木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

990 花写真鑑 新規登録紹介 No821~830

2013-08-30 08:00:00 | 花一般

花の写真を集めていますが、先日その種類が800を越えましたので、その記念の意味で、10点ずつ紹介しています。 過去は「花写真鑑」に載せる花は100%ブログで紹介済みでしたが、花の記事が続くときなどは、掲載を制限してきましたので、ブログに登場してない花もあるからでもあります。 

私が花の名前を調べるために、たまに買う「花図鑑」は、およそ400種から600種の物が多いように思います。 講談社が出してる「四季の花色・大図鑑」257×210mm、全240頁¥2900はもう少し多いように思いますが、800を越えて来ると色んな事があります。

「花写真鑑」に載せるには、名前が無ければ”宝の持ち腐れ”になります。 しかし、最近見つけた「みんなの花図鑑」と言うサイトに投稿することで、過去に撮ってお倉入りしていた花が、急に表舞台に登場したものも多く含まれています。 ただこのサイトでは、専門家は居ないようで、野草や余り市場に出ない花が苦手である事が解りました。

また、新しい花を求めて、園芸店に再々行きますが、 図鑑に載せてない花を見附けることは、極めて難しくなってます。 そのくせ、あまりにもありきたりの花や、今は喜ばれない昔の花などが結構ある一面があります。 更には、最近は”なり振り構わず”なので、野菜など畑の花も重要な一員となってきました。

では、今回は登録番号821番から御紹介をします・・・・・ 

821  「ヒメケマンソウ(姫華鬘草)」  別名:アメリカコマクサ   登録日:2013.07.01

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/himekemansou.html

8月中旬の今頃、乗鞍岳の頂上付近で美しく咲き乱れているであろう「コマクサ」や、別名「タイツリソウ」と言う「ケマンソウ」とも、花の形も葉も咲き方も全く異なるが、その仲間と言う。 しかし、色合いが大変よく似ており、雰囲気は同じと思います。 ネーミング方法は極めて”アンチョコ式”ですが、許せる範囲と私は理解します。  山野草がお好きな正眼寺という近くのお寺に咲いてました。

 

822  「ノコギリソウ(鋸草)」  別名:ハゴロモソウ、ゴコウソウ

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/nokogirisou.html

私が子供の頃から、畑などでよく見た花ですが、外国から珍しい花が入って来たり、交配を繰り返したり、遺伝子組み換えなどで、次々と新しい花が作られているので、この種の花は隅に追いやられてしまったのか、最近は殆ど見る機会がありませんでしたが、町内の畑で一人生えのように咲いてるのを見つけました。 こんなにありふれた花なのに、懐かしさがあるのは私だけかも知れない。

 

823  「フェイジョア」  別名:アナナスガヤバ

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hueijyoa.html

ご近所の庭に珍しい花が咲いているのを見附けたので、早速道路から撮らせて戴きました。 どんな実が成るのか興味深々。

 

 

824  「アルストロメリアプルクラ」  別名:インカノユリ

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/arusutoromeriapurukera.html

さらに、別名を「ユリズイセン」と言う所もあるようですが、当花写真鑑では「アルストロメリア」を「ユリズイセン」としてるので、別名として採用しませんでした。 なお、どちらも本来同種で、単なる園芸品種の可能性も捨てきれません。

 

 

825  「ヒマワリ(向日葵)」  別名:ニチリンソウ(日輪草)

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/himawari.html

この花も昔からありますし、種子の効能が広まったりして、休耕田などで広く栽培されていて、かなり一般的な花になってますが、何故か当ブログに登場する事は無かったし、今頃になって、やっと「花写真鑑」に仲間入りしました。 以外に身近に花はいくらもあるのだと、改めて教えられました。 ご近所の庭にて写させていただきました。

小さいですが、似ている花に「ヒメヒマワリ」がありますが、ここでは別にしております。

 

826  「アガパンサス」  別名:ムラサキクンシラン(紫君子蘭)

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/agapansasu.html

「ヒメアガパンサス」は「花写真鑑」への登録番号はNo312ですから、結構早いのに、この「アガパンサス」は、826番目の登録となりました。 別に珍しい花ではなく、見慣れた花でもこんな事が、しばしば起こります。

 

827  「インゲンマメ(隠元豆)」  別名:サイトウ、サンドマメ

   「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ingenmame.html

農業をやられてる方々には、ついにここまで来たか!・・・と、嘆きの声が聞こえそう。

 

 

828  「ケイビラン」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/keibiran.html

ご近所の石垣の間に可愛い花を咲かせていました。 ”サラサ・・・”が付いてないのが不思議なくらい・・・?。

 

829  「ゴーヤ」  別名:ニガウリ、ツルレイシ

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/go-ya.html

 

830  「トウガラシ(唐辛子)」  別名:ピーマン    登録日:2013.07.03

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/tougarasi.html

実である「トウガラシ」は子供でも解るが、さて花は?となると、記憶にありませんでした。こんな花だったかと今更ながら思っています。

「花写真鑑」も集めた花が800を越えて来ますと、 安易に構えていては新しい花に出会えません。 どんな時でも、何処を歩いても、必ずいつも新しい花を探していますが、今までに撮り忘れている花に合わないかぎり、中々見つかりません。 見て戴く方々には、大変に申し訳ないとは思いますが、私には野菜の花も大切な花の一員なのです。これからもしばしば出てきますが、御承知戴きたくお願い申し上げます。

 

 

 


986 東海道 亀山宿 (4) 南野町 北野町

2013-08-28 08:00:00 | 名所旧跡

”後期野次喜多衆”は亀山宿の中心部を抜けて、鈴鹿峠に向けて進めています。

今は真夏、この翌日からは35℃前後となり、”後期御一行”には厳しすぎるので、唯一最高気温が31℃と比較的低い日、カンカン照りでない日を選んだのが本日(2013.08.05(月))でありました。 

本当は歩くことで、細やかな”取材”が出来る事は承知しながらも、まだ、熱中症になりたくない野次喜多は車を使わざるを得ず、その上で、歩く距離を最小限にする事と乗り降りを最小にすると言う相反する要求を満たすべく、午前8時30分菰野町を出発したのです。

下の地図、赤い線は旧東海道で右が四日市、江戸方面であり、左は鈴鹿峠、京都方面となります。丸付き数字は尋ねた旧跡の凡その場所を示し、その番号順に尋ねています。 なお、  は今回の区間距離等測定点を示します。

 

① 連子格子の家  

飲食店やコンビニさえも並行して走る国道一号線にはあるが、ここ旧東海道には殆ど店は見当たらない。 空腹を覚えた今、渡りに船と期待したが、古民家風休憩所はまだ開店していなかった。 

 

② 「永信寺」

 

③ 「光心寺」

門は閉じられており、入る事は許されなかった。

 

④ 「光明寺」   浄土真宗本願寺派

 

⑤ 「羽柴秀吉本陣跡」、「常夜燈」

 

⑥ 「豊川 杔枳尼天(とよかわだきにてん)」

両サイドの道路拡張の犠牲になり、狭い土地に押し潰されたようにみえます。

 

