農業じゆう人

     健康を第一に無農薬で
          安心・安全・新鮮な野菜作りに励んでいます!

どうなるの日本の経済

2022年06月20日 12時47分42秒 | 世間
  ポルトガルの宣教師の"ルイス・フロイス"は"武田信玄"のことを、破竹の勢いで力を増す
  "織田信長"を脅かす存在と評したという。 最近の経済ニュースを見て、かつて世界に
  紹介されたこの戦国の実力者が頭に浮かんだ。 旗に金文字で記した中国の古典「孫子」
  のフレーズのことだ。

  先般、米連邦準備理事会(FRB)が利上げを決めた。 上げ幅は27年7カ月ぶりの
   大きさという。 そしてパウエル議長は「強力なアクションをとることが正当化され
   ると判断した」と話していた。 「疾(はや)きことは風のごとく」。 じつはインフ
   レが進むのが予想より速く、追い込まれた。 それでも日本に乏しい経済のダイナミ
   ズムがそこにはあるようだ。

  かたやこちらは「動かざること」まではその通りだが、先は少し違いようだ。 山のよ
   うな景気浮揚を感じさせることもなく、依然として低空飛行が続いている。 円安が
   進み、物価も上がる。 もし利上げで対処すればどうなるか‥。 信玄の旗にはない
   孫子の言葉を借りれば「動くことは雷のごとく」。 雷に打たれるのは日本経済だ。
   手詰まり感が深まるばかりになっている。
  どうしてこうも活力に欠けるのか。 気がつけば様々な指標で隣国に肩を並べられ、追
   い抜かされてしまっている。 「人口一人当たりで比べればまだ大丈夫」という言い
   方も、いまやむなしく響くような気がしてならない。 薄れる世界での存在感。
   「人は城、人は石垣、人は堀」。 人が減り続ける世の中になぜなったのか。
   このままでは未来に残すツケが大きすぎる。

   それでも高い内閣の支持。 そして与党の支持。 皆さんはお考えはどうでしょうか。 

原発裁判

2022年06月19日 12時41分22秒 | 話題
  とても甘いお菓子だったという。 砂糖も蜂蜜もたっぷりだと、昔の新聞記事のある。
  これ福島県大熊町にあった「原子力最中」です。 東京電力福島第1原子力発電所が
   営業運転を始めた1971年に地元の和菓子店が売り出し、あの事故が起きるまで、
   ときどき話題になっていた。(私の遠い記憶ですが、カミさんの実家へ行っていたとき、浜通りに
   住んでいた親戚の方が手土産として持ってきたので、食べたかもしれない)

  最中の皮に原子炉建屋がデザインされていたそうだ。(私は記憶にない) 産業に恵ま
   れずにいたこの地域にとって、原発がいかに大きな存在だったかを示している。
   国策に協力し、首都圏への電力供給を担い、その見返りを受ける‥。 発電所の
   立地にともなう交付金などで、たしかに財政は潤い、人々は出稼ぎなどの労苦か
   ら解放された。

  2011年の苛烈な事故は、そういうシステムに組み込まれてきた住民の暮らしを
   地域ごと奪って現在に至っている。 各地に避難した人たちが起こした訴訟で、
   最高裁はきのう、国の賠償を認めない判決を言い渡した。 原発を動かすのは国
   策だが、事業はあくまで民営だという。 その曖昧さを司法も乗り越えられなか
   ったのだろう‥。
  1人だけ同調しなかったのは、検察官出身の“三浦裁判官”である。 「『想定外』
   という言葉によって、全ての想定がなかったことになるものではない」。
   巨大地震に対する、国を含めた備えの甘さを憂えた反対意見だった。 あれだけ
   の事故を経験しながら、原発をめぐる日本の議論はいまでも詰めが甘いようだ。
   冒頭の「原子力最中」よりも‥‥。

   日本は残念ながら「三権分立」ないと思っています。 特に上級裁判となれば
    ほぼ国に有利な判決が下されること多い。 何せ官邸が人事権を持っていま
    すから‥‥ネ。 国民の皆さんの多くの方が政治を含め現状でいい!と認め
    ているわけですからは何事も変わらないでしょう‥‥。

 そんなこととは別に梅雨ですネ~。雨が多
 く私共は困っています。貧乏人は自給せね
 ばならないのでホント大変。雨の合間を縫
 って朝7時前から泥んこになってジャガイ
左から、男爵・メークイン・レッドムーン・キタアカリ モ堀をしましたが、ご覧の通りです。
  雨の影響をまともに受けて近年にない大不作で寂しい限りで~す。 このような天
  気ですから、トマトやきゅうり・ナスなど夏野菜類がどうなっちゃうのか心配。
  なにせ家計にまともに響きますから‥。 雨もほどほどにと祈るのみです。
  原発や裁判は人間が携わることですから、国民や政府が互いに知恵を絞り努力
  すればよい方向に向くのではないでしょうか。 ただ自然界はそう簡単にはい
  かないようだ。 地球上に住む人が考え・思いを変えないとダメなようです。

