徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

ドローはそんなに悪いことなのか/ワールドカップ2014予選オーストラリア戦

2013-06-05 06:17:39 | Sports/Football
ザックの「引き分け狙い」を采配ミスとして批判的な言葉が報道やネット上に流れているわけですが、そもそも残り10分の時点で栗原を投入することの何が悪いってんだろうか。
もういい加減にそんなナイーブは捨て去るべきじゃないのか。
この日、最も優先させるべきことは「ホームでのワールドカップ出場決定」であって、この日を含めて残り2ゲームの予選リーグで圧倒的有利な立場にある代表が「何が何でも勝つ」ことではない。
「何が何でも勝つ」のは「何が何でも勝たなければならない場合」に限る。
勿論、ホーム(でワールドカップ出場決定を)で、宿敵のオーストラリア代表に、という「勝ちたい」条件は揃っていた。しかし勝ちたいからといって「何が何でも」勝てるわけではない。相手だって「何が何でも勝ちたい」からである。
いや、正確には「死に物狂いで、何が何でも勝ちたい」オーストラリア代表が相手だからである。

「何が何でも勝たなければならない状況ではない」というのは実にテンションやモチベーションの保ち方が難しいと思うのだが、この日までにテレ朝が煽り続けた「歴史的一戦」というコピーが成就し、このゲームがスポーツエンタテインメントとしても文字通り歴史的一戦になった要因は、まず予選突破に微妙な順位にいるオーストラリア代表こそ、このゲームを何が何でも勝たなければならなかった(負けられなかった)ことに尽きる。
キックオフ直後の彼らのテンションの高さがそれを証明していたし、代表がゲームを落ち着かせた15分、20分過ぎからは危険なカウンターとさらに危険なセットプレーに徹していた。
この手の大一番はしょっぱいゲームになりがちだけれども、ほとんどの時間帯で緊張感のある戦いが続いたのはオーストラリア代表のおかげだ。
そんなゲームで、全力でファイトしたドローを批判的に語るなんて、本当にゲームを観ていたのかと思ってしまう。
つまりドローであることに意味のある、見応え(内容)のあるドローが、ホームで、ゴールデンタイムで放送されたことこそに意義があるのだ。イタリア人のザックが本当にドローを「狙った」のであったのならば、もっと退屈なゲームになっていたかもしれない。しかし栗原が投入されようともこのゲームはまったく退屈なドローにはならなかったと確信している。
この日のゴール裏と、この日のオーストラリア代表はそんなことを許さなかったのだ。
テレ朝は安太郎に采配批判をさせるよりも、彼らに感謝すべきだろう。

直前のテストマッチに敗戦しつつも、ドローでも出場が決定する代表に高い緊張感を与えたオーストラリア代表と埼スタのゴール裏に感謝。同じアジアグループの代表としてオーストラリア代表が予選を勝ち抜いてくることを祈っている。

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