 

⑦ 「慈恩寺」    浄土宗

 慈恩寺の創建は神亀5年(728)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたのが始まりと伝えられています。古くから神仏習合で忍山神社の別当寺院を司り、最盛期には広大の境内に七堂伽藍が建ち並び支院7ヶ寺を擁していました。本尊の木造阿弥陀如来像は平安時代前期に制作されたもので像高161.9cm、檜材、一木造、昭和12年に国指定重要文化財に指定されています。

 

 

⑧ 「古い家屋」、「石碑(「天照皇大神御鎮座 忍山神社山道」と書かれている)」

 

 

⑨ 「忍山神社(おしやまじんじゃ)」   

野村町の東北隅に愛宕山と呼ばれる海抜90mの丘陵があり、この南麓地点が旧社地と推定されている。
この旧地に神宮寺として神福寺と共にあったが、文明4年(1472)に、兵火のたことごとく灰燼となった。いま野村にある慈恩寺は神福寺の遺蹟とされている。
その後仮殿に祀られた。永禄の戦乱には、一時兵火を避けて白木山に御神体を奉遷したといわれ、中世におけるその荒廃は著しかつた。
この地は伊勢大神の御遷幸の地であるとされ、倭姫命が天照大神を奉じ、桑名野代宮から鈴鹿に來られた際、この忍山にて神宮を奉斎した忍山神宮の旧跡という。
日本武尊の妃弟橘媛(おとたちばなひめ)は忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられている。
布気皇館太神社を論社とする説もある。
式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。

 「鈴鹿小山の宮(忍山)倭姫命御巡幸地跡」

垂仁天皇(第十一代)御代に皇女倭姫命が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和の国から忍山に御遷幸になった。 その祭神宮を造営し御鎮座になられること半年、なおも南え遷り坐したという。 その跡をかしこんで大神を奉杞した。  

⑩ 「野村一里塚」 

三重県内にあった12箇所(24)の一里塚の中で唯一完全な形で現存している一里塚です。 慶長9年(1604)、徳川家康の命で東海道が整備され、その一環として亀山城主であった関一政が築造しました。

江戸日本橋からは約424キロ、京都三条大橋からは約68キロの位置にあり往時は街道の両側に塚があり南側にはエノキ、北側にはムクの木が植えられていました。 現在残されているのは北側の一里塚だけで推定樹齢400年のムクの木が聳え立っています。 野村一里塚は昭和9年に国指定史跡に指定されています。

 

今回は見るべきものが集中していたために、 東海道通過距離は過去最低の783mとなりましたが、 この後は次回にしたいと思います。 なお、この辺りは平坦な所でして、標高差は約6m、従って勾配は0.8%でした。

 

 

 


989 庭の花 H25-22(New=136)

2013-08-26 08:00:00 | 我が庭の花

我が家の庭に咲いた花などを紹介してます。

夏場のために新しく紹介する花は少なくなり、今回は「タカサゴユリ」の一種のみになりました。 なお、各写真の末尾に付けている”E”の付いた数字は、写真原板の一連番号であり、その後の”No”は今年の正月以来咲いた順に付けた番号です。 従って、現在までに136種の花が我が庭で咲いた事になります。 なお、”( )”付きは再掲載である事を示します。

 

「フウセンカズラ」   (風船蔓)

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/huusenkazura.html

今年初めて我が家の庭に登場したのですが、風船が可愛いので何度もブログに採用されてます。 この風船手で触ってみると極めて柔らかいですが、意外に弾力性がありました。 結構内圧力があり、機密性もよいようです。 果して中に何があるか、楽しみです。

E04914(No129) 

 

「バラ」   (薔薇)

     「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/bara.html

我が家の庭の主が「キンモクセイ」ならば、その二番手と頑張る「バラ」です。 おん年40才以上の超ベテラン(?)です。 ”もっとまじめに剪定と肥料をくれたら、もっといい花を咲かすのに!”と言ってます。

E04907(No89)

 

「チャワンバス(実)」   (茶碗蓮)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/tyawanbasu.html

先に掲載した、美人四姉妹もお年を召して、少しお痩せになりましたが、でも、しっかりと子孫を増やす事だけは、お忘れにならなかったようです。 写真の蓮の実左から二番目は一足先に咲いたものが、おれも兄弟だと入り込みました。

E04912(No122)

 

「タカサゴユリ」  (高砂百合)

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/takasagoyuri.html

初めは「テッポウユリ」との区別が出来なかったのでひとつにしてましたが、近似種ながら別の物と判明したので、「花写真鑑」も分割し別登録としました。 ちなみに、私の区別法は、葉の細いのが「タカサゴユリ」としたのです。 ただ、本来の「タカサゴユリ」は花筒の外側に筋状に色が付く物が、台湾から来た時の姿らしいのですが、我が家で咲いてるのは、その色が無いので、それらの交雑種「シンタカサゴユリ」と称されている花かも知れません。

このユリは植えた記憶は全くありません。 言わば不法侵入者ですし、繁殖力が極めて強く種子が飛び散って何処でも咲くと言う極めて強靭な花で、”特定外来生物”に昇格(?)しそうな気配ですが、我が家では、その美しさに免じて生存を妨げないようにしてます。 到底駆除する事はできません。

E04956 No136

 

「スズメウリ」  (雀瓜)

     「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/suzumeuri.html

毎朝眺めていますが、中々大きくなりません、やっと直径15mm位に成長しましたが、まだ、色が付きません。

E04922a(No134)

 

「アサガオ」   (朝顔)

     「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/asagao.html

E04989(No119)

 

「ワタ」  (綿)

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/wata.html

この花は朝は薄い黄色ですが、夕方には薄いピンクに変わりますが、まだその姿を捉えきれてはいません。

E05013(No135)

 「ワタ」の実、つまり中には「綿」が詰まっているのです。

E05015(135)

 

「ニシキシソ」    (錦紫蘇)

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/nisikisiso.html

葉が黄色いのは白い花が、もう一つは薄いブルーの花が付いた。 葉が主役の植物であるが故に、花は控えめにしろと、固く言い伝えられているのかも知れません。

(No94)

 

「ルコウソウ」    (縷紅草)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/rukousou.html

蔓はどんどん伸びて、高さ3.5mの柵を越えているのに、花はちらほらとしか咲きません。 植えた時に「つる」作物育成用の土を使った事が原因かもしれない。 ”気が効きすぎて、間が抜けてる”とはこのことかも?。 真紅の花が初めて咲きました。 まだ、花を見せてない株が幾つもあり、何色が出るか楽しみではあるのですが・・・・?。

(No128)

 

 今回は以上です。

 


985 東海道 亀山宿 (3) 西丸町

2013-08-23 08:00:00 | 名所旧跡

桑名の「七里の渡し」を起点とした、旧東海道の街道筋にある旧跡を訪ねる”後期野次喜多道中記”は、亀山市の中心部の西半分を尋ねています。

なお、下の地図で、赤い線は旧東海道を示し、右は四日市、江戸方面であり、左は京、大阪方面です。また、丸付き数字は尋ねた場所を示し、下記の記事の番号になっています。 旧東海道上のブルーの丸() は距離の測定点を示し、また、ブルーの四角()は追って説明しますが、 「京口門」」のあった所(推定)です。    取材日:2013.08.05(月)