ランドセル、多様性は昭和にも

2022年06月18日 12時46分00秒 | 世間
  毎朝のウオーキング、コースの途中でランドセルを背負って元気に登校して行く子どもたちに出会う。
  そのランドセルを見ると最近はカラーもデザインもいろいろあるんだな~と気づかされる。
  一昔前までは女子は男子はが定番だっただけに「ダイバーシティー(多様性)」という言葉が
   浮かぶ。 調べてみると、戦後すぐにもランドセルが自由で華やかだった時代があった。
  「途上必ス背嚢ヲ負フヘシ」‥‥。 日本の上流階級の学校だった学習院で1885年(明治18年)
   ランドセル通学がルールになった。 「背嚢(はいのう)」とは当時は主に軍用だったリュックのこ
   とで、オランダ語で「ランセル」。 これがランドセルの発祥というのが定説になっている。

  「学習院百年史」にも「学用品携行のために背嚢を採用したのは、日本では学習院が最初」とある。
   1890年に黒革製が指定された。 導入の経緯は「記録が残っていない」(学習院)というが、
   狙いは「学業における平等」だったようだ。 
  ランドセル工業会(東京・台東)の「ランドセル130年史」に学習院初等科の指定ランドセルのメー
   カー、大峡製鞄(東京・足立)の役員が関係者への聞き取り調査をまとめていた。
  もともと華族のために作られた学習院は裕福な生徒が多く、服装や持ち物を競い合って華美になる
   傾向があった。 制服が導入されても馬車で通学したり、使用人に荷物を持たせたりする生徒が
   おり、学用品は自分で持ってくるよう指示が出された。 両手が空く背嚢が最適だった。
  日本全体で見れば、子どもにランドセルを買い与えることができたのは富裕層だけだった。 昭和
   初めになってもランドセル通学の小学生は約」1割。 肩掛けカバンやふろしきの方が多かった。
   我が家の子どもたちの頃でもランドセルはまだ赤と黒が主流だったような気がする。

  上蓋に大きくクジャクや花をあしらったり、野球少年が跳んでいたリ、戦時中の抑制から解放され
   た時代の空気が伝わってくる。 革に圧力をかけて凹凸をつけ、絵の具をにじませずに塗り分け
   る技法で、専門職人が手作りしていた。 ランドセル工業会の“林会長”は「富裕層向けで装飾が
   豪華だった」と説明している。
  村瀬鞄行(名古屋市)所蔵の野球柄ランドセルに付いている当時の値札は1100円。 1945~
   50年の製品だという。 高インフレ時代で単純比較はできないが、48年のランドセル平均価
   格は700円だった。
  のちに「団塊の世代」となる第1次ベビーブーム世代が小学校に上がるようになると、安価な大量
   生産品が求められた。 しかし、まだ物不足で牛革が思うように手に入らない。 戦後すぐに新
   工場を立ち上げたセイバンも豚革を組み合わせるなど試行錯誤が続いた。 当時は帆布製やブリ
   キ製、さらには紙製のランドセルまであったという。(紙製のもの知っています)
  約6割にとどまっていた普及率を90%超に押し上げたのが繊維メーカー、クラレの人工皮革「ク
   ラリーノ」だった。 もともと靴用に開発された素材で、ランドセルは牛革製のほぼ半額だった。
   「人工材は安物」「孫に買ってあげるのだから高いものがいい」といった消費者の本革思考を変
   えたのは、ランドセルメーカーと共同での全国行脚だった。 各地のかばん専門店や文具店のほ
   か、会議スペースなどにバイヤーを招き、表面のきめ細かい仕上げなどをアピールした。

              
  少子化が進み、コロナ下の21年の出生数は過去最少の84万人にとどまった。 この10年ほど
   は入学祝いに祖父母が高額ランドセルを贈る「ラン活」が過熱している。 ランドセル工業会に
   よると売れ筋の価格帯は6万5000円以上。 縫い糸の色までも指定できるオーダーメードや
   10万円を超える「工房系」も人気があるという。
  一方、新しいタイプのランドセルも増えてきた。 以前だが、新宿マルイ(東京・新宿)の臨時売り
   場には上蓋を取り外すとリュックになるランドセルがあった。 革製よりも軽量で通学にも課
   外活動にも使える。 父親に連れられてきた男の子が「赤がいい!」とうれしそうに背負って
   いたのが印象的。 赤いランドセルがほしかったが、これまで気に入るものがなかったのだと
   いう。 現代は「みんな平等に、好きなものを選べばいい」という時代になった。
   古い世代の私共からしてみれば、改めてそう教えられたような気がいたしました。

