毎朝のウオーキング、コースの途中でランドセルを背負って元気に登校して行く子どもたちに出会う。
そのランドセルを見ると最近はカラーもデザインもいろいろあるんだな~と気づかされる。
一昔前までは女子は赤、男子は黒が定番だっただけに「ダイバーシティー(多様性)」という言葉が
浮かぶ。 調べてみると、戦後すぐにもランドセルが自由で華やかだった時代があった。
「途上必ス背嚢ヲ負フヘシ」‥‥。 日本の上流階級の学校だった学習院で1885年(明治18年)、
ランドセル通学がルールになった。 「背嚢(はいのう)」とは当時は主に軍用だったリュックのこ
とで、オランダ語で「ランセル」。 これがランドセルの発祥というのが定説になっている。
「学習院百年史」にも「学用品携行のために背嚢を採用したのは、日本では学習院が最初」とある。
1890年に黒革製が指定された。 導入の経緯は「記録が残っていない」(学習院)というが、
狙いは「学業における平等」だったようだ。
ランドセル工業会(東京・台東)の「ランドセル130年史」に学習院初等科の指定ランドセルのメー
カー、大峡製鞄(東京・足立)の役員が関係者への聞き取り調査をまとめていた。
もともと華族のために作られた学習院は裕福な生徒が多く、服装や持ち物を競い合って華美になる
傾向があった。 制服が導入されても馬車で通学したり、使用人に荷物を持たせたりする生徒が
おり、学用品は自分で持ってくるよう指示が出された。 両手が空く背嚢が最適だった。
日本全体で見れば、子どもにランドセルを買い与えることができたのは富裕層だけだった。 昭和
初めになってもランドセル通学の小学生は約」1割。 肩掛けカバンやふろしきの方が多かった。
我が家の子どもたちの頃でもランドセルはまだ赤と黒が主流だったような気がする。
上蓋に大きくクジャクや花をあしらったり、野球少年が跳んでいたリ、戦時中の抑制から解放され
た時代の空気が伝わってくる。 革に圧力をかけて凹凸をつけ、絵の具をにじませずに塗り分け
る技法で、専門職人が手作りしていた。 ランドセル工業会の“林会長”は「富裕層向けで装飾が
豪華だった」と説明している。
村瀬鞄行(名古屋市)所蔵の野球柄ランドセルに付いている当時の値札は1100円。 1945~
50年の製品だという。 高インフレ時代で単純比較はできないが、48年のランドセル平均価
格は700円だった。
のちに「団塊の世代」となる第1次ベビーブーム世代が小学校に上がるようになると、安価な大量
生産品が求められた。 しかし、まだ物不足で牛革が思うように手に入らない。 戦後すぐに新
工場を立ち上げたセイバンも豚革を組み合わせるなど試行錯誤が続いた。 当時は帆布製やブリ
キ製、さらには紙製のランドセルまであったという。(紙製のもの知っています)
約6割にとどまっていた普及率を90%超に押し上げたのが繊維メーカー、クラレの人工皮革「ク
ラリーノ」だった。 もともと靴用に開発された素材で、ランドセルは牛革製のほぼ半額だった。
「人工材は安物」「孫に買ってあげるのだから高いものがいい」といった消費者の本革思考を変
えたのは、ランドセルメーカーと共同での全国行脚だった。 各地のかばん専門店や文具店のほ
か、会議スペースなどにバイヤーを招き、表面のきめ細かい仕上げなどをアピールした。
少子化が進み、コロナ下の21年の出生数は過去最少の84万人にとどまった。 この10年ほど
は入学祝いに祖父母が高額ランドセルを贈る「ラン活」が過熱している。 ランドセル工業会に
よると売れ筋の価格帯は6万5000円以上。 縫い糸の色までも指定できるオーダーメードや
10万円を超える「工房系」も人気があるという。
一方、新しいタイプのランドセルも増えてきた。 以前だが、新宿マルイ(東京・新宿)の臨時売り
場には上蓋を取り外すとリュックになるランドセルがあった。 革製よりも軽量で通学にも課
外活動にも使える。 父親に連れられてきた男の子が「赤がいい!」とうれしそうに背負って
いたのが印象的。 赤いランドセルがほしかったが、これまで気に入るものがなかったのだと
いう。 現代は「みんな平等に、好きなものを選べばいい」という時代になった。