 

① 「西問屋場跡」

この辺りは、問屋が並ぶ街道であったようです。 まだ何軒も古い家屋が残されています。

 

② 「旧舘家住宅(枡屋)」、「道標」、「飯沼慾斎生家跡」 

 

「飯沼慾斎」について

 名を長順、幼名本平。慾斎は、引退後の号。小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、文政11年(1828年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら68歳で自ら種痘を試み、70歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、80歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという。

 

③ 「善導寺」

亀山藩縁の寺院で境内には亀山城主三宅康信の夫人である清光院や亀山城主石川家の家臣で藩校明倫舎の学頭を務めた柴田右仲(江戸時代後期の朱子学者)の墓碑があり亀山市指定史跡に指定されています。

 

④ 「加藤家長屋門、土蔵」

石川氏六万石の家老職にあった加藤家の屋敷跡。建物は江戸時代中期以降の建築とされるが、1990年の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている。  亀山市文化財。

 

⑤ 「亀山市歴史博物館」    70才以上入場無料 駐車無料

この博物館は、東西を走る東海道よりは少し北にあり街道筋とは言い難いですが、亀山の歴史に触れる上では欠かせない場所と思い訪れて、有意義な資料も戴きました。 (上記地図では、その外になるので、記載してません)

 

⑥ 「梅巖寺」

亀山藩主だった石川家縁の寺院です。境内は亀山宿の西端にあたり往時は亀山城の総構の城門である京口門に隣接していました。伊勢国鈴鹿郡八十八箇所霊場第三十二番札所(しづかなる わがみなもとのぜんじふじ うかぶ心は  のりのはやふね)。境内には西国三十三霊場を模した石祠が建立されています。

 

  ■ 「京口門跡」

 「京口門」は、当時は上記「梅巖寺」の隣にあったようですが、今は何もありません。 亀山城の総構の城門である京口門は石垣で囲われ棟門、冠木門、番所が備えられ石高の低い亀山藩にとっては規模が大きく壮麗だった為、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた、堂々たる門があったと言います。 1672年に築かれた。

⑦ 「京口坂」  道路の南側から見る。(下の写真)

下の川岸が当時は東海道であったと思われるので、今見える道路は盛り土をしたものと考えられるので、盛り土が無ければ、かなり急な坂道であったと考えられます。 そしてその上部に”亀山の過ぎたるもののひとつ”「京口門」があったと想像して欲しいのです。

そこに、下の絵を重ね合わせて見ますと・・・・・・・。 

⑧ 「広重が描いた亀山宿・雪晴」

松の木はありませんが、ぴったり嵌ると思うのが、私一人ではないと思いますが、如何でしょうか?。

 

⑨ 「京口坂」  旧東海道の道路の北側より見る。

下の写真は、左側が次に示す「照光寺」の山門ですから、当時の道路面はこの高さ以下であった事をきっちり物語っています。

ここに広重の絵が掲げられていますが、絵は坂が右上がりに描かれてますが、この写真では左上がりですから、この絵を描いた場所はここでは無く、先ほど示した道路の南側が正しいように私は思います。

亀山は台地の上にあると前に書きましたが、「京口坂」を降りることで台地から平地に移ります。参考までにここらの標高を調べると64.7mでした。 亀山城のあった辺りが91.5mですから、その差は27m前後となります。  これから推測すると、「京口坂」は距離は短いがかなりきつい坂であった可能性があります。

 

⑨ 「照光寺」

創建年は不詳ですが、古くは玉泉院と呼称されていた。元禄2年(1689年)、伊勢亀山藩主であった、板倉重冬の義母照光院によって、伽藍が再建されたとのこと。

「赤堀水之助(源五衛門)」についての興味ある文章をみつけましたので、借用しました。

石井源蔵・半蔵兄弟の亀山仇討について
 石井源蔵・半蔵の父は信濃国小諸城主・青山因幡守宗俊の家臣で、石井宇右衛門といい、宗俊が大坂城代となった時、共に従って大坂へ行きました。その折り、美濃大垣以来の友人赤堀遊閑が訪ねて来て、養子の源五右衛門の将来を頼みました。宇右衛門は引き受けましたが、しばらくして、源五右衛門が家中の者に槍を教えていると聞き、宇右衛門は、もう少し稽古をしてからにしたほうがよいと説くと、源五右衛は立腹し、それならば勝負をしたいと言うので、宇右衛門も仕方なく応じて源五右衛門を討ち負かしました。
 このことを恨みに思った赤堀源五右衛門は、延宝元年(1673)11月18日、外出中の石井宅に入り込み、帰宅した宇右衛門を槍で殺して逃げてしまいました。そこで、小諸藩の近習役で18歳になる宇右衛門の長男三之丞は、次男彦七と共に仇討の旅に出るのです。そして、同年12月8日の夜、源五右衛の養父・赤堀遊閑を大津で討ちとることができました。しかし、八年後の天和元年(1681)正月、美濃で源五右衛門の返り討ちに遇い、さらに次男彦七は、一人で伊予へ渡る時、嵐のため溺死してしまいます。
 三男源蔵・四男半蔵は、父が討たれた時、まだ5歳と2歳で、縁者の安芸国浅野藩士に預けられていましたが、二人の兄が死んだので、源蔵が14歳になった年、仇討に旅立ちます。
 その頃、赤堀源五右衛門は、名を赤堀水之助と改め、亀山藩に仕えていましたが、亀山藩は源五右衛門をかくまい、他国者には一夜の宿をも禁止し、見知らぬ者は一切城内に入らせないといった厳重さで、容易に近づくことができませんでした。源蔵兄弟は行商人となったり、近江の茶売りとなったりして仇の身辺を探りましたが、機会を得ることができなく、むなしく歳月が流れました。が、ようやくにして、源蔵兄弟は亀山藩士の家に奉公することができ、ついにその機会が訪れました。元禄14年(1701)5月9日の朝、宿直であった源五右衛門が出てくるのを亀山城内で待ちうけて、兄弟はめざす仇を討ち果たしたのでした。父の死から29年目、兄達の死から20年目のことで、長谷川伸の小説『29年目の仇討』の題材にもなっています。
 また、この仇討は、赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたと言われています。浅野内匠頭長矩の切腹がこの3月、討ち入りは翌年12月でした。  (この文は海津裕子氏が書かれたものです)

親の仇とはいいながらも、人生の大半を仇討ちに費やしたとは凄い精神力と感嘆するばかりですが、それで本当に気が晴れるものでしょうか?。 途中、これでよいのかと言う反芻はなかったのでしょうか?。 現代ではあり得ない事ですが、当時はそれを正当化し、それでよかったんだと信じ込んでいたのではないかと思います。 

東海道・”後期野次喜多”道中記 第24遍はこれにておしまいです。

 