「12時」の表記

2022年06月17日 12時41分07秒 | 雑学
  昼の12時は午前、それとも午後? もし午前なら、10分経過した時刻は「午前12時10分」なのか。
  デジタル時計は「12:00 PM」と表示するので午後と思うかもしれない。 真相はいかに‥‥。

  「お昼の12時はずばり午前12時」と話すのは明石市立天文科学館(兵庫県明石市)の“井上毅館長”です。
  日本標準時の基準となる東経135度の子午線上にある同館は、時間に関する問い合わせが多い。 中
   でも「お昼の12時は午前か午後か」は定番の質問だという。 これには法令上の定義があるそうだ。
  日本で午前と午後を定める唯一の法令とされる明治5年(1872年)の「太政管布告第337号(改暦の布告)」。
   昼の12時ちょうどは「午前」と明記されている。 では10分すぎた12時10分は果たして午前
   なのか。 「それについては明確な決まりはない」と井上館長は話す。
  布告に添付された表によると夜12時は「午前0時」「午後12時」の両方の呼び方が使えるが、昼の
   12時について「午前12時」としか記載がない。 そして午前は「午前0時から12時まで」。
   午後は「1時から12時まで」。 つまり午前12時すぎから午後1時前までは、午前か午後かの規
   定がない。 空白の時間帯なのだ。 このミステリーの理由について、国立科学博物館名誉研究員の
   “佐々木さん”は「今となってはわからない」という。  「布告を補う表で夜12時同様、午前12時
   =午後0時と書けば問題なかった」
  現実的な対応として天文科学館の“井上さん”は「午前12時を10分すぎたら、24時間制で呼ぶか、
   午後0時10分とすることで誤解を避けるのが望ましい」と指摘しいている。 実は他の公的機関も
   同様の見解のようだ。
  国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)は1989年、「午前12時00分00秒は午後00時00
   分00秒、午後12時00分00秒は午前00時00分00秒との考え方で統一するのがよいのでは
   ないか」という見解を出している。 次は文化庁がまとめた「言葉に関する問答集 総集編」(2017年7刷)
   「正午を10分すぎた場合は午後12時10分か、午後0時10分か」という問いに対し、「午後0
   時10分という方が適切であろう」としている。 少なくとも正午をすぎれば午後、ということだ。
   こうした議論がありながら本格的に見直しがなされなかったのは「常識の範囲の解釈で何とか対応し
   てこられなかったからでは」と佐々木さんはみる。

 公的ルールも個別に対応している。出生証明
 書や死亡診断書の「記入の注意」では「夜の
 12時は『午前0時』、昼の12時は『午後
 0時』と書いてください」としている。前者
 は厚生労働省と法務省の共管省令、後者は厚
 労省の省令で定められている。公務員の勤務
 時間を規定する「一般職の任期付研究員の採
 用、給与及び勤務時間の特例に関する法律」
 に基づく人事院規則でも「午後0時から」と
 いう文書を使っている。
  では民間ではどうか。 日本損害保険協会によると、損保では保険期間の時間表記に関する共通の規定
   はない。 個別にみると、スポーツ大会などで加入する損害保険ジャパンのレクリエーション保険で
   は、保険期間の時刻を「午前0時」から「午後12時」までとしている。 つまりは同じ夜の12時
   だが、こう書くと起点と終点がわかりやすい。 また、新聞やテレビの報道は、昼は正午、10分す
   ぎたら午後0時10分、夜は午前0時と明快です。

  交通機関も誤解が生じにくい24時間制が多い。(私はすべてこれです)  航空ダイヤは国際航空運送協会
  (IATA)の規定で24時間表記。  鉄道時刻表は「時刻表百年史」(新潮社)を執筆した“松尾さん”によ
   ると、かつては午前を細字、午後を太字で表したが、1942年以降、鉄道省が軍の形式に合わせる
   形で24時間制が広まった。

  デジタル時計の12時間表示はややこしい。 AMは午前、PMは午後と思いきや、12時だけは昼が
   「12:00PM」、夜は「12:00AM」。 法制上の規定と反対が基本なのだ。
   AM,PMはラテン語由来。 正午をいう「Meridiem」の前が「Ante Meridiem」、後が「Post Meri
    diem」の略だ。 「Gショック」のカシオ計算機は正午をPMかPとしているが、「1秒後に午後
   になると混乱しやすいから」(広報部)などと説明する。

  ビジネス翻訳を手掛ける“新見さん”によると、英語圏でもデジタル時計ではなじみがあるものの一般に
   は使われない。 正午は「noon」、夜の12時は「midnight」が推奨されているそうです。

