半透明記録

もやもや日記

「にせ利札」

2009年08月17日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

トルストイ 中村白葉訳
(『トルストイ全集10後期作品集下』河出書房新社)




《あらすじ》
ミーチャは友達からの借金を返すために、いつもよりも多く小遣いを要求するも、彼の父はそれを許さなかった。そこでミーチャは友達のマーヒンに相談するのだが、不良少年のマーヒンは、ミーチャの持っている利札を贋造し、近所の写真屋でそれを使ってしまうことをすすめる。このにせ利札がきっかけとなり、人々は次々と破滅への道を辿ってしまうのだった。


《この一文》
“「あの男となら危険なことはありません。あれは聖人のような男です。だれにでもきいてごらんなさい」
 「ですが、それがどうして囚人なんかになったのです?」
 鉱長は微笑した。
 「人を六人殺したのですが、聖人ですよ。ぼくが保証します」 ”



このあいだ、『ラルジャン』という映画を観ました。それが、トルストイの「にせ利札」を原作としているというので、さっそくそちらを読んでみようという気になったのです。映画のほうは、何故? 何故! の連続だったのですが、原作を読んだ後でふり返ってみると、なるほどそうだったのかと納得出来るところも出てきました。まあ、トルストイくらい読んでおけよ、ということだったのですね。ふむ、ふむ。そういうことか。
ちなみに、映画『ラルジャン』では、この「にせ利札」の第一部を映像化しているようです。今なら、監督があの映画をあそこで終わらせた気持ちが、少しは分かる気もします。なんとなくですが…。迫力が、真に迫ったものがありますからね。


さて、「にせ利札」です。
この物語は、第一部と第二部に分かれていて、第一部では小さなごまかしから始まった悪意が終には多くの人々を破滅に追いやるさまを、第二部では転落しきり悪の限りを尽くした人物が改心することによって今度は善意の波が人々の間に広がっていくさまを描いています。かなり面白かったです。衝撃波がじわじわと押し寄せてきます。

震えるほどに恐ろしく展開する第一部に比べると、もしかしたら、第二部はいささか都合が良過ぎる展開と考えることもできるかもしれません。正直な話、私も少しそう思いました。しかし、それだけではないはず。それだけではないはず、と考えたくなる何かが、第二部にはあります。

まず第一部では、父に反発する少年の出来心、いたずら程度の気持ちで犯した利札贋造というごまかしが、次第にその悪意を大きく拡大しながら伝播し、最終的には人々が殺し殺されるような事態にまで発展していくさまを、細かく区切られた章で、手早く鮮やかに描いています。
ああ世の中とは実際はこんなものだな、誰もが自分のことしか考えず、十分に持ちながらもちっぽけな損失を容認できない金持ちが、それを取り返すために弱いものを騙し、虐げ放置し、弱者はそれに対して暴力以外の手段を見つけられず、持てる者への憎悪を募らせながら次第に暗闇へと自らを追いやってゆく。この第一部の持つ恐るべき説得力と現実感の前には、改心篇ともいうべき第二部の展開は、だいぶ温い。御都合主義。ファンタジー。そんなうまくいくわけがない。と言いたくなるところがあるのです。

しかし、もちろん、第二部はただ温いだけではないのでしょう。なんとなくそういう気持ちになったという訳の分からぬ理由で六人を惨殺したステパン。彼は最後に殺した老女が言った言葉が頭から離れず、苦しみ、ついには悔悟し改心します。別人となったステパンの魂の深くから発せられる言葉に、まず彼の周囲の囚人たちが変わっていき、さらに刑吏へ、予審判事へ、被害者の遺族へ、皇帝へと、自己の身勝手さを悔い、他人のことを考えようとする善の意志は静かにひそやかに広がっていきます。