979 花写真鑑 新規登録紹介 No811~820

2013-08-21 08:00:00 | 花一般

 「花写真鑑」がその収録数が大台の800種を越えたので、その喜びを伝えると共に、ブログで紹介してない花も最近は多くなってきたので、改めて紹介して行こうとするものです。

 また、過去には珍しい花を見附けて写真を撮ったにしても、その名前が解らないとブログでは”名無しのゴンベー”としても、「花写真鑑」には載せる事が出来ないでいました。

それが、最近「みんなの花図鑑」なるサイトを見附けて投稿した結果、その多くの名前が直ぐに判明するようになり、”姓名不詳”で留まっていたものが、「花写真鑑」に載りはじめたのです。

それでは、今回紹介する花は・・・・・・

 

No811 「イワタバコ」         登録日 2013.06.19

      http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/iwatabako.html

近くの「正眼寺」さんにて。

 

No812 「カワラナデシコ」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kawaranadesiko.html

同じく正眼寺さんに咲いてました。

 

No813 「テイオウカイザイク」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/teioukaizaiku.html

 菰野町片倉のお宅の庭に美しく咲いてました。我が家も今年春、種をまいたのですが、遂に芽が出ませんでした。

 

No814 「 クリナムパウエリー」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kurinamupaueri-.html

同上ですが、豪華で美しい花です。

 

No815 「 ムラサキシキブ」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/murasakisikibu.html

本来は紫色が美しい実を楽しむものですが、花を初めて写すことが出来ました。 紫でなく白かも知れませんが・・・・。

 

No816 「プリムラシネンシス」

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/purimurasinensisu.html

まだ春が遠い時期に、¥290で園芸店から買って来たものですが、真夏の今日現在も花が咲いてると言う、珍しく有難い花です。 サクラソウの園芸品種である事は間違いありません。

 

No817 「フジウツギ」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hujiutugi.html

ご近所の庭で美しく咲いてました。 

 

No818 「ヒメヒオウギズイセン」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/himehiougizuisen.html

昔からよく見る花で、余りにもありふれているために、眼中になかったのですが、「花写真鑑」に載せる花が少なくなって来たので、改めてメンバーに入ったのです。

 

No819 「ピンクダスティーミラー」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/pinkudasuthi-mira-.html

昨年の春、ご近所で咲いていた物を撮らせて戴いてましたが、名前が解らず埋もれていましたが、「みんなの花図鑑」で教えて戴き、日の目を見る事が出来たのです。

 

No820 「ルリタマアザミ」      登録日 2013.07.01

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ruritamaazami.html

近くのお医者さんの駐車場で咲いてました。 まだ蕾であり、花が咲くのを楽しみにしていましたが、 ついうっかり見過ごしてしまいました。 花の命の短い事を改めて教えられました。

                                           


984 東海道 亀山宿 (2) 本町 東町 西町

2013-08-19 08:00:00 | 名所旧跡

桑名の「七里の渡し」を起点とした、”後期野次喜多”東海道道中記は今回で第23遍目となり、亀山宿の中心部に来てます。 お城や本陣のあった所、関西本線亀山駅周辺になります。

下の地図はその辺りを示してますが、赤い線は旧東海道であり、この道を忠実に尋ねています。 丸付き数字はその尋ねた所であり、下に示す記事の番号になってます。   取材日:2013.08.05(月) 

① 「浄源寺」  

このお寺は、堂の正面が北を向いており、南側は完全に蓋がされている。 県の「みえ歴史街道」にも、「地蔵尊」として紹介されており、寺として機能しているか否かは私には解りません。 

 

 

② 「福泉寺」

創建は不詳ですが15世紀半ばに天台宗から真宗高田派に改宗した古刹です。山門は寛政7年(1795)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、一間一戸、楼門形式、格式が高く屋根正面には唐破風、軒の両側には鯱が設えられています。亀山市内に残る数少ない寺院楼門建築の遺構として貴重なことから平成8年に亀山市指定文化財に指定されています。

立派な山門です。 ここも保育園が併設されていました。

 

③ 「法因寺」

江戸時代末期亀山藩の群代奉行であった黒田孝富の墓があり、亀山市指定史跡に指定されている。なお、黒田孝富とは、亀山藩の藩政改革を断行し、明治元年に暗殺された人のようです。

また、裏の墓地にある推定樹齢300年の「左巻き「カヤ(榧)」の木」が亀山市指定天然記念物に指定されています。 写真下左。 なぜ「左巻き」というかですが、カヤの実の中、種になる部分は固い殻でつつまれていますが、この殻には縦に筋がありますが、普通はまっすぐなのに、ここのは左に巻いてるからこの名前が付いたようです。 なお、実は食べられるそうです。

 

④ 「本陣跡」

今は当時を忍ばせるものは何もなく、木の札があるばかりでした。

 

⑤ 「東海道」、「亀山城大手門跡」、「高札場跡」

この交差点の右ほうこうがお城で、ここら辺りに亀山城の正門となる「大手門櫓」があったとの立て札がありました。 明治初期に石垣に至るまで破却されてしまったそうです。

写真正面の道路左側に「高札場跡」の立て札があり、その辺りにあったものと思われます。

 

⑥ 「遍照寺」

創建は不詳ですが、17世紀初頭には既に存在していたとされ、所有する寺宝から亀山城下では有数の古刹として知られています。 鎌倉時代中期に作られた阿弥陀如来立像(高さ99cm)と慶長4年(1252)に作られた木造観音菩薩坐像(高さ31cm)、木造勢至菩薩立像(高さ46cm)が、三重県指定文化財になっています。 本堂の玄関は亀山城の二の丸御殿の式台を移築したもので、数少ない亀山城の遺構として貴重なものとされています。鎌倉時代中期の作と見られる。

また、本堂は亀山城二の丸御殿の玄関を移築したものと伝わる。

 

⑦ 「誓昌寺」   真宗高田派 梅照山

 

亀山の城があった場所は「台地」になっているので、城には絶好の場所といえますが、我々は少し坂を登らねばなりません。 標高差は20~25mと見られます。

 

⑧ 「亀山城多門櫓」 

天正18年(1590)、岡本宗憲が築いたもの。 三層の天守閣があったが、寛永9年(1632)に手違いで解体され、以降再建されなかった。 現存する多門櫓は県下唯一の城郭建造物として県指定文化財です。

多門櫓とは、解り易く言えば”長屋方式のやぐら(櫓)”と言えそう。 幾つもの覗き穴のあいたやぐらの事をいうようですが、亀山のはあまり穴が多いとは言えないですねー!。

下の写真植えられている木は桜です。これが咲くとこの櫓も一段と映えます。

参考写真はここに  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20090407

 

⑨ 「明治天皇行在所」  (あんざいしょ)

古ぼけた単なる田舎の家屋に見えますが、 明治13年(1880)、県下ご巡行の折使用された「玉座」などの一部を移築保存されたものだそうです。 県指定史跡、市指定文化財。

行在所とは、天皇が外出した時の仮の御所。 

 