  さまざまな12時。 「時は習慣としっかり結びついているので簡単には変えられない」ようですな‥。

梅雨入り

2022年06月16日 13時30分04秒 | 世間
  この季節を代表する花といえばアジサイやアヤメ、バラなどが思いつくのではないでしょうか。
  栗の実は秋の季語だが、その花は今が盛りだ。 どのような姿かご存知でしょうか。
  「世の人の見付けぬ花や軒の栗」とは芭蕉の句です。 世間の人びとがほとんど注目しない
   この花をたたえている。
          
        栗の花                アジサイ
  東京都三鷹市などに広がる野川公園を訪ねると、黄白色の15㌢ほどの穂のような花が群れ
   咲いている。 雨にうたれ、少し散り始めている。 「クリ ブナ科」の表示板がなけれ
   ば、それとは知らずに通り過ぎるところだった。 入梅のころに栗の花が落ちる。
   「栗花落」と書いて「つゆり」と読むそうだ。 難読人名のひとつだ。
  でも、人気アニメ「鬼滅の刃」に栗花落カナヲという女性剣士が登場し、認知度は若い世代
   を中心に高まっているらしい。 そういえば、今年の叙勲の名簿にも、この風雅な響きの 
   性があった。 お目にかかったことはないが、結構おられるのだろう。 自己紹介の際に
   は名字の読みや、由来など繰り返し説明したはずだ。

  きのう、東北地方の全域が梅雨入りしました。 梅雨のない北海道を除いて列島は本格的な
   雨の季節を迎えた。 梅雨の水を飲んでうまみを増すといわれる魚類はハモやイサキ。 
   イワシもいい。 今夜あたり旬の食材で一献傾けようか。 雨雲が災いをもたらさずに、
   農作物の生育や人びとの暮らしを支える慈雨となることを願ってやまない。

  稲作農家の皆さんには梅雨は大事な時期です。 その他の農家さんも今はビニールハウス内
   で栽培をしているので雨を気にせず対応しているようだ。 ただ、私共のような家庭菜園
   者はすべてが露地もの。 従ってこの時期は雨の影響をもろに受けます。 作物だけでも
   対応が大変なんですが、問題は雑草です。 今年のように雨が多いと作物はもちろん雑草
   取りなどもまったくできず草ぼうぼう状態。 次へのステップを進めるにもまずは草取り
   少々土が乾くの待っているのですが現状ではなかなか進まない状態です。 ここんところ
   少々泥んこになっても草取りするような日々の連続です。  まっど素人の菜園ですから
   天気を恨んでもしょうがありません‥ひたすら天気を待ちつつ泥んこ作業に励む日々です。

スポーツ苦手? 公園で遊ぼう

2022年06月15日 12時49分52秒 | 遊び
  子どもの「運動神経」を発達させるにはどうしたら‥‥と思い悩む保護者は少なくないという。
  子どもの運動に詳しいスポーツトレーナーの❝遠山さん❞が勧めるのは公園遊びだそうです。
  遊具や広場での遊びを通じて、運動能力を伸ばすために必要な基本動作を自然に経験できる
   という。 ポイントを助言してもらった。

  「夫婦とともに文化部で運動経験が少ないのですが、子どもの運動能力も伸びにくいでしょ
   うか?」 子どもの運動について保護者向けの講演に招かれると、こういった質問をいた
   だくことが多いという。 子どもが運動を苦手にする様子を見て「遺伝かな」と悩む必要
   はなく、「たくさん体を動かす経験を積めば運動能力は伸びていきます」と説明している。

  「運動神経」という名称の神経はない。 一般的に「運動神経がいい子」は、脳から筋肉へ
   動きの指令を伝達する神経細胞の回路が発達している。 人の動作を見たときに「こう体
   を動かせば自分もできる」と共感できる能力が高いともいえる。 この伝達回路が最も発
   達するのが幼児期~小学校中学年のころだそうだ。 発達のカギは「どのような動作をど
   れくらい経験したか」という運動神経の質と量が握っているという。

  「子どもに運動神経を」と言われても「なにをすれば?」と思われるだろう。 そこで幼少
   年期に経験を積んでほしい24種の動きを「基本動作」として勧めている。 発達研究の 
   権威の“デビット・L・ガラヒュー氏”が分類した84種の動作を基本に、手軽に取り込め
   て効果が高いものを中心に選んだ。(下記左の表)

