(2018.01.20訪問)
山のお寺威徳院から県道155号線を戻ります。右手に川原寺の広場がある県道を挟んだ丁度前、橘寺の標識が建ち、左への小径を
200mほど行くと橘寺西門に着きます。お天気上々、またもや貸し切りか、人の気配なし、ジックリユックリ拝観出来そう。
1400年の寺歴もその間、兵火、災害など艱難辛苦の歴史へて江戸期にはその勇壮な寺景は悉く無に帰し、聖徳太子夢の跡となった
そう。確かに境内を巡っていて往時の面影は残念ながら感じる事はありませんでした。
▼西門。
[ 橘寺 ]
●山号 仏頭山(ぶっとうさん)
●院号 上宮皇院 (じょうくうおういん)
●寺号 橘寺 (たちばなでら)
●勅願 伝 推古天皇 (すいこてんのう) 聖徳太子叔母
●開基 伝 聖徳太子 (しょうとくたいし)
●開創 伝 推古天皇十四年 (606年)
●宗派 天台宗
●本尊 聖徳太子像 (重文)
▲拝観料 300円 朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:30
▲奈良県高市郡明日香村橘532 Tel.0744-54-2026
▲近鉄橿原線「橿原神宮前」駅より奈良交通バス「岡橋本」下車 徒歩約3分
▼手水舎。
橘寺縁起 (橘寺パンフより抄出)
聖徳太子は推古天皇十四年天皇の勅で勝鬘経講讃した。その時大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光明
を放ち、太子の冠から日月星の光が輝き、不思議な出来事が起こったので、天皇はこの地にお寺を建てるよう太子に勅した。そこで
造ったのが橘樹寺(たちばなのきてら)で、聖徳太子建立七ヶ大寺の一つに数えられた。当初は東西870m、南北650mの寺地に、金堂、
講堂、五重塔を始め六十六の堂宇が立ち並んでいた。日本書記には天武天皇十年 (681年) 尼房失火のため十房焼いた記録があり、当
時は尼寺であったと思われる。
▼本堂。本尊聖徳太子立像。
豪華な向拝は妻を千鳥破風、前に唐破風を置き杮葺、お堂本体が本瓦葺の合体堂姿、ユニークな感じがします。
桁行三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。後堂が付属してます。元治元年 (1864年) 再建。
▼本堂前面。
▼境内から甘樫丘、川原寺趾遠望。
▼太子愛馬黒駒。斑鳩との往還に疾走する太子の勇姿が目に浮かびます。
▼護摩堂。桁行三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。
▼三塔並ぶ中央の石塔、大乗妙典と刻されているようです。
▼観音堂。桁裄三間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付。
このお堂は安永六年(1777年)に本堂として建立されたが元治元年(1864年)現本堂建立に伴い現在地に移
築されたそうです。
▼如意輪と書かれた扁額。
▼観音堂本尊如意輪観音坐像(重文)。右真手に持つ如意宝珠が光ってますネ。
▼経堂 (阿弥陀堂)。方3間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付。
▼経堂内陣。須弥壇中央に本尊阿弥陀さんがお坐りです。
▼経堂本尊、阿弥陀如来坐像。阿弥陀さんの見本のような堂々たる像形、二重円光背の後ろに舟形唐草光背が最高格を表現している
ようです。
▼二面石。左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているそうですヨ。
▼石灯籠。火袋に球体の石が置かれています。何か意味があるんでしょうネ。
▼放生池。
▼五重塔跡の心礎。直径90cm、三方に添え柱孔、塔高推定38mになるそうです。
▼鐘楼。
▼阿字池。聖徳太子作池と伝承。梵字がモチーフだそうです。
▼宝蔵か経蔵か判りませんが蔵です。さすが橘寺、蔵まで時代係ってますネ。
▼恐らく用を成さないでしょうこの錠前。
▼往生院。写経研修道場として平成九年 (1997年) 再建。
▼往生院扁額。
▼広い室内、左右イッパイに須弥壇が設えられています。中央に本尊阿弥陀三尊が祀られています。
▼浄土を表す華天井。260点奉納されてるそうです。
▼東門から本堂へ、一直線の参道。
▼東門、橘寺の正門。なぜか狛犬がいます。
▼東門越しの境内。
▼ご朱印です。
本堂の太子孝養像と愛馬黒駒の像のみが僅かに聖徳太子を偲ぶよすがでしょうか。寺伝に述べられているようなお寺創建時の姿はと
ても感じる事は出来ませんが、超人聖徳太子は確かに歴史上にその名を残しています。そんな超人がこの地に残した仏教文化の一つ
のカタチがこの明日香の地に今なお息づいている。嬉しい事じゃありませんか。法隆寺や四天王寺だけが聖徳太子ではありませんも
んネ。
橘寺 オ シ マ イ
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