⑩ 「大久保神官邸宅門」  市指定文化財

亀山城の鎮守、南崎権現社の神官邸宅の門。 亀山西小学校裏門に使用されていたが、昭和30年にここに移築されたものらしい。

 この門の奥には、「亀山演武場」が復原されており、「亀山藩御流儀心形刀流武芸形(県文化財)」が伝承されています。 心形刀流は亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒が免許皆伝を得て、1864年亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に関わって御流儀となりました。

 

⑪ 「亀山神社」

お城も含め、旧東海道よりは、少し北に外れた場所になります。

 

この後は、再び東海道に戻って、亀山市中心部の後編となります。

この終了地点は関西本線亀山駅辺りですから、略真ん中に位置しますが、ここまで旧東海道の通過距離は、亀山宿に入って5.1km、桑名宿七里の渡しからは36.3kmとなりました。 ですから、県境の鈴鹿峠までは残り約10kmになります。

 


970 花写真鑑 新規登録紹介 No800~810

2013-08-17 08:00:00 | 花一般

「花写真鑑」の収録件数(花の種類)が、2013.08.08現在865種となりました。

過去は収録した花の全てをブログで紹介した後「花写真鑑」に載せていたが、花に興味の無い人にとっては、花の記事が続くのは、スクロールするのも面倒かと考えたし、また、花以外の記事を多くするようにしているので、未紹介のままになってる花が多数あります、そこで、 花の記事が途絶えた時に挿入して行きたいと考えます。 

なお、ここに載せるのは、未紹介の花ばかりではなく、最初は花写真鑑」に収録したNo800番目の花から、10件ずつ順次紹介して行く積りなので、ブログに掲載したものも含む事をお断りしておきます。 また、収録順はランダムになっていますので、後からかなり以前撮った写真も出て来ます。

それでは記念すべき800番目の花は・・・・・・ 

No800  「ハルザキグラジオラス」      登録日 2013.06.08

   http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/haruzakigurajiorasu.html

花の形と言い、色合いも少し買っています。 こんなグラジオラスの仲間があることを初めて知りました。

2013.05.31  名古屋ブルーボネットにて撮影

 

No801  「イポメア」  商品名:スイートキャロライン

      http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ipomea.html

要はサツマイモの仲間ですが、どうやって作ったのでしょうねー!。 何年も研究し、繰り返し交配をさせて出来上がったものなのでしょうか?。 その過程を知りたいが、企業秘密かもしれません。

   

2013.06  我が家の庭にて

 

No802  「ミリオンベル」

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/mirionberu.html

丈夫で長持ち、花壇に植えるには持って来いの花。 作られた花としては、かなりヒットした花ではないでしょうか。 

2013.06  我が家の庭にて

 

No803  「タイサンボク」  別名:ハクレンボク

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/taisanboku.html

近所の公園で見付けました。 豪華な花です。 花芯も大変立派です(上記花写真鑑に載ってます)。

2013.06  近くの公園にて

 

NO804  「リシマキアミッドナイトサン」  別名:グリーピングジェニー

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/risimakiamiddonaitosan.html

地を這うように広がってました。

2013.06  正眼寺にて

 

No805  「ペンステモンガーネット」 

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/pensutemonga-netto.html

2013.05.31  名古屋ブルーボネットにて

No806  「ワトソニア」

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/watosonia.html

2013.05.31  名古屋ブルーボネットにて

 

No 807  「リナリアプルプレア」  別名:宿根リナルア、ムラサキウンラン

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/rinariapurupurea.html

2013.05.31  名古屋ブルーボネットにて

 

No 808  「ハナタバコ」  別名:ニコチアナ

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hanatabako.html

昨年の5月に見つけたのですが、今日まで名前が解らず、埋没してましたが、咲いていた場所、「松阪ベルファーム」に問い合わせた所、教えて下さったので、遅まきながら、登録した次第です。

 

2012.05.11  松阪ベルファームにて

 

No 809  「シナワスレナグサ」  別名:シノグロッサム

    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sinawasurenagusa.html

2013.05.17  松阪ベルファームにて

 

No 810  「エノテラアフリカンサン」      登録日 2013.06.19

     http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/enoteraahurikansan.html

2013.06  正眼寺にて

 

No811~は次回、花以外の記事が続いた時に挿入します。 また、全部紹介以降も10種の花がそろった段階で、紹介して行こうと思ってます。

 


982 東海道 亀山宿 (1) 井田川 和田

2013-08-15 08:00:00 | 名所旧跡

 ”後期野次喜多衆”はついに「亀山宿」(亀山市)に入って来ました。

 歌川広重の描いた亀山はご覧の通りですが、国道一号線を走っていると、こんなに急な坂道には出会いません。 それに真夏に書いたブログには余りにも季節感を無視しているとお咎めを戴きそうではありますが、恒例(?)により掲載します。  この絵を書いたと思われる場所については、そこを通った時に書こうと思ってます。

 

   取材日:2013.07.25(木)

  

 

 ① 「若一大神社」

ここは県の「みえ歴史街道」には掲載されていませんが、 寺を探している時あったので、入ってみたもの。

 

 

② 「海善寺」 

 

 

③ 地蔵堂

辺りに在り合わせの石を並べたような地蔵さんですが、県の「みえ歴史街道ウオーキングマップ」に載っていたので尋ねましたが・・・・・・?。 しかし、花が添えてありましたから、それなりの何かがあるものと思われます。

 

 

④ 関西本線・井田川駅

旧跡ではありませんが・・・・。

 

 

⑤ 「西信寺」   真宗高田派

 

 

⑥ 「正福寺」

 

 

⑦ 「谷口法悦題目塔」

 元禄年間(1695~98)に谷口法悦が建立。正面に「南無妙法蓮華経」と、右に「後五百歳中廣宣流布」、左に「天長地久國土安穏」と刻まれている。 亀山市指定文化財。

法悦とは、江戸時代に京都にいた、熱心な法華経信者の一族であること以外はわからない。

 

「題目塔」とは、南無妙法蓮華経と刻まれた鎮魂を目的とする供養塔の事らしい。 法悦は百基を越える題目塔を建立したほどに熱心であったとされる。

 

⑧ 「和田道標」 

元禄3年(1690)に建てられた県内東海道中最古の道標。 「従是神戸白子若松道」と書かれている。 市指定文化財。

 

 

⑨ 「幸福寺」    真宗高田派

 

 

⑩ 「井尻道の道標」

 

 

⑪ 「福善寺」   天台真盛宗

 

 

⑫ 「和田神社」

 

 

⑬ 「石上寺」    真言宗

796年に大和国(現奈良県)石上神宮の神託お受けた紀真龍(きのまたつ)が、那智(現和歌山県)の熊野那智大社をこの地に勧請したと伝える。 後に鎌倉幕府の祈祷所となり、広大な土地が寄進されたが、織田信長の兵火に遭って衰微し、江戸時代初期に小堂を建て再興したという。 寺に伝わる「紙本墨書石上寺文書」(県文化財)は南北朝時代のものが多い。

かつては壮大な伽藍を有していたと伝えられるそうだ。

 

 

⑭ 「和田一里塚」

日本橋から104番目、つまり104里(約406km)の一里塚です。

野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。 亀山市教育委員会

 

 

この後は、亀山市の中心部に入ってゆきます。 それは次回に・・・。

 