 「走る」は多くのスポーツで必要とされる能力だが
 速く走れることだけが重要ではなく、スピードや方
 向の調節など多くの要素がある。四つんばいの「は
 う」は手足だけでなく背筋や腹筋も使う。「渡る」
 はバランス感覚や空間把握能力が必要だという。
 神経の量がぐんぐん増える幼少年期に基本動作を豊
 富に経験すると、筋肉への基礎的な動きを伝える神
 経の回路が発達する。こうした子どもは学校の体育
 の授業だけでなく、様々なスポーツになじみやすい。
 例えば鉄棒の逆上がりには「(地面を)蹴る」「ぶ
 ら下がる「回転する」「飛び降りる(着地する)と
 いう4つの基本動作が含まれている。 経験を生か
                   しスムーズに組み合わせられれば成功する可能性は高い。
  基本動作を経験する場としては公園がうってつけだ。 様々な遊具が組み合わさった複合遊具
   は基本動作の宝庫で、「のぼる」や「降りる」、「くぐる」などを連続して体験できるもの
   が多い。 遊具がなくても大丈夫。 鬼ごっこは「走る」のほか「追いかける」や「逃げる」
   「かわす」といった複数の動作を体験できる。 特に狭い公園で捕まらないように逃げ回る
   のは俊敏性の向上が期待できる。 ただ注意が必要なのは、基本動作を経験するために公園
   に行くのではなく、子どもを自由に遊ばせてほしいということを忘れずに。

  幼稚園の園児を対象としたある研究では、遊びの要素を多く含んだ運動指導を行っている園の
   方が、少ない園よりも園児らの運動能力が高い傾向にあったそうだ。 幼少期の運動指導で
   は、自発的な遊びが多様な運動パターンの経験につながると考えられている。
  子どもの遊ぶ様子を見て動作のバリエーションが少ないからと言って「投げる動作をしていな
   いから投げ込みをやるぞ」と指示すると遊びではなくトレーニングになってしまう。 運動
   を「やらされた」という苦い経験は体育嫌いにもつながりかねないので注意。
   もし体験させたい動作があるなら、子どもと一緒に遊びながら自然とその動作が引き出せる
   よう考えてほしい。 安全確保の面からも保護者は公園のベンチに座ってスマートフォンを
   触るのではなく、近くで動作を見守ってあげることが重要だ。

  身長が大きく伸びる「成長スパート期」までは外遊びなどを通じて多様な運動を経験した方が
   偏りのない体と運動能力が育まれることが最新の研究で指摘されている。 特定の競技に絞
   り練習するのは成長スパート期を過ぎてからで遅くないという。
  幼少年期に「体を動かすことは楽しい」という印象が身につけば、生涯を通じて運動に前向き
   に取り組む大人になる可能性は高い。 運動の習慣は体力・免疫力の向上や生活習慣病の予
   防、ストレスの解消など様々なメリットが望める。
  近年は障害のある子どもも一緒に遊べる「インクルーシブ公園」も少しずつ増えてきている。 
   誰でも使える遊具の導入は各地の公園や学校へ広がるであろう。 公園で遊ぶという選択肢
   はどんどん魅力的になっていく。 ぜひ子どもと一緒に出かけてほしいものです。
   お子さんと一緒に遊べばお父さん・お母さんのストレス解消にもなると思いますよ!!

「神社」と「お寺」どう違う

2022年06月14日 12時43分34秒 | 雑学
 「神社は神様、お寺は仏様を祀っているところ」と多くの人が知っていること。
   では改めて、どこがどう違うのか答えられますか? そう問われると‥はて?です。
   歴史学者で前明治学院大学の”武光教授”が次のように答えていました。 ご参考に!

  神様と仏様の違いって‥。 
   日本では八百万(やおよろず)の神といわれる神が祀られている。 主に自然界を守る精
    霊や、昔の偉人、祖先の霊魂などが神様とされてきた。 日本人は古くは、「人間は
    多くの精霊に守られている」とするアニミズム(精霊崇拝)の考えによって、精霊(霊魂)
    の集まりを神として祀っていた。 しかしのちに「祖先や偉人の霊魂が、精霊の集団
    を指導している」という発想が加わり、皇室の祖先とされる天照大神や応神天皇が神
    となったという。
   一方、仏像は「釈尊の教えを表現したもの」といわれる。 最初は仏教を開いた釈尊の
    (ガウタマ・シッダルタ)像だけが、仏像とされていた。  本来は仏像を見て、釈尊のよう
    に慈悲深い生き方をしたいと考えたのでしょう。 しかしインドでは間もなく、「仏
    像を拝むと御利益がある」といわれるようになった。 そして、釈迦如来(釈尊)の
    化身としての大日如来、薬師如来などにも拝まれ始めました。
   さらに釈尊に従って人々を救う菩薩や、仏法に従った弁財天などのインドの神々の天部
    人々を叱り励ます明王も仏とされた。 日本では平安時代から、神は仏の化身と神仏
    習合が広まり、明治の神仏分離以前、庶民にとって、神社とお寺は同一視されていた。
    これが、今もその違いを分からなくさせる理由の一つといえるそうです。

