木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

獅子会が行く-12 墨俣一夜城 (No 2216)

2020-03-06 08:00:00 | 名所旧跡

  2020.02.17(月)、獅子会の面々は岐阜市を見た後は、大垣にやってきた。

 

 「墨俣城(すのまたじょう)」

      大垣市墨俣町墨俣1742-1 

  ウイキペディアによれば・・・

築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)[2]の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある

現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なる[4]。また、公園内にある白鬚神社式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。

 

 

 

 

 

 

 

                             つづく   

 

 

 

 

 


獅子会が行く-6 ロープウエー山麓駅 (No 2210)

2020-02-26 08:00:00 | 名所旧跡

  2020.02.17(月)、獅子会の四名は、友の車にのせてもらい、岐阜にきている。「うかいミュージアム」や「正法寺」を見た後、行っても見る物がないと考えたのか、近くのコーヒーショップに行くというので、私一人が公園に向かった。

  足腰が文句を言わなければ、金華山や岐阜城に向かうのだが、残念ながらそれは叶わず、ロープウエーには乗らず、何とかMAPにするだけの写真を、山麓駅周辺で撮った。  

 

 「金華山ロープウエー・山麓駅」

 

 「麒麟」の地元、特にここは斎藤道三のふるさとらしく、関連の展示がみられた。 

 

 「麒麟がくる」の本木雅弘そっくりに作られた人形も。

 

 

 金華山はまだ行ったことがないので、行きたいのは山々なれど、ここで断念せざるを得なかった。

 

 

                              つづく

 


獅子会が行く-3 長良川灯台 (No 2207)

2020-02-22 08:00:00 | 名所旧跡

  2020.02.17(月)、獅子会の四名は、岐阜方面に来ている。今回はS君が計画してくれたものであるが、全体を見ると若干は時間的な余裕がありそうなので、近くであり時間もさほど掛らないので、少し立ち寄ってもらったのであった。

  ここは長良川であり、有名な「鵜飼いの本場」であるから、先ずは「うかいミュージアム」を見たが、そのすぐ隣に「長良川公園」があり、その東の端に、長良川を照らす「川灯台」があるので、見に来た。

 

  「川灯台」

 

 長良橋の北詰に平成9年3月に完成した長良広場。悠々と流れゆく長良川とそびえ立つ金華山を眺めながら人々が集い、語らう場所として整備されたこの公園の南西に、左岸と対を成す川灯台がある。岐阜城の出城をイメージして作られた石積みの高台に立つ灯台は、薄暮にやわらかなガス灯の明かりを燈(とも)す。その姿は1300年余に渡って勇壮な歴史絵巻を繰り広げ、今なお川面を行き交う鵜飼舟へと、静かにその標(しるべ)を投げかけているかのようだ。

 

 下の図の「現在地」の場所に灯台がある。

 

 

 

 下の写真、右の山は「金華山」。

 

  画面が暗くて見難いが、ご勘弁いただきたい。 これは、撮影者(私)の不注意がそもそもの原因であるが、実はカメラの自動露出演算機構が故障していて、時々暗くなることが、わかっているので、これを見越して露出を手動で上げれば、防げるが、それを怠ったことによるもの。当シリーズ全体が暗いが、ご勘弁給りたし。

 

                            つづく


獅子会が行く-1 岐阜城 (No 2205)

2020-02-19 08:00:00 | 名所旧跡

 2020.02.17(月)、獅子会の面々四名は、友の車に乗せてもらいながら、岐阜方面にやってきた。最初の訪問先は長良川の北側になるので、長良川を越えねばならないが、その前にトンネルがあり、そこにさしかかった。

 このトンネルは金華山の西の麓を北西方向に横切るので、岐阜城の下(広い意味で)を潜ることになり、ならばと、ここでブログを一本戴くことにした。 下の写真、山の頂上にあるのが城である。 最近写真の腕が低下して誠に見難いが、それは雲が厚く、またカメラが不調の"せい"にして、暗い写真を載せている。

 

  「岐阜城」

 

 

 本当の所は、岐阜城に行きたかったが、足腰の状態を考えると、それは不可能であり、また、近くに来ることさえも、これが最後かも知れないと考え、ブログの一ぺージとしたのであった。 誠に残念なことであるが、このようなことは、今後増えることはあっても、減ることはなさそう!。

 