 


988 庭の花 H25-21(New=130~135)

2013-08-14 08:00:00 | 我が庭の花

団地の狭い庭ですが、足の踏み場もない程に草花を育てています。 その咲いた花を全部撮ろうとやってますが、花は見たら直ぐ撮るが大原則、後にしようと考えた瞬間、花を撮る事が出来なくなります。 それくらい「花の命」は短いのです。・・・と言う事が解っていながら、つい撮り損なっていますが、先回でそれでも129種の花を撮りましたので、今回はその続きになります。

「サギソウ」  鷺草

    「花写真鑑」   http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sagisou.html

サギの乱舞です!。

(No127)

 

「フウセンカズラ」  風船蔓

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/huusenkazura.html

花が可憐なのと風船が絵になるので、再登場です。

(No129)

 

「サルスベリ」  百日紅

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sarusuberi.html

昨年はあれだけ咲いたのに、今年はさっぱりです。 多分、昨年秋の肥料が足りなかったのかも?。 哀れな状態ですが、おれも家族の一員だと言うので、止むなく載せさせて戴きました。

 No130

 

「メランポジウム」

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/meranpojiumu.html

 No131

 

「トレニア」   花瓜草、夏菫

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/torenia.html

何かの花の土に忍びこんで、不法入国した上に、どんどん仲間をふやし続けています。

 No132

 

「ニシキシソ」   錦紫蘇

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/nisikisiso.html

春先から長い間楽しませてくれる、有難い草です。 白いのは「シロタエギク」。

(No94)

 

「ヨルガオ」   (夜顔)  

    「花写真鑑」  未登録

今年春、ご近所から苗を二株いただいたもの、ひとつが漸く咲きました。 普通のヒルガオよりも花が大きく15cm近くになり、花の根元が長いのが特徴です。葉は似ています。 

この他に「ユウガオ」というのがありますが、 これとはまったく別の種だそうです。

 No133

 

「ジニア・リネアリス」   細葉百日草

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hosobahyakunitisou.html

(No109)

 

 「スズメウリ」   雀瓜

     「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/suzumeuri.html

 「カラスウリ」は昔からよく見てますが、 それよりも小さいから「スズメ」が付いた瓜の種をいただいたので蒔いて育てています。花は可愛いとは言い難いですが、秋には実がきれいに色づくと期待してます。

 No134

 

「ワタ」  (綿)

    「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/wata.html

これも昨年秋に種を戴いたので蒔いたものですが、葉や茎ばかりが育って中々花が咲かなかったもの、漸く咲いてくれました。朝は白い花が夕方には薄いピンクに染まります。 写真下右は大きな額にすっぽりと包まれた蕾です。 戦争中畑に植えられてましたが、余り記憶がはっきりしませんが、少し違うような気がしてます。

 No135

 

先日、「花写真鑑」の収録数は865種(2013.08.08現在)になりました。 これだけ集めると、園芸店に行っても載せてない花は殆ど見当たりません。本来ならば、植物園に行きたいのですが、この暑さで二の足を踏んでいます。その結果、庭の花でお茶を濁すような事をしてます。 ご勘弁のほどを!。

  


981 東海道 庄野宿 (2) 汲河原 富田

2013-08-12 08:00:00 | 名所旧跡

三重県内の旧東海道、街道筋にある旧跡を尋ねていますが、その第21編目は「庄野宿」の西部になります。

ご承知の通り東海道は桑名宿から四日市宿の中ほどまでは、伊勢湾岸を略南方に下ります。その間は海岸から遠く無いので道の高低差は川の堤防より高くなることはありませんでした。 しかし、四日市市采女(うねめ)を通る辺りから、海岸線から遠ざかり初め、方向も西方に舵を取り、鈴鹿山脈、鈴鹿峠が近づくに従い勾配がきつくなってきます。

旧東海道と略並行している国道一号線を走っていると、 勾配は平均化されているために、 殆ど気になりませんが、実際には少しずつ登り勾配になっています。 その為に、足に自信の無い”後期野次喜多衆”にとっては、歩きも自転車も使えず、もっぱら車にたよって東海道を下っています。

幸にしてこの辺りは、繁華街でも、観光地でもないために、見たい旧跡の近くに車を止められるのは、大変に有難いことと思っています。 このあとの亀山宿は街中に入りますし、関宿は観光客も多い所であり、また、坂下宿あたりは急坂になってくるなど、取材もだんだんと楽では無くなりそうな気配です。

 

いつも同じですが、下の地図”赤い線”は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた旧跡を示しています。赤い線が一部細く薄くなってる部分は、昔の東海道があった場所で、今は消失している事が多いです。

  取材日:2013.07.25(木)

 

① 「道標」 

 

② 「真福寺」   浄土真宗本願寺派 

 

③ 女人堤防 

この辺りは鈴鹿川とその支流安楽川の合流点で、昔から水害が頻発していた。 江戸時代、領民は神戸幡(かんべはん)に何度も川の修築を申し出たが許されず、1829年に女性達が幡命に逆らい、死罪を覚悟で堤防を補強した。 女性達は、いったんは処刑場に送られたが、赦免の早馬が到着し救われたと言う。 

写真中央から右方向への低い堤防がそれらしい。 下左の石柱には「これより東・神戸領」とあり、下右は「女人堤防碑」。

 

④  「領界石」と「山の神」

右端下に見える石は手洗い石であるが、1813年のものだそうだ。  上の「女人堤防碑」と道を挟んで北側にあるが、江戸時代から位置は変わってないという。

 

⑤ 「 式内川俣神社」

樹齢600年と言われる、楠の大木がある。

 

⑥ 「常夜燈」、「史跡中富田一里塚跡碑」、「これより西亀山領の石柱」

上記「川俣神社」の鳥居の両側に並んで置かれてました。

 

⑦ 「浄念寺」   天台真盛宗

以前、この地には延命地蔵尊を祀った地蔵堂を持つ「平建寺」があったが、安政地震後、浄念寺が移転された。

 

⑧ 「福満寺」 

写真を撮らせて下さいと、住職らしき方に声をかけたら、 梵鐘の屋根瓦が新しく拭き替えた事などを親切に説明して戴きました。

 

⑨ 「川俣神社」

 ⑩ 元は別の場所にあった、「常夜燈」、「道標」も今は「川俣神社の境内に。

常夜燈は慶応2年(1866年)のもの。

 

 ⑪ 「地蔵堂」

 

⑫ 「道標」

江戸時代からここにいるそうです。

 

 

⑬ 「地蔵堂」

江戸時代からずっとここに鎮座されてます。

 

⑭ 「地福寺」

 

庄野宿は二編に渡って紹介したが、旧東海道のその区間距離は合わせて5.46kmになりました。  これをまとめると・・・

桑名宿  (七里の渡し~町屋橋)    3.8km   桑名市    ブログ: 7編 

四日市宿(町屋橋~浪瀬川橋)    19.2km   四日市市   〃   10編 

石薬師宿(浪瀬川橋~椎山川橋)    2.7km  鈴鹿市     〃    2編

庄野宿  (椎山川橋~伊田川駅手前) 5.5km  鈴鹿市    〃    2編 

    合計は                     31.2km               21編 となりました。 

この後は亀山宿(亀山市)に入ってゆきます。

                                        << 庄野宿 完 >>


983 庭の花 H25-20(New=127~129)

