安部公房(「澁澤龍彦編 暗黒のメルヘン」所収 河出文庫)
《あらすじ》
39歳の老婆は貧しさに打ちひしがれ、糸となり自らをジャケツに編み込んでゆく。その息子は不正を告発するビラを配ったために工場から追い出されている。
人々から夢や魂や願望が蒸発して、そのうちに美しい雪の結晶となって降り積もる。止むことなく降り続け、また融けることもない雪に世界は覆われてゆく。
《この一文》
” 人は貧しさのために貧しくなる。
そんな不合理な貧しさにも、何か理由があったのだろうか? いったいお前は何者? どこからやって来たのだ? ”
耳について離れない一言です。
いまは夏だけれど、どこか探せば哀しいほどに美しい雪の結晶が見つかるんじゃないだろうか。もしかしたら、それはもうずいぶんと降り積もっているんじゃないだろうか。その固い表面には、私が透けて映るんじゃないだろうか。
貧しいのは私が怠惰なせい。
そんな仕事を選んだ私が悪いのかもしれない。
しかし、月に20日を働いている私が怠惰だろうか。
そんな仕事を選んだ私が悪いというのは、まったく本当の話だろうか。
それでもどうにか暮らしていける私はまだいい。
もっと必死に働いている人が、自分の哀しさも分からなくなりそうになっている人がいないだろうか。
貧しさのために貧しくなる哀しみを、どうしたらいいのだろう。
幸運という幸福の中にいるときには気が付かない。
私もずっと気が付かないままでいた。
いまもすっかり気が付いたとは言えない。
けれども、無関心という冬がやってきたら、春はもはややすやすとは訪れまい。
いまは夏だけれども。
《あらすじ》
39歳の老婆は貧しさに打ちひしがれ、糸となり自らをジャケツに編み込んでゆく。その息子は不正を告発するビラを配ったために工場から追い出されている。
人々から夢や魂や願望が蒸発して、そのうちに美しい雪の結晶となって降り積もる。止むことなく降り続け、また融けることもない雪に世界は覆われてゆく。
《この一文》
” 人は貧しさのために貧しくなる。
そんな不合理な貧しさにも、何か理由があったのだろうか? いったいお前は何者? どこからやって来たのだ? ”
耳について離れない一言です。
いまは夏だけれど、どこか探せば哀しいほどに美しい雪の結晶が見つかるんじゃないだろうか。もしかしたら、それはもうずいぶんと降り積もっているんじゃないだろうか。その固い表面には、私が透けて映るんじゃないだろうか。
貧しいのは私が怠惰なせい。
そんな仕事を選んだ私が悪いのかもしれない。
しかし、月に20日を働いている私が怠惰だろうか。
そんな仕事を選んだ私が悪いというのは、まったく本当の話だろうか。
それでもどうにか暮らしていける私はまだいい。
もっと必死に働いている人が、自分の哀しさも分からなくなりそうになっている人がいないだろうか。
貧しさのために貧しくなる哀しみを、どうしたらいいのだろう。
幸運という幸福の中にいるときには気が付かない。
私もずっと気が付かないままでいた。
いまもすっかり気が付いたとは言えない。
けれども、無関心という冬がやってきたら、春はもはややすやすとは訪れまい。
いまは夏だけれども。
「自分の国に居た時は、貧しくて食べれなくても辛くなかった。日本に来て貧しい事に気がつき 貧乏が辛いと感じている。」
ある大学のスペイン人留学生は奨学金を18万もらい、アパート代3万ぐらいを使い、昼と夜にバイトして国に30万近く送金していた。
彼は日本に来て25キロも痩せたけど、「日本が好きで楽しい」
アルゼンチンの人は一週間休みなく15時間働き
一年間300万貯め 国の弟に企業をおこすお金として渡した。
ペルー人の人はパンの工場のラインで夜8時から朝の10時まで働き、昼はビデオを卸す仕事をし、国から家族一人ずつ呼び寄せている。
「不安定な情勢の国にいるより 日本で家族とおれるから幸せ。でもママは自分の国にいた方が幸せと言う」
私が東京に居た頃、今より給料が良かったけど、今より貧乏と感じて惨めで、いつもいつも卑屈で辛かったです。
朝も晩も働き、病気になり倒れながら、家を建て
年金で暮らしている知り合いは、お金をたくさん貯めて豊かなのに、今も貧乏っぽくあさましい。
