん、その合間にも私に得られたものはありますし、いまだ保持しているものだってありますけれど、それだけでは足りないのです。そういう私の態度が間違っている、というのも理解できる。それで、たとえばこういう考え方が私は最も嫌いなのですが、「世の中には私よりももっと不足して不幸に喘いでいる人がいる。私はまだ恵まれている方なんだ。このくらいで満足しておくんだ」と、自らを納得させることだって頑張ればできたかもしれません(自分はどこかの不幸な誰かに比べればマシ。そういう考え方はなかなか受け入れられませんが、こういうふうに私はよく人からたしなめられたものです)。あるいは、こう考えることが重要だと知りつつあることには、「満たされていると自分で思えば、今からすぐにでも私は満たされていることになる」というふうに心を入れ替えることもできるかもしれません(見方によっては諦め切っているだけのようにも思えるけれど)。でも私は全てが欲しかったのです。望む全てを、ただで与えてほしかった。わがままでも傲慢でも分不相応でも何でも、そうあってほしかった。でなければ、なにしに私を呼んだのかと。そして、全てを手に入れたいんだけれど、そのために努力するのは嫌だったりするんです。受け身なんですよ。徹底的に受動的。なるほど「君は間違っている」と言われてもしかたないですね、うんうん。
でもさ。私が間違っているのはいいんだけど、でもさ、
欲望ってのは、じゃあいったい何の為にあるんですかね?
欲することを許しておきながら、対象を手に入れることは許さない。そんなことがあっていいもんでしょうか? ひどいじゃないか。分不相応なものを欲しがる私が悪いのか? 「そうだ、何の努力もなく得ようだなんて、君が間違っているんだ」と宣告されたこともあり、私もしばらくは欲望を抑える努力をしましたよ。以前に比べると私は人当たりも物わかりも良くなったし、諦めることだってかなり覚えたつもりです。そしたら加減が分からず、私は生きること自体への欲望をどの程度に保ったらよいのか分からなくもなっています。こうやって生きるのには少し飽きてきている。と言って、死ぬ気はさらさらない。なんで私が死ななきゃならんのだ。私は無知で愚かで何度も過ちを犯し、そしていつもやたらと不安にとらわれているけれど、その不安と不満が嫌だと言うのに、そんなんでも何も失いたくないと、楽して全てを手に入れたいと言ってるのに、なぜ私が死ななきゃならんのだ。ああ、だけど、なんだろうな、生きるって?
私が望む全てとは何かといって、そんなたいしたものではないのです。
ひとつには、誰も不安や不足に悩まされたり、虐げたり虐げられたりすることのない世界の実現(私の心の平安のために)。
ふたつめは、生きることや死ぬことに対してむやみな恐れや悲しみを感じなくて済む精神性の獲得(私の心の平安のために)。
みっつめは、私の心の平安。もう何もいらないくらいに、最初から満たしてほしい。たとえ私が何者でもなくとも。私の望みに対して、私が相応しくなくても。失うことができないくらいに、最後まで満たしてほしい。
ね、この程度ですよ。たいしたことないですよ。さっさと実現してくれよ。相応の努力しろって? どう努力しろって言うんだ。知るか! いいからくれよ! ただで! ただで、望みの全てを!(そう言えば、この意味において、
ストルガツキー兄弟作『ストーカー』の主人公レドリック・シュハルトの最後の叫びは私を激しく打ちのめしたものです)
叶わなかった望みと叶わない望みは(抽象的に表現すると)おおむね上のようなものであるわけですが、私が持っていたはずのもののうちでもっとも大きな喪失のひとつ、私に大きな打撃を与えたもののひとつは、「こうあるべきだった私と世界とへの幻想」を自ら破壊してしまったことかもしれません。そしてそれが「最初から幻覚でしかなかった」ことに気づいてしまったことかもしれません。無気力で不能の、やけっぱちの人間でしかなかったということには気づきたくなかった。「変わる努力をしろ」と言われても、「なぜ私が努力しなければならないんだ」と本心から思ってしまう私の卑劣さにも気づきたくなかった。
なるべくこの事実を忘れようと努力していたのに(努力の方向が間違っているというツッコミはご容赦ください)、しばらく前にうっかり思い出してしまって、今またガッカリしているところです。こんなやる気のない人間は早く滅んだ方が世の中のためだと思うのに、これがなかなか滅びないんですよね。もし私が誤っているとしても、それを放置しておくのは世界の怠慢であると言えませんかね。世の中がどうなっているのやら、私にはさっぱり納得がいかないわけですよ。どうなっているんだ、この世の中は。どうなっているんだ、私という人間も……。
そういうわけでここしばらくの間、自らの欲深さのことでまたちょっと落ち込んでいたのですが、このようなことを考えてムカムカしていたら、なにやら元気が出てきました。今、私を底の方で生かしているのはこの溢れて渦巻く疑惑と不満の塊なのかもしれませんね。ああ、とても生きているという感触があるよ。ときどき襲われるひどい空しさのなかでもまだまだ生きていけそうであるよ。私は、私自身にも世の中に対しても多く疑問を感じるし、多く不満も感じています。欲深くって鬱陶しいのです。爽やかで大らかで朗らかな人物になんてなれないよ。でも、なにがなにやら分からぬこの世の中で、私がこんな人間だからって、とりあえず、
そんなことは私の責任じゃないぜ!
(…です…よ…ね……?)