2013-08-11 08:00:00 | 我が庭の花

本年正月以来、我が家の庭に咲いた花を全て撮ろうと始めたシリーズもこれで第20編を迎えることになりました。 夏期に入り咲く花の数が減り、ブログ発行頻度も大きく低下しましたが、既に紹介した花は126種となり、今回これに3種を加えたいと思います。 

我が庭の”王”たる花と自慢の花「蓮」が本格的に咲いたので、その辺りから始めたいと思います。 

 「チャワンバス」  (茶碗蓮)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/tyawanbasu.html

大きい蓮、普通の蓮は植える鉢が大きく、重い物が持てなくなった私には、植え替え作業が困難となったので、小さい鉢でも育てられる「チャワンバス」のみに、非常に残念ながら今年から変えたのです。 その私の無念さが伝わったのか、今年は今までになく見事に咲いて私を喜ばせてくれたのです。

E03797

四姉妹の揃い踏み!。

E03818

ミニ蓮ですが、このように集まって咲き、一つだけ半開きになり、絶好のシャッターチャンスと何枚も撮ったなかの一枚です。 早速A4版にプリントして額に入れました。

E04174(No 122)

 

「サギソウ」  (鷺草)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sagisou.html

清楚な舞姫が乱舞してます。

E04251

E04261 No127

 

「ルコウソウ」   (縷紅草)      ブログ初登場

     「花写真鑑」    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/rukousou.html

茎や葉ばかりが育って、花が咲きません。 始めて種から育てたのですが、何処かやり方がよく無かったようです。

 No128

 

「ギボウシ」   (擬帽子)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/gibousi.html

E04282(No112)

 

「アサガオ」   (朝顔)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/asagao.html

E04271(No119)

 

「オシロイバナ」   

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/osiroibana.html

前のブログでは開いた花が見えない内にしぼんでしまったと書いたが、矢張り夜開いていたらしい。 下の写真は午後7時過ぎに漸く咲いた所に出会えたのでした。 それから再々夜出て見るが、まだ黄色は開いた花に出会ってないのです。

 (No126)

 

「フウセンカズラ」   (風船蔓)    ブログ初登場

     「花写真鑑」    http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/huusenkazura.html

花茎に必ず3個の小さい花が咲き、その一つにのみ風船(実と思われる)が付く。 「キュウリ」や「カボチャ」などの様に「雄花」と「雌花」があるのかと見ましたが、三つの花の違いは見つけられませんでした。 研究課題です。

 No129

 

オシロイバナに「ニイニイゼミ」が遊びにきました!。 マクロレンズだったので、かなり接近したのですが、逃げません近くに抜けがらも無かったので、この世に出たばかりでもなさそうでしたが・・・・。

 

 

 庭の花は100種位かと思ってましたが、すでに129種になりました。これでも今年咲かなかった「シュンラン」、「スズラン」、「リキュウバイ」などがあり、撮り損なった「カキラン」があるなど結構ある事に、改めて驚いています。 夏の花もまだ咲かないのもありますし、ぼつぼつ秋の花が準備をしてますから、全部撮れば150にはなりそうです。

 


980 東海道 庄野宿 (1) 加佐登 庄野

2013-08-09 08:00:00 | 名所旧跡

東海道を桑名宿の「七里に渡し」を皮切りに、街道の周辺にある旧跡を訪ねている。 四日市宿、石薬師宿と来て、東海道五十三次の45番目「庄野宿」に入ってきました。  ここは、東西に長く伊勢湾から滋賀県との県境まである鈴鹿市に位置しています。 

歌川広重の「庄野宿」には”にわか雨”に急ぐ姿が描かれていますが、 ここらが雨の多い所との印象はありませんが、天候が変わり易いことはあるかも知れません。 それてにしても、当時、雨具を持たない人は、着物が濡れないように裸になって歩いたのでしょうか?。 夏なら涼しくてそれでもいいですが・・・・?。

 

庄野宿についての記述を拝借・・・・
東海道に伝馬継立制は四十数宿だつた。翌慶長七年(1602)に岡部、九年に戸塚、元和二年に袋井と石薬師、四年に箱根、九年に川崎と順次追加され、庄野に設けられて五十三次となつたのは寛永元年(1624)のことだつた。五十三次の由縁は、徳川家康が華厳経を信奉していたので、その中に出てくる53人の聖者を意識していたともいわれている。天保14年の宿村大概帳によれば、亀山に二里の距離、人口855人、家数211軒、旅籠15軒、本陣1軒の規模であった。広重のこの「庄野ノ白雨」は五十三次の中の最高傑作といわれ、国際的にも評価が高い。「白雨」とは夕立のこと。

今回の見て回った場所を示す地図ですが、赤い線は旧東海道を示し、右方向が四日市、桑名方面で、左は亀山、鈴鹿峠に至ります。 なお、丸付き数字は尋ねた旧跡の場所を示し、これから書く記事の番号になってます。   取材日:2013.07.25(木)

 

① 「浄安寺」

木造釈迦如来坐像は鈴鹿市指定文化財。

 

② 「青蓮寺」  (しょうれんじ)

ここは県の資料には記載されてないお寺ですが、 道を間違えて入ってしまったし、また、「ソテツ」の花が見事であったので見学させて戴き、更には、折角撮ったので旧跡に加えさせてもらったものです。

 上記2寺は東海道より少し離れ、北西の位置にありますので、南の方、関西本線を越えて、旧東海道に戻ることになります。

 

③ 古い造りの家並み

この辺りには懐かしい家並みが数軒あります。

 

 

④ 「善照寺」   真宗高田派

 

⑤ 庄野宿資料館

鈴鹿市が管理しているこの資料館は旧小林家の主屋の一部を創建当時の姿に復元したもの。 小林家は庄野の豪商で油屋を営んでいた。 この家は「1854年(建立)」銘の棟札を持ち、 館内には、庄野宿の本陣、脇本陣文書、宿駅関係の資料が展示されていすます。
 
 
 

入って見たかったが、閉鎖されていた。 開ける日についての記述も見当たらなかった。

 

⑥ 「妙法禅寺」   臨済宗東福寺派

 

 

⑦ 「常楽寺」   真宗仏光寺派

 

⑧ 「川俣神社」

下の写真の巨大な木は、「スダジイ」であり、県指定天然記念物です。 樹高15m、幹周り5m以上、枝は東西に19m、南北に16mの広がりを持つ大変豪快な木に見えました。

「スダジイ」とはブナ科の常緑樹。  小学生の頃、お宮さんなどの「シイ」の木の下で、実を拾って食べた事を思い出します。 大粒の大豆程度の大きさでしたが、黒い皮を剥くと、実は真っ白で、味は殆ど無かったですが、おやつ代わり、空腹を満たすひとつの方法でした。 栗でも生はあまり美味しく無いが、「シイ」も同じでした。

