土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

宝筐院、いいお話が残ってます。

2014年09月13日 | 京都の古寺巡り



(2014.09.06訪問)


宝筐院は初めて訪ねます。門前に、小楠公菩提寺寳筐院と刻された石標が建っています。何故足利将軍家縁
の嵯峨野に敵対した南朝方楠木正行の墓所があるのか、不思議に思いつつ山門を潜りました。


▼山門。





[ 宝筐院 ]
●山号 善入山(ぜんにゅうさん)
●寺号 宝筐院 (ほうきょういん)
●開基 白河天皇 (しらかわてんのう)
●開創 平安時代 (1072?1085年頃)
●中興 黙庵周諭禅師 (もくあんぜんじ)
●宗派 臨済宗単立
●本尊 十一面千手観世音菩薩立像
▲拝観料 400円 朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:00
▲京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1 Tel.075-861-0610
▲http://www.houkyouin.jp/
▲嵐電「嵐山駅」下車 徒歩約20分
 市バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約3分
▲三脚、一脚持参者は拝観不可 



▼寺標には小楠公菩提寺寳筐院とあります。





宝筐院縁起 (宝筐院パンフより抄出)
平安時代白河天皇により創建善入寺と称した。南北朝時代、夢窓疎石の高弟黙庵周諭禅師が入寺、衰退して
いた寺を復興、中興開山となる。室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)が帰依し、その保護を得て寺は復興。
以後、臨済宗に改められている。貞治六年 (1367年) 足利義詮の没後、その菩提寺となり八代将軍足利義政
の時、義詮の院号「宝筐院」に因んで寺名を宝筐院に改められた。応仁の乱(1467~1477年)により衰微。
室町幕府の衰亡後に衰退。江戸時代、天龍寺末寺の小院となり、伽藍も客殿と庫裏を残すのみとなり幕末に
廃寺となる。大正六年 (1917年) 楠木正行縁の寺として、現在の堂宇が再興された。



▼山門脇の駒札を拡大しました。





▼庫裏玄関。お庭に咲く草花の小鉢をたくさん並べて販売されています。





▼本堂。





▼本堂外縁。





▼本尊 十一面千手観世音菩薩立像。





仏殿両脇に、楠木正行由縁の絵が二つかけてあります。
▼黙庵禅師と楠木正行。





▼楠木正行四条畷合戦の図。



四条畷へ赴く楠木正行が吉野如意輪寺で詠んだ辞世の歌 (なんと二十三歳の歌ですよ)
    かへらじと かねて思へば  梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる



▼では、お庭を巡ってみましょう。





▼回遊式庭園。石組みから滝なんでしょうね。





▼緑一色の中で凄く主張しているオレンジの色。





▼汀の小石など心憎い枯山水の演出です。





▼優雅に飛び、優雅に羽根を休ませています。





▼楠木正行、足利義詮の墓所へ一直線の参道。





▼墓所。墓前灯籠の刻書、右「精忠」左「碎徳」いずれも富岡鉄斎の揮毫。



「精忠」最も優れた忠。嗚呼忠臣楠子之墓(これは大楠公の墓碑名)。
「碎徳」一片の徳。足利義詮の徳の大きさを褒めた言葉。
石扉、右楠木家家紋「菊水」左足利家家紋「足利二つ引」



▼右五輪塔、楠木正行 (まさつら) 首塚。左三層石塔、足利義詮 (よしあきら) の墓。



楠木正行(小楠公)首塚由来( (宝筐院パンフより抄出))
南朝武将楠木正行は四条畷の合戦で北朝と戦い討ち死、黙庵はその首級を生前の厚誼で善入寺に葬った。
この話を黙庵から聞いた義詮は正行を讃え自分もその傍らに葬るよう命じたと云う。



▼御朱印。お寺に残るお話に感激したつかの間、この御朱印ハンコでした。




南朝と北朝、敵対する二人の隠れた美談がこの嵯峨野の地に残っているとは思いがけずの事でした。天下の
逆臣足利尊氏、大忠臣楠木正成を父に持つ足利義詮と楠木正行の二人、勝者と敗者の垣根を越えたお話の真
偽、残るお墓石の真偽はともかく、日本歴史の一時代を画した南北朝から室町時代へと時の流れの一瞬のエ
ポックがこの地に残っているんです。ある意味に置いて、非常な感激でした。

     「桜井のわかれ」を口ずさみながら楠公親子を偲びつつ帰ります。ご一緒にどうぞ!
          
         ♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 
              木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと 
                    忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か♪




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