製作: 1979年 米
監督: ハル・アシュビー
出演: ピーター・セラーズ / シャーリー・マクレーン / メルビン・ダグラス
《あらすじ》
読み書きが出来ず、ひたすらテレビを見ることのみを楽しみとする庭師のチャンスは、生まれてこのかたお屋敷から一歩たりとも外へ出たことがなかったが、ご主人様の死により、財産管理をする弁護士によって世の中へ追い出される。出生も謎、本名も謎、庭のこと以外の話題はほとんど理解出来ないチャンスだが、不思議な偶然から大金持ちで財界の大物ベンジャミンの親友としてお屋敷に迎えられることになり…
何とも言えない、妙な感じが残る不思議な映画でした。コメディと言えば、コメディなんでしょうね。ただ、カラッと明るい笑いというよりは、じんわりと悲しみが滲んでくるような、世の中をやんわりと皮肉っているのがちくちくと伝わってくるというような、そういう感じ。アメリカが、現代社会が失っているもの、その喪失感やそれによる未来への不安感が随所に漂っていて、ちょっと寂しいような気持ちになります。ただ、なかなか面白かった。
あの結末のシーンには、いったいどのような意味が込められているのでしょう。チャンスは【常識】の圏外からやってきて、いつまでもそこにいる存在であるということ、だからこそ彼と出会った人たちは【常識】や【慣習】というルールにきつく縛られた自らの姿を発見することができた。そういう意味だったのですかね。しかし、それはつまり私たちはこの中にいる限りはなかなか自分で自分を変えることは出来ないと言われているような気もしてきて、私などは少し憂鬱になるのですが、それは私の考えが暗過ぎるかもしれません。
それはさておき、この映画を見ていると、現代社会に生きる人々はいい加減、腹の探り合いに疲れているのかなと思えてきます。発された言葉が、その言葉通りの意味しか持たない世界、あるいはその言葉を良いようにのみ解釈できる世界、そんなものへの憧れが描かれていたかもしれません。そして同時に、発された言葉をその通りに受け止められず、自分に有利な方向へ物事を持っていこうとするため、あるいは自分の知性を他に示そうとするために、単純な言葉の裏に膨大な背景を勝手に付け加えずにはいられない人々の態度を皮肉っていたかもしれません。
チャンスは、庭のことしか話しませんし、話せません。それ以外の物事は彼には理解できないようです。彼はテレビを見ますが、彼の興味はそこで話されている内容ではなくて、単に人の動作を見つめてそれを真似するだけです。握手やキスの仕方とか、体操とか。その通りにやってみるのが好きなだけ。いつも平穏に見えるが、感情表現がきわめて乏しいとも言える。
ところが周囲の人々は、そんなチャンスの言動を可能な限り拡大解釈して、なにか深遠な哲学的な内容であると勝手に受け取っていきます。ただし周囲の人々をそうさせるのは、チャンスのきわめてシンプルな人柄によるものであり、情報にまみれて本質を失いがちな現代社会に生きる我々が長らく見失っている人間のひとつの理想的な在り方をチャンスという人物が示していると言えましょうか。
はじめの方の場面で、空家になったお屋敷にチャンスがひとり取り残されていて、白い布が掛けられた家具の中に埋もれながらいつものようにテレビを見ていると、弁護士がやってきて居るはずのないチャンスがそこに居ることを問いただす(チャンスの存在は、どこの書類にも載っておらず、庭師であることも、死んだ主人との関係も分からない)という場面がありますが、「あなたの存在証明は?」というようなことを尋ねる弁護士に対してチャンスはこう答えるのでした。
「僕がここに居ること」
本当は、私たちはここに居るだけで、ここに居ることになるんですよね。居ていいよ、と言われればそれだけでそこに居てよかった時代もあったはずなんですよね。膨大な書類を書かされている間に、ついそのことを忘れてしまいそうになりますが。
ちょうど引越しで転出・転入、郵便物の転送届、その他諸々の手続きを強いられている最中の私には、いろいろと考えさせられる内容でありました。
その他にも、人種問題やマスコミの報道のあり方、ごく一部の人間による富の独占、生と死の問題などなど、割と盛りだくさんに詰め込んである社会派な映画でした、意外に。面白かった。
それにしても、ベンジャミンのお屋敷は凄かったな~。あと、墓。フリーメーソンの墓って、みんなあんななのですかね?