  手を合わせてお賽銭、札。 どっちも同じ?
   人々は古くは、自己流のやり方で神や仏への敬意を表していた。 だから神社やお寺の
    前で一礼するだけのお参りも、誤りではないそうです。
   しかし現代では定まった作法に従って参拝するのが、見栄えがいいでしょう。 多くの
    神社の参拝は、小銭を賽銭箱に入れた後、軽く2回お辞儀をして2回手を打って、最
    後に深々と頭を下げます。 この作法を「二拝二拍手一拝」などと呼ばれている。
    お寺の参拝の作法は、神社のものにならって整えられた日本流のものですが、お寺で
    は拍手をしません。 お寺ではお賽銭を捧げた後、両手を合わせて深々とお辞儀をし
    ます。  ほとんどの神社では御神体を見ることができませんが、多くのお寺では御
    本尊の仏像に頭を下げる形がとられています。

  神社の氏子でお寺の檀家。 両方になっていてもおかしくくない?
   神道では、すべての日本人を居住地の氏神の氏子とする考えをとっているそうです。
   それは江戸時代以前の人々が、村落などを単位に自分が住む土地の自然を守る氏神を祀
    った習慣を受け継ぐもの。
   それとともに多くの日本人が、自分が信仰する宗派のお寺の檀家になっています。 
    そのため初詣や七五三には氏神に参り、葬式やお盆はお寺の世話になる形がとられて
    います。
   大部分の人がこのように、神社とお寺を信仰の拠点としています。 これは神道が、諸
    宗教に寛容な態度をとってきたことから成立した、日本ならではの形といえるものな
    んだそうです。
   これまではあまり気にすることなく、親や生まれ育った地域の人々などから習わしとし
    て自然に教えられてきましたが、真髄を改めて勉強させられました。

国際基準になった日本の縮尺?

2022年06月13日 12時43分03秒 | 雑学
  今では中高年の趣味となったプラモデルは、48分の1や72分の1など英米生まれの縮尺が国際基準。
  そんな中に35分の1など日本発の縮尺が食い込み、異彩を放っているという。

  世界最初のプラモデルが英国のブランド、フロッグから発売されたのは1936年のことだそうだ。
  飛べない鳥を意味する「ペンギンシリーズ」だ。 開発後日が浅い合成樹脂、ポリスチレンで形成さ
   れた複葉戦闘機のグロスター・グラディエーターなど3機種がモデル化され、スケール(縮尺)は
   72分の1だったそうだ。

  72分の1に加え、一回り大きい48分の1はプラモデルの主流だ。 日本のプラモデル工業協同組
   合編集の「日本プラモデル50年史」(文芸春秋)によれば、これらスケールの源流はヤード・ポンド
   法。 72分の1は1㍎(約91㌢㍍)を2分の1㌅(1.27㌢㍍)、48分の1は1㌳(約30㌢㍍)
   を4分の1㌅(6.35㍉㍍)に圧縮する。 12進法と縁が深く、英米で広まった。

  一方、初の国産プラモデルは58年にマルサン商店が発売した潜水艦、ノーチラス号など4点という
   のが定説だ。 しかし4点中3点は米社初期製品の無断コピーで、縮尺も国際基準に合っていない。
     
  60年代初頭には田宮模型(現タミヤ)、長谷川製作所(同ハセガワ)、エルエスなど国内メーカーが
   市場に参入した。 ただしプラモデルの歴史について多数の著書がある“平野氏”は「初期製品はスケ
   ールの意識があってないようなもの。 キットを入れる箱の大きさに合わせる『箱スケール』が多
   かった」と評する。 平野氏は「戦後の一時期、ブリキ玩具が日本の花形輸出品だった影響か、プ
   ラモデルはおもちゃの一部と受け取られた。 欧米のようにまず実物があり、その正確な縮尺模型
   を作るという意識が希薄で、スケール統一に踏み込んだのはプラモ生産国中でもかなり遅かった」
   と続ける。 60年代初めの各社製品の多くは75分の1、50分の1などメートル法準拠で設計
   しやすい5の倍数の国内スケールで、国際的に無力だった。  
  ところがあるとき、後に世界標準となる縮尺が誕生した。 田宮模型が61年末に発売した戦車シリ
   ーズで採用した35分の1だ。 タミヤ広報担当によれば、第1作の「ドイツ パンサータンク」
   発売時は35分の1を明確に意識したわけでなく「車体に単2乾電池2本を収められるサイズがた
   またま35分の1になった」のだという。 今の目で見れば各部のモールドが甘くおもちゃ然とし
   ているが、お年玉商戦で同社起死回生の大ヒットになったんだそうだ。 「パッケージに35分の
   1が明記されていたのは63年の4作目『スコーピオン』から」。
  これに続き田宮模型は35分の1でモーターで動く戦車に加え、動かない装甲車や大小火砲、兵士の
   フィギアを「ミリタリーミニチュア」として大々的にシリーズ化。 70年代にかけて米欧に輸出
   攻勢をかけた。 特徴的なのはアイテム数だけでなく「質のステップアップが短期間で急激に進ん
   だこと」(平野氏)だった。
  海外の博物館での実車取材に基づいた正確な設計や、国内外の他のメーカーを寄せ付けない金型技術
   による精密再現に同社は力を込め、日米各社が32分の1や30分の1で出していた戦車模型を駆
   逐し、70年代初めには35分の1が国内外ともデファクトスタンダードとして確立した。 平野
   氏は「勝因はタミヤのモデルが工業製品として優秀だったことに尽きる」と話す。
  もう一つ、日本が生んだ国際的スケールに艦船模型の700分の1がある。 71年に静岡県内に本
   社を置く田宮模型、長谷川製作所、青島文化教材社、フジミ模型が共同で始めた艦船モデル「ウオ
   ーターラインシリーズ」が源流だ。 海外の戦闘艦も積極的にモデル化したところ、英のマッチボ
   ックスやアジアを中心とする多数の企業が追従した。