 金華山の左下(南西方面)から入り、北方面にトンネルを抜ける。

 

 

 トンネルを抜けて間もなく、最初の訪問地「うかいミュージアム」に到着したが、その記録は別途とする。

 

                           つづく

 


大垣城 (No 1728)

2018-03-07 08:00:00 | 名所旧跡

 大垣市にある 大垣城 を天守閣まで昇ってみた。(西美濃で食事会 シリーズ14-8)

 2018.02.18(日)、高校時代からの仲良し三人が、今日は早朝に四日市を出発、食事会と称して岐阜県の西部、谷汲み辺りから始まり、祭りの屋台もどきでの、お稲荷さんと芋汁にコーヒーという絶妙(?)な栄養バランス(?)と、絢爛豪華(?)な食事の後 、大垣市にやってきた。 

 「大 垣 城」

    大垣市郭町2-52

 

 

 「西門」より入る。  入場料 ¥100

  ウイキペディアによると・・・

宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであったという。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。

 展示品の数々。

 

 天守閣

 

 窓外の風景

 

 木曽川はじめ大きな川が近いので、洪水との戦いは数知れず、中でも明治29年の大洪水は史上最大であり、このにその印が残る。(後方の石垣の横線)

 ここは平地よりも2~3m高いから、平地では屋根よりも上にまで到達するという、巨大な洪水であったと思われる。

 

 以上をもって、「西美濃での食事会」の顛末記は終了とする。

                         << おしまい >> 

 

 

 

 

 

 

 


奥の細道 むすびの地 (No 1727 )

2018-03-05 08:00:00 | 名所旧跡

 松尾芭蕉の奥の細道を締める最後の訪問地、大垣市での足跡と「奥の細道むすびの記念館」を見るために、2018.02.18(日)大垣市の中心街付近に、高校時代からの仲良し三人がやってきた。(西美濃で食事会 シリーズ14-7)

 芭蕉は1689年に江戸を発ち、古歌や故事の名所・旧跡の地を訪ね、東北、北陸をこの間約2400Kmを150日かけて旅をし、大垣で結んだ。
 この記録をまとめたものが「奥の細道」であり、現代まで読み継がれている。
 この旅で美しい自然を体感し、古人と心を重ね合わせ、土地の人々と出会った芭蕉は、「不易流行(ふえきりゅうこう)」の考えを持つことになった。(パンフレットより抜粋=一部編集)

不易流行とは・・・・(Goo辞書より抜粋)
 いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の理念の一つ。解釈には諸説ある。「不易」はいつまでも変わらないこと。「流行」は時代々々に応じて変化すること。

 

「大垣船町川湊」

名勝 おくのほそ道の風景地。

 

「はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ」 松尾芭蕉

 

下の写真左端は、「住吉燈台」 
  1840年に建てられた。(県指定史跡)

 橋は住吉橋

 

 「奥の細道ふすびの地・記念館」

    大垣市船街 2-26   入館料 ¥300

  記念館の中には、そのメインとなる、「芭蕉館」「先賢館」は写真撮影禁止のために、写真はなし。

芭蕉館には・・・
 奥の細道を旅路毎に区切り、関連する資料を展示。

先賢館には・・・
 大垣藩主の文教政策や、江戸時代後期から幕末にかけ活躍の5人を紹介。

AVシアターでは・・・
 奥の細道への、覚悟の旅立ちからむすびの大垣までを4ブロックに分け、合計約60分間、3D映像を美俳人の解説で紹介する。 

 

「無何有荘大醒榭(むかゆうそうたいせいしゃ)」

大垣藩藩老の別荘を移築(市文化財)

市のホームページによると・・・

 「無何有」の名前は、鉄心の師である鴻(おおとり)雪爪(せっそう)によるもので、荘子(そうし)の言葉「無にして何ぞ有らん」(無為・無作為で超然とした自然である境地)を意味しています。

 「大醒榭」は、和風に中国風意匠を取り入れた設計で茶室・湯殿・水屋・厠の4室で構成されており、茶室の天井は葦の網代天井、屋根は茅葺き、外側は紅殻塗装になっています。

 

  この後、ご一行様方は、大垣城へと向かわれた。 その記録は別途紹介する。

                        << つづく >>

 

 


中山道 赤坂宿 (No 1726)