古い世代の私共からしてみれば、改めてそう教えられたような気がいたしました。
そのランドセルを見ると最近はカラーもデザインもいろいろあるんだな~と気づかされる。
一昔前までは女子は赤、男子は黒が定番だっただけに「ダイバーシティー(多様性)」という言葉が
浮かぶ。 調べてみると、戦後すぐにもランドセルが自由で華やかだった時代があった。
「途上必ス背嚢ヲ負フヘシ」‥‥。 日本の上流階級の学校だった学習院で1885年(明治18年)、
ランドセル通学がルールになった。 「背嚢(はいのう)」とは当時は主に軍用だったリュックのこ
とで、オランダ語で「ランセル」。 これがランドセルの発祥というのが定説になっている。
「学習院百年史」にも「学用品携行のために背嚢を採用したのは、日本では学習院が最初」とある。
1890年に黒革製が指定された。 導入の経緯は「記録が残っていない」(学習院)というが、
狙いは「学業における平等」だったようだ。
ランドセル工業会(東京・台東)の「ランドセル130年史」に学習院初等科の指定ランドセルのメー
カー、大峡製鞄(東京・足立)の役員が関係者への聞き取り調査をまとめていた。
もともと華族のために作られた学習院は裕福な生徒が多く、服装や持ち物を競い合って華美になる
傾向があった。 制服が導入されても馬車で通学したり、使用人に荷物を持たせたりする生徒が
おり、学用品は自分で持ってくるよう指示が出された。 両手が空く背嚢が最適だった。
日本全体で見れば、子どもにランドセルを買い与えることができたのは富裕層だけだった。 昭和
初めになってもランドセル通学の小学生は約」1割。 肩掛けカバンやふろしきの方が多かった。
我が家の子どもたちの頃でもランドセルはまだ赤と黒が主流だったような気がする。
上蓋に大きくクジャクや花をあしらったり、野球少年が跳んでいたリ、戦時中の抑制から解放され
た時代の空気が伝わってくる。 革に圧力をかけて凹凸をつけ、絵の具をにじませずに塗り分け
る技法で、専門職人が手作りしていた。 ランドセル工業会の“林会長”は「富裕層向けで装飾が
豪華だった」と説明している。
村瀬鞄行(名古屋市)所蔵の野球柄ランドセルに付いている当時の値札は1100円。 1945~
50年の製品だという。 高インフレ時代で単純比較はできないが、48年のランドセル平均価
格は700円だった。
のちに「団塊の世代」となる第1次ベビーブーム世代が小学校に上がるようになると、安価な大量
生産品が求められた。 しかし、まだ物不足で牛革が思うように手に入らない。 戦後すぐに新
工場を立ち上げたセイバンも豚革を組み合わせるなど試行錯誤が続いた。 当時は帆布製やブリ
キ製、さらには紙製のランドセルまであったという。(紙製のもの知っています)
約6割にとどまっていた普及率を90%超に押し上げたのが繊維メーカー、クラレの人工皮革「ク
ラリーノ」だった。 もともと靴用に開発された素材で、ランドセルは牛革製のほぼ半額だった。
「人工材は安物」「孫に買ってあげるのだから高いものがいい」といった消費者の本革思考を変
えたのは、ランドセルメーカーと共同での全国行脚だった。 各地のかばん専門店や文具店のほ
か、会議スペースなどにバイヤーを招き、表面のきめ細かい仕上げなどをアピールした。
少子化が進み、コロナ下の21年の出生数は過去最少の84万人にとどまった。 この10年ほど
は入学祝いに祖父母が高額ランドセルを贈る「ラン活」が過熱している。 ランドセル工業会に
よると売れ筋の価格帯は6万5000円以上。 縫い糸の色までも指定できるオーダーメードや
10万円を超える「工房系」も人気があるという。
一方、新しいタイプのランドセルも増えてきた。 以前だが、新宿マルイ(東京・新宿)の臨時売り
場には上蓋を取り外すとリュックになるランドセルがあった。 革製よりも軽量で通学にも課
外活動にも使える。 父親に連れられてきた男の子が「赤がいい!」とうれしそうに背負って
いたのが印象的。 赤いランドセルがほしかったが、これまで気に入るものがなかったのだと
いう。 現代は「みんな平等に、好きなものを選べばいい」という時代になった。
古い世代の私共からしてみれば、改めてそう教えられたような気がいたしました。