安部公房は貧乏を詩に昇華しています、 西原理恵子の「ぼくんち」の哀しみに似ていて両方とも読んで泣きました。
私が外国人のエピソードを例にするのは、「雨の日に傘をさす文学」等の感覚が日本人的な感覚の中での語り合いに過ぎず、実は日本的な感性の洗脳を受けていないか?と(外国の自慢話と思われようと)問いかけているつもりです。
日本的なのが悪いと言っているのでは無いのです。
貧乏も私達が住んでいて生きている時代でしか、リアルに感じれない部分があります。
本に出遭うこと。人に出遭うこと。全てを戦いにして出遭っていくのです。
熱いコメントをありがとうございます。
えーと、saraさんのおっしゃることは何となく分かるような気もしますが、正直に申し上げますと、
>「雨の日に傘をさす文学」等の感覚が日本人的な感覚の中での語り合いに過ぎず
ここが私にはよく分かりませんでした;不勉強でスミマセン。
つまり、「なにを貧乏と考えるか」ということには国や文化によって違いがあり、日本人的貧乏観とは「働いて充分に金もありながら、それを正しく使うことができないことによって生じる精神的貧しさである」ということでしょうか?
saraさんのおっしゃりたかったことを、誤って解釈していたらゴメンナサイ。どしどし訂正してくださいね!
私の個人的な意見では、たとえ稼ぎが少なかろうとも精神的豊かさを獲得して暮らすことはできるかもしれないとは思います。ある程度《経済の外側》に立つことができるとすればの話です。
ですが、《経済を基盤として動いている世界》のなかへ労働を通して関わっていこうとする存在に対して、「労働に見合った報酬(自立した存在としての生存を保証するだけの額)が支払われないことが常態化している」「そして社会はその種の人間を、その程度に扱って平然としている」という不合理を許すことができません。
それはおそらく、日本だけでなくどこであろうと「対価を得るために労働する全ての人々」の問題であるかと考えます。
…自分でも何を言っているのか分からなくなってきました。『ぼくんち』はたしかに泣きますね。
雨の文学は、あるブログで雨の日の叙情的な事が話題になり、傘をさす話になりました。
日本のように雨の降る様がいろいろある国は雨の表現も、傘の叙情も語れるのですが、イランの人とは語れません。また私の知っているイギリス人は傘をささないので、(すぐ雨がやむせいか傘を持つ人が少ないらしい)傘になんのコメントもしません。
彼が言うには
「なんで日本人は水に濡れるのをあんなに気にするのだろう?」
雨の文学的な感覚はとても日本人らしく、そしてそれ以外に考察をしないところがあります。
今の時代 携帯、パソコンを持っているのが当たり前の部分があります。
しかし、自分から持たないのでなく、お金がなく持つ事のできない(許可されない)10代の子は惨めな思いをさせられます。
それは、本人ではなく、周りが
「持っていないんだぁ」と何度も、何人からも侮蔑まじりに言われるからです。
誰が言ったか忘れましたが、
ひと昔前の貧しさは周りも同じように貧しいので、辛くなかった。今は手の届きそうな金の無さが惨めで卑屈になる。と
安部公房の時代は、周りも貧しかった。
だから文学として痛みのある美しさが成り立つのではないでしょうか?
それは、また日本的な貧しさではないでしょうか?
私達はどこまで、どれだけ貧しさを知っているのでょうか?
お盆休みでいらしたんですね、私は明日から短い夏休みです。やったー。
さて、丁寧に説明していただきまして、ありがとうございます。なるほど、よく分かりました。そうですね、雨の日に傘をさすのはたしかに日本的ですね。
>安部公房の時代は、周りも貧しかった。
だから文学として痛みのある美しさが成り立つ
そして、このご意見もナルホドという感じでした。
今の私にはこの頃の貧しさというものが分からないところはある気がします。
saraさんのおっしゃるように、現代の日本では「経済的な貧しさ」に対してどことなく卑屈で侮蔑的ですよね。そうやって上から物を見ているような態度を取っているのが、実のところけっして裕福な者ではないというところが、なんとも物悲しいところです。