2018-03-03 08:00:00 | 名所旧跡

 大垣市の西部を通る 中山道 、この辺りは 赤坂宿 と言われ繁栄した地域であるが、今回その旧跡をたどって見た。 (西美濃で食事会 シリーズ14-6)

 2018.02.18(日)、高校時代からの仲良し三人は、食事会と称して、岐阜県西部にきている。 すでに幾つか見てきたが、今回紹介するのは、大垣市の中心部(市役所やJR大垣駅等)より北西部を通る「中山道」(今の表示では県道216号線)の「赤坂宿」についてである。 

赤坂宿についての記述をさがすと・・・

 赤坂宿は杭瀬川の舟待ち宿として存在していた杭瀬宿が発展したもので、
江戸時代に川港(赤坂港)が整備されると物資の集散地として一層の賑わいとなった。
 この賑わいは明治に入っても続き、往時は三百隻もの舟がもやっていたとも言われている。

 赤坂宿は江戸から数えて56番目の宿場。 

  下は現在の赤坂宿の本陣前周辺であり、東(江戸方向)方である。 

  同上、西方(京方向)

 

 赤坂本陣跡

 

「赤坂港跡」・・・杭瀬川の川湊

川湊の概要。右奥が川の上流方向。
杭瀬川は揖斐川の支流であるが、現在の杭瀬川本体は別の所(東方)を流れているが、江戸時代はここを流れており、周辺で産出される、石灰や大理石の積み出し港として賑わったようだ。

 

川の下流方向、木製の珍しい「火の見櫓」。

 灯台(石灯籠)と湊跡。

 洋館は「赤坂港会館」(左)と呼ぶ資料館で、赤坂町の中心地にあたる中山道と谷汲街道の分岐点に、明治8年(1875)に建てられた警察屯所を復元したもの。

 

  当地出身の「所郁太郎像」であるが、高杉晋作や桂小五郎などと共に、明治維新に活躍し、28才の若さでこの世を去った医者であったと記されている。 

 

  この後は、松尾芭蕉、奥の細道むすびの地について、書こうと思っている。

                         << つづく >>

 

 

 

 


1412 秋の長浜を行く(4)竹生島と遊覧船

2015-11-19 08:00:00 | 名所旧跡

  2015.11.13(金)、久々の”お出掛け”として、紅葉目的に長浜に出てはきたが、まだ少し時期が早く色づきもいまいちなので、紅葉はこの辺りであきらめて、目的を変えて竹生島に来てみた。

 私はここは二度目であるが、なぜか記憶に全く残っていないのと、ブログ用にとやってきたのであった。 ここに来るには遊覧船の乗船料金が高いので、 大蔵省にお伺いを立ててからの実行であることは言うまでもないこと。

  長浜港から竹生島行きの遊覧船は長浜港を9時の始発からおよそ1時間ごとに14時まで5便でており、 島で80分経過後に帰りの便に乗ることができるようになっている。 遊覧船というから仕方ないが、往復の料金が¥3070はかなり厳しい。(乗船時間は片道30分)

  乗船までには1時間近くあり、のりばの前がホテルなので、ここで昼食とした。 窓からのながめがすばらしい和食とはなったが、やっぱりホテルの飯はうまい!、高い(¥2800)だけのことはあると思ったものだった。

「琵琶湖汽船」の竹生島行き遊覧船

 

 我々が乗った遊覧船は12時45分に長浜港を出た。 下の写真手前が乗船場、後方が食事をしたホテル。

 ”別れのテープ”はなかったが、のりばの職員二人が長い間手を振ってくれたので、手を振り返さないわけにはゆかなかった。

  波静かな琵琶湖を遊覧船は竹生島に向かって白波を描き進んでゆく。 深いところは水深100mあるという、美しい我が国最大の湖を!。

 

 竹生島が目の前に迫ってきた。 この島のある辺りは最も深いところで、突き出た岩盤が島になっているとか。 地形とは不思議なものだ!。

 

 

 

  長浜港に3台の観光バスが待機していたが、そのお客さんだろうか、我々が乗ってきた船の帰り便はかなり混みそうだ。

 

 岩盤で出来ている島ゆえに、起伏が激しく、足の弱いものには、厳しそうな階段が待っている。

 

  このあと階段の下で入島料(¥400=宝厳寺、竹生島神社共通)を払い、何度も立ち止まり休み休みながら、やっとの思いで石段をあがり宝厳寺に参ったが、それは次回に紹介したい。

                          << 続 >>

 