   こうして国際基準の一角をもぎ取った日本メーカーは今、ユーザーの高齢化に悩んでいるという。
    昔を思い出し、高まった品質を味わってみようなかな~・・なんて思ってしまいました。

  

水底に沈む遺跡、文化財に

2022年06月12日 13時13分37秒 | 雑学
  湖底の集落跡や古代の遺物といった水中遺跡の保護を図るため、文化庁は史跡など文化財としての
   指定や登録を推進する。 本年度内にも専門家委員会で候補を選定。 自治体に調査を促して早
   ければ2024年度の指定などにつなげる。 海底テーブル敷設や洋上風力発電といった海域開
   発で失われないよう適切に保護し、観光資源としても活用してもらう狙い。

  文化庁によると、全国の約400カ所で水中遺跡が確認されている。 大量の土器が見つかった
   海や湖の底、海面上昇により一部が水面下に沈んだ縄文集落跡などがある。 しかし調査に費
   用や手間がかかり、文化財保護法に基づく史跡指定は進んでいない。 水辺や浅瀬に残る港湾
   施設跡などを除き、水面下の遺跡としては鎌倉時代に襲来した元寇(げんこう)船が見つかった
   長崎県松浦市の鷹島海底遺跡の一部が「鷹島神崎遺跡」として指定された例しかない。
  史跡指定などは通常、自治体が調査で学術的な価値を明らかにし、国に申し出る。 文化庁は史
   跡指定や、より基準が緩やかな登録記念物を視野に、調査を進めるべき候補を示す。 候補は
   十数件と見込んでいる。 文化庁は今年3月、自治体向けに発掘技術や事務手続きを解説した
   手引を作成したそうです。 手引きでは国が財政面や技術面で積極的に支援するとしている。
   自治体は調査に際し、漁業者ら関係者との協議や同意を求められる場合もあり、国がこうした
   事務手続きも手助けする。

 文化庁が全国約400カ所で確認されたとする水中遺跡。
 水没した集落跡や沈没した軍艦、災害の痕跡など成り立
 ちはさまざまだという。学術調査は陸上の遺跡と比べて
 進んでおらず、謎に包まれたままの遺跡も少なくないと
 いわれている。水中遺跡の調査の歴史は諏訪湖の曽根遺
 跡(長野県諏訪市)で縄文時代の石の矢尻などが見つかった
 明治時代までさかのぼる。琵琶湖の葛籠尾崎(つづらおざき)湖底遺
 跡(滋賀県長浜市)の調査は大正時代に始まった。縄文土器から平安
 時代の品まで幅広い年代の遺跡が湖底にあり、その経緯は解明さ
 れていない。 沈没船調査は1970年代の開陽丸(北海道江差町)
 が先駆け。江戸幕府の軍艦で、砲弾など3万点以上の遺跡が見つ
 かり、船体は今も海底に眠っている。フランスの貨客船ニール号
 は明治時代に静岡県南伊豆町沖で座礁した。沈没地点はほぼ確定
 され船体の一部が残るが、それがニール号との確証には至ってい
 ないという。
  檜原湖湖底遺跡(福島県北塩原村)は、磐梯山の噴火で川がせき止めっれてできた湖の水没した明治
   時代の宿場町が元の姿だ。 水面が下がると神社の鳥居が姿を見せるといわれている。
  高知県土佐清水市の爪白海岸の海底には石柱が沈む。 津波で近隣集落から流されと考えられて
   いるそうだ。
  鹿児島県宇検村の倉木崎海底遺跡では船に関する遺物は見つかっていないが、水深数㍍に12~
   13世紀とされる中国産陶磁器のかけらが残っているという。 船の上から箱眼鏡でのぞく見
   学会が開かれたこともあるそうです。

