半透明記録

もやもや日記

『犬の心臓』

2007年01月27日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
ミハイル・ブルガーコフ 水野忠夫訳(河出書房新社)


《あらすじ》
野良犬のシャリクはある日脇腹に大火傷を負い、苦痛と空腹にうめきながら、彼に熱湯を浴びせたコックを含むあらゆるプロレタリアに対する呪いの言葉をまき散らしていたところを、ある紳士に助けられる。紳士はシャリクを手当し、自分の立派な家に住わせるが、その目的は、ある実験のためだった。


《この一文》
” 二階にあった豪華な住居のドアの前に犬を連れてきた見知らぬ紳士は呼鈴を押したが、犬のほうはすぐさま目をあげて、波模様のついたピンクのガラスをはめこんだ大きなドアの横に掛けてあった金文字で書かれた黒い大きな表札を見た。最初の三文字、ピー・アール・オーを犬はたちまち《プロ》と判読した。ところが、そのさきは見慣れない文字で、何と読めばよいのかわからなかった。《まさかプロレタリアではないだろうな?》シャリクはけげんそうに考えてみた。 ”



ついに読みました、『犬の心臓』を。ここ数年の念願がようやく叶って、とても満足です。しかし、読み終えた直後は、どうにも気持ちが暗くなってしまいました。


これは、ある医師の実験によって、人間の脳(厳密には脳下垂体)と睾丸を移植された犬がついには人間のように生活し、あれほどプロレタリアを憎んでいたにも関わらず自ら『同志』を名乗り、医師の生活に大混乱を巻き起こすという皮肉の物語です。

犬に人間の臓器を移植する。そう言うと、とてもグロテスクなように聞こえますが、実際とてもグロテスクなのです。作者のブルガーコフは、その色彩の美しい描写が私の大好きな作家ですが、彼はお医者さんでもあったので手術シーンは生々しくて迫力がありました。しかし、落ち着いて考えてみると、手術の内容がグロテスクというよりも、なにか他のことが、人間の行為や思想そのものが実は相当にグロテスクなのではないかと疑わしくなってきます。とはいえ、私にはまだよくはわかっていないのですけれども。

人間の科学技術力は今や自然にさえ勝ると思い上がる人間は、しかしいつもその力を制御しきれず、結局は自然の前に敗北する(つまり自然こそが、人間の愚かさが生む混乱から今のところは人類を救ってくれているとも言える)。ブルガーコフが『運命の卵』やこの『犬の心臓』で表したかったことの一つは、こういうことだったのかもしれないと私は思います。突出した能力を持つ人間が、ある画期的な発明をしたからといって、それを用いるその他大勢が無知でしかも愚かであり、その発明の意義を理解しなかったならば、必ずやその結果は悲劇的なものになるだろうという暗い予言のように思えました。

ああ、私も色々なことを知らないままで、恥ずかしげもなく生きています。どうして蛇口から水が出るのか、携帯電話や電子レンジはどうなっているのか、それに今まさに起動しているこのパソコンの内部では何が起こっているのか。何も知らないで、ただ利用するだけの生活。憎むべきは、私のような人間の科学技術に対する無関心と無知、それに反して便利さなどの成果を無闇に求める浅ましさ。あるいは深く考えようともせずに、またどう考えたらよいのかを教えられたこともないままに、誰かにあてがわれた物で満足しきっているという、悲しいほどの愚かさ。
やり切れません。

一方で、技術や知識を得た限られた人々の、社会的責任も問われているようです。特定の人間にしか制御できない(あるいは誰ひとりとして制御できるもののいない)技術を、世に送り出すべきか否か。そんなことをいちいち心配していたら科学技術の進歩はないかもしれませんが、しかし進歩のためにはどのくらいの犠牲ならば容認されうるのでしょうか。もしも、生み出した技術が、その人自身の手にも負えないものであることが分かったら、すっかりやり直して始めから無かったことにすればいいとしても、それが果して本当に可能であるでしょうか。


と、今のところ私はこのようにこの物語を読みましたが、何度か読むうちにまた印象は変わってくるような気もします。我ながら、今回は本筋とずれたところに反応しすぎているような感じがして仕方がないですし。もう少しして落ち着いたら、また読み返すことにしましょう。

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