 


1331 新装の姫路城

2015-04-08 08:00:00 | 名所旧跡

  2015.04.01(水)、計画から車の運転まで全面的に友のお世話になりながら、姫路城に来ています。 生憎と空は暗く小雨が降り続く中を、傘を広げながらの撮影行です。 こんな平日ながらも、朝早くから外国人も多く来ていました。 通常は9時”開城”ですが、今は8時から入れます。

  只でも美しく有名な世界遺産である所に、新品以上に美しく新装なった姫路城、更には”桜”が花を添えたとあらば、”猫も杓子も”とやってきたのでありました。 リニューアルオープン直後でもあり、 大勢の人が押し寄せることを予期してか、早朝から警備や案内の係員も多数動員されていました。 

”真っ白な城”、”白鷺城”そのものですが、小雨が混じるこの天候では、写真も曇りがち(?)。 折角のお化粧直しもうまく撮れず、まことに申し訳のないことです。

しかし、実物はとてもとても”きれい”です!。

 

「入城口」

  ここから入城料が必要です。 お城(天守閣を含む)だけなら¥1000ですが、すぐ隣にある好古園(庭園)との共通券は¥1040と、分かったような、分からないような料金体系になっています。 好古園の単独入場料は¥300です。

下の写真は未だ8時を少し廻った所なので人は疎らですが、11時前にはここから門の外まで長い行列になります。

 

「菱の門」

正面の冠木に木製の”花菱”が飾られていることから付いた名前だそうな。

桜の木はどこもかなり太くゴツゴツとしていて、”年期”がはいっているのも素晴らしい!。

 

 天守に向かうには、周囲をぐるりと回り、その間にいくつもの門を潜らねばならない、厳重な作りになっている。

 

天守閣に登ります。

高台に建つ高い建物であるが故に、風当りが強く、瓦が剥がれ易いために、一枚ごとに白い漆喰で塗り固められている。 その漆喰は盛り上がっているので、横から見ると瓦の黒い部分が隠され、城全体をより白くみせているとは、先日NHKスペシャルで聞いた話。 (大天守:海抜91.9m)

天守閣が入らなくても、十分”絵”になるが、こう霞んでいてはどうにもならない。

 

もっと見ていたい気持ちを抑え、友の誘導にまかせ、次の目標に向かっていった。

 

 

 


1330 新装の姫路城(城外編)

2015-04-07 08:00:00 | 名所旧跡

 2015.04.01(水)、友の車に乗せてもらい、装い新たな姫路城にやってきた。 天候が予報では”午前中は小雨、午後は曇り”であったが、明日以降もほぼ同様の雲行きであり、 桜は待ってくれないし、蕾の残る早い方が美しいとしたのであった。

 午前5時に我が家を出発して、東名阪、新名神、中国道、山陽道を乗り継いで、午前8時丁度に姫路城大手門前の駐車場に到着した。 平日の早朝でもあり、道中は渋滞もなく走れた。 また、駐車場は空車待ちを覚悟したが、早く出たお蔭で、すでに多くの車はいたが、待つことは無かった。

 但し、残念ながら、空はどんよりと暗く、小雨が降っており、傘を広げて駐車場を出なければならなかった。 カメラは使い古しで寿命が近いからいいが、最も大切な写真が満足できる状態ではないが、止むを得なかった。

 朝8時の大手門付近の車と人通りの状態。

もやっているが、桜はとても満開で美しかった。

「大手門」

午前8時過ぎは人の姿もまばら。

大手門前、午前11時頃にはここから行列が出来る。

門を入ったばかりであるが、午前11時前後には入城するための長い行列は数百メートルはゆうにあり。 なお、天守閣に上がるには、一日の入場者を15000人に制限すると言う、更に難関(?)が待ち受けているとか。

 城に入らないで、外から写真を撮るひとなどで、城外も人が多い。

 土産物店も中は身動きが出来ないほどの混雑状態。 大した食べ物はないが、食堂も順番を待たねばならない。

 

天守閣の略正面にある「イ-グレひめじ」の外観、城壁の形にしてある、市の施設。(入場は自由)

内部はこうなっており、 一階は簡易レストラン、二から五階は市の施設が入り、エレベーターで屋上に出ると・・・

真正面にお城がそびえ立つ。 目の前が大手前公園となっており、見通しがよくうまいことを考えてくれたと、市の計らいばかりではなく、友が私をここに連れてきてくれたことを感謝したのであった。 (16mm広角で撮影)

