mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

世の中何でもあるけれど

2010年03月25日 | 人生

 今の世の中何でもあるけれど・・・・

 その続きの言葉は何が相応しいでしょうか?

 いったい、何の話だと思われるでしょうね?

 昨日は映画館でシャーロック・ホームズを見て、家に帰ってからは、その余韻に浸っていました。

 そして、テレビでも見ようかと新聞のテレビ欄を見ていましたら、試写室という欄にテレビ東京の「シューシャイボーイ」という番組の紹介をしていました。

 懐かしい昭和の時代の心のふれ合いのような番組で、「お涙頂戴か?見るのはやめよう」と他のチャンネルをしばらく見ていたのですが、つまらない番組ばかりでしたので、はじまってから30分くらい過ぎてから、この「シューシャイボーイ」を見始めました。

 番組の内容としては、柳葉敏郎が演じる元銀行員の塚田文雄と西田敏行が演じる食品会社社長、鈴木一郎との会話を通じて人間の大切なものとは何かを考えるという構成になっていると思いました。(制作者は違う意図を持っている?)

 塚田文雄は、部下や同僚のリストラ役をやらされ、嫌気がさして銀行をやめて、鈴木社長専属の運転手になります。

 一方、鈴木一郎は、東京大空襲で両親を失い、自分は大きなマンホールの中で遊んでいているところを大滝秀治が演じる鈴木菊治に助けられ、その後は鈴木と近所の人々の助けをもらいながら大きくなります。

 一郎は、鈴木菊治と靴磨きをはじめようとするのですが、なぜか菊治は、一郎に「上から見るような大きな人間になれ」といって靴磨きの仕事をさせません。そのため、一郎は食品会社を立ち上げ社長になるのですが、一郎が社長になっても菊治は相変わらず、新宿のガード下で靴磨きを続けています。

 週に一度、一郎は新宿のガード下で靴磨きをしてもらいながら一郎のもとに来るよう説得するのですが、菊地は、決して一郎の誘いを受けようとしません。

 その理由は、自分が生きていることへの申し訳なさ、とでもいうべきもののようです。誰に申し訳ないかといえば、戦争で亡くなった人々ということになると思いますが、自分の心にある「申し訳ないというこだわり」は、現代では消えてなくなってしまっていますし、小生にはできないことだと思いました。こういう気持ちを持っているjことを鶴田浩二さんの番組でも見た記憶があります。

 ところで、今日のタイトル「世の中何でもあるけれども」は、この番組の中で語られた会話の一部ですが、この後の会話を小生は「何にもない」と想像しながら見ていたのです。

 でも、実際はそういう会話ではなかったのです。それでは、どういうものだったか?と言いますと、残念ながら忘れてしまいました。

 小生の心としては、「何でもある」のは物質的な話で、「何にもない」は、「暖かい人間的なもの」と言いたかったのです。

 またまた、話が飛びますが、塩田文雄は、合併された地方銀行の人事課長だったのです。

 そして、彼が転職したのを祝って?昔の仲間と一杯やるのですが、そこでの会話を聞いていてサラーリーマンの悲哀を実感してしまいました。

 「今度はあんたが支店長になる」とか「本部の部長」だというような話ですが、人事の季節は、色んな思いを抱かせるものです。

 でも、死ぬまでトップをやりたいという方を知っていますが、自分にとって肩書きや出世が人生のすべてなのでしょうか?政治家を含めて「何になりたい」かではなく、「何がしたいのか」が問題の本質のはずです。

 まぁ、出世できない人間は「そのように思って」自分を納得させるしかないかもしれせんね。日本ほど肩書きが幅を利かせる国はないのかもしれません。

 「世の中何でもあるけれども」よりも「世の中色々あるけれども、心豊かに生きたい」ものだと感じた番組でした。

 


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