半透明記録

もやもや日記

「笑」

2011年05月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


アルチバシェッフ
森林太郎訳(青空文庫)




《あらすじ》
医学士は窓辺で死について思いをめぐらせている。彼は気持ちが暗くなってきたので、病院内を歩き回って、ゆうべ新しく来た患者の部屋へ入ってみたのだが――


《この一文》
“不思議はそこではなくて、別にあります。不思議なのは、人間といふ奴が、始終死ぬ事を考へてゐて、それを気の遠くなるまでこはがつてゐて、死の恐怖の上に文化の全体を建設して置いて、その癖ひどく行儀よくしてゐて、真面目に物を言つて、体裁好く哀れがつて、時々はハンケチを出して涙を拭いて、それから黙つて、日常瑣末な事を遣つ附けて、秩序安寧を妨害せずにゐるといふ事実です。それが不思議です。わたくしの考へでは、こんな難有い境遇にゐて、行儀好くしてゐる奴が、気違ひでなければ、大馬鹿です。”






無と、無の、その間に己の命があるのだとしたら、この一瞬間に過ぎない生命にはいったいどんな意味があるというのか。死がおそろしい。己の生も死も、永遠のなかで無限に繰り返されているだけの、ただそれだけのものだとしたら、己のこの生命にはいったいどんな意味があるというのか。それでも、己はここで悩んだり苦しんだり怖れたりしながらも生きて、そういった己の苦しみがあとからやってくる世代の役に立つだろうとも思う。けれども、しかし………。



とても短いお話です。ところが、興味深い点がいくつもある。私はそれについてよく考えてみようとしばらくうなってみましたが、もやがかかったみたいに、うまくいかない。彼らの対話の全部を秩序立てて考えてみることができない。でも、面白かったですよ。



物語に登場する医学士と入院患者との対話は、最後は笑いで終わります。彼らは笑うんです。彼らが怖れる彼ら個人の死の虚しさは、永遠ほども長い時間のなかでまた別の命として果てしなく繰り返されるというならば、あるいは、彼らが死に至るまでの考えや行動のわずかばかりでも次の世代へそのまた次の世代へと受け継がれていくというならば、それが確かなことならば、己の死はそこまで虚しいものでもないと思えたのかもしれない。個人が死に絶えても、人類としてはその生命をずっと未来まで、ほとんど永遠とも思えるほど先の未来まで繋げられるとしたら、この己の死がその一部であるならば、そこまで虚しいものではないのかもしれない。けれど、私が死ぬ、そして人類もまたそのほんの少し先の未来で死に絶えてしまうと分かっていたら? 地球上の生命の死滅の時が、もうそこまで迫っていると知ってしまったら?

それで、医学士と患者とは笑うのです。

私もまた笑うだろうか。毎日笑って過ごせば幸福でいられるようなことがよく言われるし、私もそう思うのだけれども、でも、どうして笑ってただそれだけで済んでしまうような気になるんだろう。あははと笑いさえすれば、物語だってそれでなにかうまくいったみたいにして終わることもできる。

楽しいから、面白いからといって笑うのは、すべていいことだと疑わなかったけど、でも笑うって何だろう。そら、痛かったり苦しかったりするよりも、楽しかったり面白かったりする方が気持ちがいいから、そういうときに出て来る「笑い」というものも肯定的に考えているのかもしれない。けれど、楽しいとか面白いとか、それってそんなによいことなんだろうか?

分からないことだらけのこの世の中で、笑って過ごすことだけがわずかに確からしいと信じてきましたが、それがそうではなかったらどうする? たとえば、この地上で、一生懸命に仕事をしたり、綺麗なものを造り出したり、大切に保管したり、遠くへでかけたり、あれをみて喜んだり、これを聞いて読んで楽しんだり、そういうことを美しいと私は思ってきたけれど、美しいと思ったのは、それらすべてが人類全体の財産となり、これからの世代をいつかはもっと美しいところへ連れて行く助けとなるだろうと思っていたからかもしれません。でも、たとえば、その人類が、自滅ではなく、宇宙の天体のバランスの問題で否応なくその破滅をすぐ先の未来で約束されているとしたら? それはたとえば数百年後とかで、私はその時にはもう生きてはいなくて事態を目撃することはないにしても、地球を丸ごと崩壊させる不可避の大事件がすぐそこにあると知ったら、私もやっぱり笑うんじゃないかな。

明日に打ち切られてしまうプロジェクトを、それと知らずに、明後日もその先も存続すると信じて打ち込むのは、ちょっと馬鹿げてはいないだろうか。いつ終わるかを知らないからがんばれるけれど、もし期待よりもずっとはやくに終わると知ってしまったら? 


私も笑うかもしれない。これは楽しいからだろうか、それとも面白いからだろうか。「狂気」の一言でこれを片付けられる? どうかな、どうだろう。



私もたぶん笑うと思う。けれども、その笑いはこのお話の結末でふたりが笑ったような笑いではなく、もう少し違った意味を含む笑いとなるのではないかと、今は、思っています。アルチバシェッフのもうひとつの短編「死」もまた「笑」と同じテーマを扱ったものですが、こちらの結末のほうが、今の、私には共感できるものでしたね。「今の」というのは、私も別の時期にはやはり「笑」のふたりが笑ったように笑うと思うからです。こことそこをいったりきたりしているからです。

というわけで、今度はもうひとつの短編「死」について考えてみるつもりです。アルチバシェッフ、面白いよ。青空文庫で読める森鷗外先生の翻訳は、どれも面白い作品ばかりでいいですね。しかし聞くところによると、鷗外先生はお話を翻訳する際に大胆に改変したりすることがあったといいますから(←どこで得た情報かはおぼろげ;)、アルチバシェッフの原作がこの通りであるかどうか私には分かりませんが、いずれにしても、「笑」と「死」とは、私には面白いテーマを持った作品であることには違いがないようです。

ふと思いついて蔵書を調べてみたところ、私はこのアルチバーシェフの『サーニン』を持っていました。アルチバシェッフってあんまり聞いたことないけど、結構面白いよね、とか思っていましたが、あっ、この人だったか!! 有名人だった…全然気がつかなかった…そして『サーニン』はまだ読んでいなかった……はぁぁぁ。

まあ、ともかく、次回(か次々回)は「死」について。







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