敢えて、希望を言えば、この”モヤ”を何とかしてほしかった!。 (下は300mm望遠で撮影)

 

長くなるので、ここで一休み、この後お城に入ります。

 


1258 名古屋城

2014-11-07 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.10.29(水)、本丸御殿が新装なったと聞いていたので、機会をうかがっていたが、久屋大通庭園フラリエに来たついでにと、やって来た。平日ではあったが、外国人が多いが、さすがは多くの人が来ていた。 

 

 「名古屋城」 

    入場料 ¥500  駐車料 ¥180/30min

 

 「二の丸庭園」

 

左「東南隅櫓(重文)」、右「天守閣」

 

「加藤清正石曳きの像」

 

「表二の門(重文)」

 

「本丸御殿」

初代尾張藩主の住居、政庁とするために、1615年に徳川家康が建てたが、空襲により焼失し、平成21年から復元工事をはじめ、同25年に玄関と表書院が完成し公開された。

 天然の桧をたっぷり使った、復元内部。

 

眩いばかりの出来たての御殿。

 

 

完成したのは全体の約1/3程度。総面積3100㎡の全体完成は平成30年の予定だとか。

 

「天守閣」

ここを訪れたのはいつだったかの記憶も残っていないが、入って見る。

 天守閣内に展示の実物大「金の鯱」

 

天守閣展望室より、名古屋駅方面を見る。

 

螺旋状階段の吹き抜け

 

「天下人への道」と称して、郷土三英傑を中心にした特別展が開催されている。 入場料 別途¥800。内部は撮影禁止。

 

 城の西南方向より天守閣を見る。 堀は工事中で多くはブルーシートで覆われていた。

 

この辺りで、菊の花の展示が行われているが、そどれは別途としたい。

 

 


1237 四国の旅 (3) 栗林公園

2014-10-06 08:00:00 | 名所旧跡

 私たちは昭和40年3月24日に結婚式を行い、当日、四日市から近鉄で大阪に出て、ここで一泊し、翌朝国鉄山陽線で岡山に着き後楽園をみたのであった。その後、宇野線で宇野桟橋に行き、そこから連絡船で高松に入り、屋島で二泊目としたのであった。

 今回は連絡船ではなく、瀬戸大橋を渡って車で来たが、新婚旅行と同じく高松の「栗林公園」に50年ぶりにやってきたのであった。

  入場料 ¥410  駐車料 ¥200

 

背は低いが幹は大木。枝ぶりも見事に手入れされている。よくぞここまで松くい虫などにやられないよう、消毒などがなされていることと推察する。

園は16世紀後半当地の豪族により築庭されたのが始まりとされ、1625年ころに当時の藩主により現在の公園の原型が作られた。水戸光圀の兄の松平頼重などが引き継ぎ、100年以上経過して完成した。明治に入り、新政府の所有となり、一般公開されるようになった。文化財保護法による「特別名勝」。 (園の資料より抜粋、一部編集)

 

 

「鶴亀松」別名百石松・・・とある。

110個の石ウィ組み合わせ亀を形どった岩組の背中に鶴が舞うすがたをした松を配されている。

 

 

50年ぶりに訪れたのであるが、残念ながら当時を思い出すものは、ひとつも見出すことはできなかった。・・・そんなに”上の空”ではなかったと思っているが・・・???。

 

 

 

 

水路を巡る船まであるとは知らなかった。南湖ヲ30分ほどの舟遊びができる(大人¥610)

 

建物は「商工奨励館」とある。明治時代の作らしいが、耐震化工事のため休館中。

 

 

栗林公園の外堀と高松市内の一部。

 

 栗林公園を16時35分に出て、市内のホテルに向かい、今日はこれまでとする。本日の走行距離は自宅より416Km走ったが、さほどの疲労感も感じることなく一日の予定が完遂した。

                        << 続く >>

 

 

 

 

 


1235 四国の旅 (1) 岡山後楽園

2014-10-03 08:00:00 | 名所旧跡

 ちょうど十年前に、吉野山を皮切りに、紀伊半島の南を那智山までの半周を車で見て回ったことがあり、これに味を占めて今度は四国一周をと計画をしたが、四国は道路の整備も途上にあり、効率悪く日数がかかるなどで、決行には至っていなかった。