他人のために何が出来るか。他人のことを思うとは一体どういうことなのか。
そのことについて、書かれた分量よりももっと多くのことが、第二部では提示されていると思いました。
第一部で革命思想を持った若く美しい女性が登場しますが、彼女は多くの人の幸福と平等を願ってはいるものの、結局は個人的な事情のために、しかも暴力という形をとって事態を解決しようとし、果たせず、破滅します。そのやり方では駄目なのです。
彼女と対比されるのは、第二部では予審判事となった元不良少年マーヒンの婚約者である金持ちのお嬢さんでしょうか。彼女はまず愛するマーヒンに安らぎを与えたいと考えるのですが、そのうちに財産の全てを放棄して人々のために尽くしたいと思うようになり、実際にそのように行動しようとします。彼女は具体的な行動よりもむしろ、ただその熱意だけでもって十分に、知らず知らずのうちに彼女に関わる人々の心を、それも決定的に変えてしまい、彼女によって変えられた社会的影響力のある人々がまたそれを周囲へ広めていくのです。

また、作品中でもっとも変貌を遂げるのが、徒刑囚ステパンです。彼は六人を虐殺した過去を持ちながら、やがては聖人と慕われるような善意の人として生まれ変わります。極端から極端へと歩いた人でした。この人については、本当はもっと深く考えるべきところであるかもしれませんが、うまくまとまりません。ただ、私は先日読んだフロベールの『ジュリアン聖人伝』を思い出しました。罪を購うことが出来るのかどうかは分からないですけれども、悪意がどこから発生するのかをはっきりと捉えられないように、善意もまた湧き出してきたら、それがどこから湧き出したものであろうとも、尊さには変わりがないのかなと、救いが自らの力によってもたらされるものならいい、それによって周囲の人々に良い影響を与えるものであるならいいな、と考えた次第です。


ともかく、慈悲、ということがこの物語のテーマなのでしょう。慈悲が、思いやる心が足りないばかりに互いに滅ぼし合う人々を救うには、やはり慈悲で世界を満たしていく小さな努力を積み重ねるしかないのでは。そんな物語だったのではないかと私は読みました。
また、富という力を得た者は、知識という力を得た者は、その力の強さに酔ってさらに力を増大しようというのではなく、もっと全体のことや弱い者のことを考えるべきであり、それがいずれは自らのささやかな、しかし何も恥じ入ることのない純粋な喜びをもたらしてくれるだろうこと。また力のない弱い者は、ただその境遇を嘆いたり恨んだりするのではなく、自分たちの力で立つことを、自分たちの力で不足を補うことを、暴力でもって奪ってくるのではなく自分たちで獲得して補う態度を覚えるべきだろうことを、トルストイは描きたかったのではなかろうかという気もします。

善意の波が世の中を満たしていく。それは馬鹿げた夢物語で、到底実現するはずもない甘い理想主義かもしれないですけれども、それでも書かずにはいられなかったところに、ここでどうにか人間への希望を見いだそうとしないではいられなかったところに、そして読者をしてそれぞれに何かを考えねばならない気持ちにさせるところに、トルストイという人の強さがあったのではないかと、私は思うのですが、いかがでしょう。まあ、なんにせよ、私はまだこの人の作品をもっと読まなくてはならない段階なので、これから印象は変わるかもしれませんが。


あ、最後に、私がものすごく驚いたことには、この物語はミーチャ少年の父への当てつけとしてのささやかな利札偽造事件から始まるのですが、結末では今度は波は善意を帯びてミーチャ青年の元へ静かに優しく戻り、彼と父との間に横たわっていた軋轢をさっぱりと取り除く形で終わっているのです。そのささやかさに私は、たまげた。また、始まりと終わりがこれほどまでにささやかであるが故に、物語は一層の恐ろしさをもって私の前に立ち上がります。すげーよ、トルストイ! このお話の最大の見所はここかもしれないとさえ思える、人と人が複雑に関わり合った社会というものを、巧妙で精巧な縮図として描くことに成功しているトルストイという巨大な才能に、今更ながら感服しきりの私なのでありました。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