  福島県の檜原湖湖底遺跡は地元の人からもよく聞いたことがあり、何回か行ったことはあります
   が、そんな場面にあったことはありません。 地元の人もなかなかそういった場面を見た人は
   少ないようです。

  水中遺跡=文化庁の手引きでは「海域や湖沼などにおいて、常時もしくは満潮時に水面下にある
   遺跡」とされる。 水没集落跡が代表例で、大量の鏡など祭祀関連の遺物が水底から見つかっ
   た神社の池もある。 漁業や造船に関する施設跡や港湾跡など、水と関係が深い陸上の遺構も
   「水中遺跡」とする場合もある。

「脱マスク」広がるか

2022年06月11日 13時28分28秒 | 話題
  政府が新型コロナウイルス対策を緩和する「脱マスク」の基準を示した。 脱マスクは広がるのか?
  日常化に向けて歓迎する声が聞かれる一方、子どもを中心に新規感染者数の水準は依然として高く
  慎重に対応する施設もある。 政府見解では着脱の線引きが難しく、戸惑いの声も上がっている。

  東京都足立区は区立図書館の利用者に対し、閲覧席では周囲に人がいなければマスクを外してもよ
   いと案内するようになった。 テーブルの席を間引くなどしており、利用者同士が一定の距離を
   保つことができる。 区立中央図書館の担当者は「感染対策を徹底しながら、少しでも日常に近
   づけていきたい」と話す。
 政府が5月20日に見解を示した屋内での「脱マスク」は
 図書館や美術館、博物館などが想定だ。
 新規感染者数は減少傾向にあるものの、東京都内の直近1
 週間平均は1日1800人を超えるなど警戒が続いており
 慎重に捉える施設も多い。 都内のある美術館は、マスク
 着用しなければ入館は認めないとの張り紙を外したものの
 担当者は「政府見解は理解できるが、外していいとは呼び
 かけられない。客同士のトラブルにつながる恐れがある」
 と打ち明けている。

  東京都は当面、都立施設で着用を推奨する。 「マスクを外してよいとする一定の条件を個々の施
   設で判断しなければならないのは困る。 政府として緩和するのであれば、はっきりと基準を示
   してほしい」(美術館の担当者)との声もある。  政府は未就学児については、発達状況を踏まえ
   「マスク着用を一律に求めない」との方針を示した。 政府は施設内で感染者が出た場合などを
   念頭に「管理者の判断で着用を求めることができる」とも説明し、施設側の対応は分かれている。

  「緩和の動きは歓迎したい」と話すのは、神戸市のある保育園長だ。 3歳以上の子どもには食事
   や外で遊ぶ時間を除き、原則として着用を求めていた。 「マスクをつけたままのコミュニケー
   ションで、きちんと気持ちが伝わっているか不安だった」と話す。 どのような場面で着用しな
   くてもいいか検討を進めるという。
  名古屋市内の保育所の女性職員は「マスク着用の有無が濃厚接触者の認定に大きく関わる」と懸念
   する。 感染が判明した人と接していても、マスクを着けていれば濃厚接触者と認定されないケ
   ースが多い。 濃厚接触者となった園児は一定期間登園できず、保護者の仕事に影響が出る。

  子どもの感染者は多い。 厚生労働省の集計によると、5月31日までの1週間の新規感染者のう
   ち、10歳未満は全体の19%(2万9147人)で、年代別で最も多かった。 女性職員は「屋内
   でマスクを外すのはもう少し先にしいたい」と話している。

  日本ではマスク着用が法律で義務付けられていない。 外すかどうかは最終的に個人の判断となる。
   「周囲が外していなければ着用すべきだ」とマナーとして求める風潮も根強い。 政府見解では
   会話をほとんど行わない屋外ではマスク着用の必要はないとしたが、今でも外出時にマスクをつ
   けている人が少なくない。 
  順天堂大学の“堀教授(感染制御学)”は「風潮を変えるには、多くの人が感染の仕組みを正しく理解
   することが重要だ。 感染リスクが低いと分かれば、外す判断もできるし、尊重できる。 幅広
   い世代に啓発しなければならない」と話している。
  そうするには、一にも二にも確実な情報が必要だと思う。 これまでも政府や自治体から出された
   情報‥皆さんはどう受け止めていらっしゃいました? 私メはどちらかと言えば受け止めていな
   い方。 従ってこれからも専門家の先生の意見を参考に自己判断で対処しようと思っています。