mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

両親の思いで

2009年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は何を皆さんに報告しようかと迷っていましたら、相続のことを書いた説明書が目にはいりました。

 何故、相続かと言えば自分がそうなる年齢に近づいてきたからでしょうね。

 その説明書には、ほかに退職後の人生設計に欠かすことのできない年金の仕組みなどのことが書いてあるのですが、いわば老後の指南書みたいなものだと思います。

 さて、本題のその相続ですが、この言葉から何をレポートしようかと考えていましたら両親の生き様が脳裏を横切ってきました。

 特に、父とは、あまり言葉も交わしたことがなかったものですから「これ」といった想い出がないのです。

 なぜ、そうなったかと言えば、鉄道会社に勤めていた関係で日直や夜間勤務など変則勤務があり家にいる時間が子ども達と合わなかったことも原因だと思いますが、それ以上に「無口」で「おとなしく」「照れ屋」という性格が災いして、自分の気持ちをうまく伝えられなかったのではないかと思います。

 自分の子どもですから可愛いに決まっているはずです。もう少しスキンシップと言葉が欲しかった、というのが父に対する小生の気持です。

 そんな父が亡くなったのは、小生が23歳の時ですから、もう37年が経過することになります。

 父が亡くなった年齢が59歳ですから、その年齢を超えたのですが、何故、父が早死にしたかと言えば、今で言うところのメタボで内蔵に病変を抱えていたからだと思います。

 小生の父に対するイメージは「つり」「酒」「タバコ」「三味線」そして「女」ですが、その意味では、十分、人生を楽しんだ人なのだと思います。

 でも、それが災いしてか17年に及ぶ長い闘病生活があったのですから本人も辛かったでしょうが、母にとっては、大変な苦労が待っていたということになると思います。

 母は、父が浮気をして離婚騒ぎになったときの話をしてくれましたが、本当に献身的に介護をしたと思います。

 高血圧、脳溢血、直腸ガンなどを患っていましたが、近隣の病院だけではなく、東大病院などにもよく父を連れていってました。

 ところで、父が浮気をしたときに「子ども(5人)のうち、男の子は父が引き取ることになった」というような話を母からよく聞きましたが、もしそうなっていたら、父の看病は誰がしていたのでしょうか?そして、小生と弟の生活はどうなっていたのでしょうか?

 幸いにして父が自分の両親などに叱られて離婚しなかったそうですが、こういう話しを聞きますと一見、平凡そうに見える両親の人生にも大きな「山あり、谷あり」があったということになります。

 でも、父は、自分に幸せをもたらしてくれた母に強く強く感謝していたのではないでしょうか!

 その母も、亡くなってから早いもので7年が経とうとしています。

 小生の母は、明るく、強い人でしたが、若い頃から随分、苦労したそうです。

 そうした母の「歴史」を思い出しますと、何があってもへこたれないという「したたかさ」と「強さ」を感じるのですが、そうしなければ生きていけない厳しい時代だったのでしょう。

 そういう意味では、昔の母親はみんな「そうだった」とも言えると思いますが、最近は、権利ばかりを主張して義務を果たそうとしないする母親がいるという話を聞きますが、人としての「強さ」や「したたかさ」とルールを守らない「自分勝手」を同じに考えることはできないと思うのです。

 今日は、相続の話がトンでもない方向へ流れてしまいました。

 「相続」については、次回、お伝えいたします。

 


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