木燃人の波止場

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942 東海道 桑名宿 ① 七里の渡し 花街

2013-05-29 08:00:00 | 名所旧跡

今更言うまでもないことであるが、「東海道五十三次」とは、東京日本橋を起点に、京都までの間の宿場53を指すが、その42番目で当三重県としては最初となるのが、桑名宿なのである。

私としては、極めて珍しい事であるが、この東海道に沿って、先ずは桑名市内の旧跡などを尋ね歩いたので、紹介したいと思う。なお、この企画並びに実行の全ては、私の高校時代からの親友がやってくれたものであり、彼に感謝の気持ちを込めて書いて行きたいと思っている。

「歌川広重」描く「東海道五十三次 桑名」  (ネット上で借用)

 

それでは、”後期野次喜多道中記”の始まり始まり・・・・・・

1.七里の渡し

江戸時代に東海道を旅する人達は、41番目のになる、名古屋の宿場(宮宿) 熱田神宮の「門前町」から川渡し船に乗り、7里と言うから、約28Kmを4時間程をかけて、42番目の宿場町桑名に到着するのであるが、当時は海難事故が多く、難所のひとつであったそうである。

下の写真、右方向が揖斐川の下流、伊勢湾方向である。

写真右端の城のようなものは「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」(海上の名城と言われる)であり、上の広重の絵に描かれていると同じ物が再現されている。

揖斐川を遡り、「住吉浦」と呼ばれる、入江に船は入るのであろう。今は下の様な立派なゲートが設置されていて昔の面影は見られない。

 

「住吉神社」

無事に陸に上がった旅人は、神に感謝の気持ちを捧げたであろうと推測する。

これから船に乗ろうとする人も、旅の安全を祈ったと思うが、今よりも遥かに旅の危険の高かった時代は祈らずには居られなかったものと思われる。

「山口誓子句碑」

 

「大塚本陣跡」

ここは「花街」の一角、かつては高級旅館がならび、東海道で一、二を争う旅籠の数を誇ったそうである。日本橋から来た旅人は疲労も厳しくなっており、道中有数の”歓楽街”の桑名で多くの人が、一夜の発散をしたとも考えられる。  しかし、今はこの辺りは料亭さえも成り立たず、結婚式場やレストランなど多角経営化しているそうである。

 

「船津屋」であるが、今日はここで結婚式をやるらしく、案内の係員が玄関先にいた。

船津屋の右隣が「脇本陣」であったが、今は料理旅館「山月」としてやっている。

 

「歌行燈句碑」

ここ、船津屋に泊まった文豪「泉鏡花」が、小説「歌行燈」を書き、それを映画にした「久保田万太郎」がここ船津屋に泊まり戯曲「歌行燈」を書いた。”かわうそ”が川から来て悪戯をするという話が小説に登場するのだそうだ。作中では船津屋を湊屋としていた。

”かはをそに  火をぬすまれて  あけやすき   万" の文字が微かに残る。

この「歌行燈」は本来ここ独自のもので、観光協会や地元の人達は、色々なPRの場面などで活用したいし、その効果は大きいと思われるが、今ではあるウドン屋チエーン店の名前に使われてしまったので、観光資料にも殆ど現れないのは、大変に残念なことだ。 「泉鏡花」もどこかで泣いてるかも?。

 

花街を出て、九華公園公園の入り口をがっちり守るのは・・・

「本多忠勝」の銅像である。

このお方は、初代桑名藩主で徳川四天王として活躍し、生涯57回の出陣で一度も傷を負わなかった名将と言われている。

その「かぶと」・・・獅子の頭と鹿の角

数珠・・・倒した敵を供養するために肩から大きな数珠を掛けていた。

長い槍・・・名槍「蜻蛉(とんぼ)切り」:穂先に止まったトンボが真っ二つに分かれたと言う。

 

 

東海道を旅する人達は、次の四日市宿に向ったと思われるが、”後期野次喜多”は、ちょっと寄り道として、「諸戸氏庭園」に向った、その話は次回に紹介したい。   (撮影 2013.05.26(日))

                                            << 続く >>

 

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