 

⑨ 「庄野宿本陣跡」と「高札場跡」

高札場跡は、本陣跡の左の道路の向こう側に立てられていた。 そこが高札場であったように思えました。

 

⑩ 国道一号線と県道の立体交差点により、消えてしまった「旧東海道」と今の歩道の説明書きがありました。

 

 今尋ねた辺りは、加佐登町と庄野町でありましたが、この後は汲河原町に入ってゆきますが、その記録は次回にしたいと思います。


975 東映太秦映画村(3)キッズコーナー

2013-08-08 08:00:00 | 資料館

真夏の京都に来て、東映の映画村を紹介していますが、その3回目はキッズコーナーです。

ここは子供たちや若い人には、わくわくする堪らない魅力の集まるコーナーでしょうが、私には残念ながら、”猫に小判”でしかないです、それでもひと通り写真に撮りましたので見て下さい。

 

怪獣も随分と進化(?)したように思えます。

 

そして最後は時代劇アトラクション (屋外・無料)

 

前から一度は入って見たいと思っていたが、漸くそれが叶えられたのでありました。 

 

 


978 東海道 石薬師宿 (2) 上野

2013-08-06 08:00:00 | 名所旧跡

東海道を「桑名宿(42)」、「四日市宿(43)」と巡り、今は東海道五十三次の44番目「石薬師宿」に来て、街道の周辺にある旧跡を訪ねています。  今の区画では、ここは鈴鹿市石薬師町となっています。

下の地図で、赤い線は旧東海道を示しますが、 地図 下の方に示すように、一部は消えてしまって、今やその痕跡も無い部分もあるようです。 丸付き数字は尋ねた場所です。       取材日:2013.07.20(土)

 

下の写真左は石薬師宿の入口にありました。 また、中央と右は次に書いた「浄福寺」に近くの道にあり、 旧東海道(写真の左が四日市方面、右が亀山方面)の近くから撮っています。

 

① 「浄福寺」

      真宗高田派 

上の写真下右の碑、佐々木弘綱翁とは、佐々木信綱の父親で歌人であったとのことである。 生家はこの寺から歩いても数分の所にあり。 佐々木家の菩提寺であり、碑は寺の入口に。 いまは、保育園もやっているようです。

② 「道標」

建物を建てるにあたって、誰も文句を言わないのを幸いに、邪魔になり押し出されたような哀れな姿をしている。 こういう貴重なものは、もう少し暖かい目で見てほしいものだ。

 

③ 「石薬師寺」

 寺名は本尊石薬師如来を祀ることにちなんでいる。戦国の戦火のあと神戸城主により、1629年に再建された。 石仏は花崗岩で高さ190cm、寺伝によれば、弘法大師が地面生えぬきの石に刻んだと言われている。 浅い線彫り、ほおは豊かで薬師仏として親しまれてきた。 平安後期の作と言われている。 現在の本堂は1692年再建の総檜作りであるらしい。

 

石薬師寺庭園

 

④ 「御曹子社」

 源頼朝の弟、源範頼を祀る神社です。 源範頼は武道、学問に優れていたので、その願望成就の神様として祭られているようです。 平家追討の際、石薬師寺で戦勝を祈ったと言われています。

 

⑤ 「石薬師の蒲桜」  県指定 天然記念物、文化財

「ヤマザクラ」は赤みを帯びた葉が花と同時に出るのが特徴ですが、この「蒲桜」も似て居り変種と思われ、植物学的にも貴重な品種らしい。 花はひとえで「ソメイヨシノ」よりも大きく真っ白だそうです。 二株あって、主幹は枯れているが、ひこ生えが何本も大きく育っています。

名前の由来は蒲の冠者と呼ばれる、源頼朝の弟「範頼」が、鞭として使ってた桜を突き差したら根付いたと言う伝説もあるようです。 東海道名所図会に 「名馬生食の出し所はここならむとめぐりたまひ馬の鞭を倒にさしたまふ、後に枝葉栄へり」・・・と書かれているとか。 

これが事実なら樹齢800年になりますが、そこまで桜の寿命はもたないのでは?、ひこ生えならどうなのかは私にはわからない。

 

⑥ 「石薬師の一里塚」

信長記(しんちょうき)には、1540年冬、足利将軍が諸国に命じて40町(一町は約109m)を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたと書かれていると言います。

家忠日記には1640年に秀忠が東海道、東山道、北陸道に一里塚を36町に改めたと書かれている。・・・とか。

  「くたびれたやつが見つける一里塚」   江戸時代の作だそうです。

 

 この一里塚を過ぎると旧東海道は鈴鹿市加佐登町、つまり、「庄野宿」に入るので、これにて「石薬師宿」は終了とします。 県の資料によると、「庄野宿」は上田町近辺からとの記述があるので、この辺りは上田町に隣接するので、ここで区分けすることにしました。 見るべき旧跡もこの一里塚のあとは暫く途切れるので”取材”都合(疲労と熱中症からの退避)も丁度よかったのです。

「石薬師宿」は前編では東海道を1.8km来ましたが、今回は約900mであったので、「石薬師宿」全体としては、2.7kmになります。 従って桑名宿の起点からは 約25.7km来たことになります。 ですから、県境まではまだ庄野宿、亀山宿、関宿、坂下宿など四宿ありますが、距離としては残り20km前後と見られますが、登り勾配が更に激しくなって来ると考えられます。

上記距離は、私が独断と偏見で決めた、各宿場の始点~終点の距離を地図上にプロットして距離を計測したものです。 一方、東海道の始点とする「日本橋」から終点とする「京都三条大橋」までを124里8丁(約484km)とした場合の、宿場間の距離を調べると、

桑名宿から四日市宿までが 3里8丁 (約12.6km)

       石薬師宿までが 2里27丁 ( 10.7km)

       庄野宿までが    27丁  (  2.9km)

・・・となっており、「庄野」までの距離に注目すると、「御油宿」から「赤坂宿」までの16丁(約1.7km)に次ぎ、「平塚」から「大磯」の間の距離と同じであり、五十三宿場間では短い方である事が解りました。 なお、この計算方法によると、桑名宿から三重県の最後となる坂下宿(峠の近く)までは11里32丁(約46.4km)となってます。 

ここに使った距離は、「本陣」など宿の中心間の距離であり、地域区割りの境界間の距離でない事に注意が必要です。

                                                 << 石薬師宿 完 >>

 


974 東映太秦映画村(2)時代劇セット

2013-08-05 08:00:00 | 資料館

映画村その2は、時代劇のセットを紹介します。 残念ながら映画のロケーションは行われていなかったが、その代わりに隅々まで見る事が出来ました。 

ここで数々の邦画が造られたのでしょうから、或いはそのシーンを思い出す人もいるかも知れない。

 

 役所と町並み

日本橋(?)

中村座

歓楽街

商店街

理髪店、ホテルなど

長屋、井戸端の会議場

消防署と時代を語る小道具など 

行き交う人々、時代劇のいでたちで・・・

 

真夏の京都に来て、初めての「映画村」を見学してますが、この後は「キッズコーナー」です。