徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

醜悪な歴史に句点を打て/「在日特権」の虚構

2013-12-13 06:56:29 | Books


野間易通『「在日特権」の虚構 ネット空間が生み出したヘイト・スピーチ』(河出書房新社)
著者は終章で「問題」の基点として繰り返し挙げられる<1952年>に在日が置かれた状況を<0:100>と書く。
1945年まで「大日本帝国の皇民」であった「日本人」が、1952年のサンフランシスコ平和条約発効により在日(平和条約国籍離脱者とその子孫)となり、100もしくは80あった彼らの権利は1952年の段階で0になった。
日本人の権利は1952年の段階で100に戻ったのかもしれないが、元「日本人」の権利はほとんど0、ナッシングである。
在日特権を許さない市民の会をはじめとする行動保守、ネトウヨが盛んに訴える「在日特権」とは、特権でも何でもなくもともと「あった」法的地位を取り戻す歴史でもあるわけだ。0が10になり、30になり、50になっていく歴史であり、決して110や130、150になっていく「特権」の歴史ではないわけだ。
それはこの国で共に住む人間として当然の権利の回復でしかない。

それ故に在特会が掲げる「在日特権」論法のイカサマをひとつひとつ潰していく本書の大部分は、行動保守の悪行を告発するというスキャンダラスな内容ではなく、サンフランシスコ平和条約発効(1952年)、日韓地位協定(1965年)、国際人権条約(1979年)や難民条約(1982年)による国民年金法の国籍条項撤廃、そして入管特例法(1991年)といった歴史的経緯を綿密に描くことに費やされている。また60年代から70年代にかけて実施された市民レベルのコミュニティによる素朴なアファーマティヴ・アクション(積極的差別是正措置)が、ひとつのニュースによって亡霊のように蘇り、在特会によって捻じ曲げられ、デマゴギーの現場となってしまった三重県伊賀市に訪れ、在特会の論法に対して反証していく。
在特会代表の高田誠は今月著書を発売する。それがこれまでの主張のコピペ、改変程度の内容ならば、本書の内容と主張は皮肉なものとなるだろう。「在日特権」そのものがないのならば、もはや在特会はその看板を下げるしかない
ほとんど影響のない「一部」にフォーカスを当て、都合良く拡大解釈する安易な論法はもはや通用しないだろう。

現代のレイシズムは安易なコピペと劣悪な改変を繰り返すネット空間のテンプレートが根拠になっている。そしてネットに限ってしまえばその拡散力と浸透力は想像を絶する。それは「在日特権」と検索してみればわかる。スキャンダラスであればあるほど、罵倒が醜ければ醜いほど注目を集め、それは改変を繰り返しながら“尾ひれ”をつけ、あたかも真実のように語られていく。
著者が執筆の動機に「ネットでの検索」を挙げるのも当然である。
しかし一方でネットは「ブロック」が容易だ。見たくなければ見なければいいし、知りたくなければ知らなくてもいい。
本書で挙げられる<1952年>そして<0:100>という「基点」を理解していなければ、在日の権利が何となく、ぼんやりと「特権」に見えてしまう人もいるだろう。しかしその間にレイシストという怪物は急速に育っていく。
ネトウヨが大した理由もなく、熱狂的に支持するファシスト政権が本性を剥き出しにしようとしている。夢や希望や願望を託すように数百年前の歴史を嬉々として読み語るのではなく、オレたちは今、自分たちが生きている地続きの現代史に真正面から向き合う必要があるだろう。

「書く」という行為は、物事を事実として定着させ(ひとまず)句点を打つことでもある。
本書が2013年に起こった醜悪な「歴史」に句点を打つものであればいいと思う。あんな連中、いつまでも相手にしてる場合じゃないぜ。

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