 一方、二回目の手術が終わり、思いのほか経過が順調であるし、ブログのネタも切れたままであるので、”取材”に出るために、夏の暑さが収まるのを待っていたのであった。それならばと、急に思いつき四国行きを決意したのであった。

また、今の体調ではツアーにすると、他のメンバーに迷惑をかけるような事態が起きはしまいかとの心配もあり、また、自由気ままに行きたいところはじっくりと、興味のない所はパスするなど、気軽さでは”車の旅”となってしまう。

 しかし、この年になっての車の運転は二泊三日が限度と考え計画を根本的に作り直し、効率の悪い「四万十川」「足摺岬」は残念ながら行き先から外し、今から50年前、新婚旅行で尋ねた所を再訪する計画とした。

2014.09.29(月)薄い曇は見られるが、雨の心配はなし、5時に目覚めたので起きることにして、早速準備にとりかかった。 メダカ君達には申し訳ないが、早めの朝食をそれも二回分を食べてもらい、3日間欠食をお願いして、7時10分車で出発した。

西名阪道鈴鹿ICから入り、新名神道、名神道、吹田JCから中国道、神戸JCから山陽道(瀬戸SAで10分休憩)を経て、岡山ICを降りたのが11時10分、そのあと一般道を25分走って岡山後楽園に11時35分に到着した。(ここまでの高速料金¥6500)

四国の旅に「岡山後楽園」は?と思われるかも知れないが、新婚旅行は岡山から始まったから、今回も岡山をスタート地点としたのであった。

 

岡山後楽園正門

     入場料:一般=¥400、65歳以上=¥140   駐車料:¥200

 ここは旭川の中州であり、岡山藩主が家臣に命じて1687年に着工、1700年に一応完成。その後手を加えられたが、大きく変わることなく今日まできた。かつては、藩主の静養の場、賓客接待の場として使われてきた。明治に入り岡山県に譲渡され1934年の水害、1945年の戦災で大きな被害を受けたが、江戸時代の絵図に基づき復旧された。文化財保護法による「特別名勝」に指定された。(園の資料より抜粋=編集)

延養亭(えんようてい)

延養亭は藩主が訪れた際の居間になり、園内の景観が一望できる位置につくられている。

 

唯心山(ゆいしんざん)

園内を見渡せる築山。植木はツツジ、これが咲くころが最高の見ごろかも?。

 

廉池軒(れんちけん)

 

 

 

 

岡山城

川の向こう岸にそびえる。

 

何かのスチール写真撮影のようだ。

 

 

こんな晴れ着の子供も・・・

 

公園のど真ん中に田んぼが!!!。 「井田(せいでん)」

かつては園内に広く作られていたらしい。幕末に作られたとか。

 

この中州全体が庭園となっているが、その一部に県立博物館があったが、生憎今日は月曜日で休館日、入れなかった。

中州に渡る橋は二つあり、その一つは擬宝珠のついた和風の、ひとつは下の写真のごとくモダンな橋となっている。。

 

 

後楽園には、昼食を含め1時間30分滞在し13時5分ここを出た。この後は、一般道を40分ほど走り、瀬戸中央道の早島ICを入り、鷲羽山に向かった。

 

                       << 続く >>

    


1230 大王崎灯台

2014-09-16 08:00:00 | 名所旧跡

2014.09.13(土)天候不順な日が長く続いたが、今日は久々に青い空が現れた。その上に待ちに待った、夏の暑さが終わりを迎えたので、早速お出かけとなったのです。

今回はかなり昔になるが、訪れたことのある、三重県の西の端にある「大王崎灯台」です。 漁師町のはずれ、海産物や真珠や貝細工品を売る店が並ぶ石畳の坂道の上に灯台はありました。

 

今の灯台は昭和二年に点灯したらしいから、やがて90年海を照らし続けているという。光の色は白色と赤色を30秒ごとに代わるようになっている。 海水面からの高さは46メートルとなっているそうです。

   灯台参観(寄付金) ¥200。  年中無休。

 

下の写真の入り口から、螺旋状の階段を20メートルほど上ると、光源のある場所の到着します。

 

光源を支える部分です。この上に電球とレンズがあります。

 

下は、併設の「大王崎灯台ミュージアム」に置かれた光源の部分です。明かりは白色は25万カンデラ、赤色は5万カンデラ近くあり、18海里前後まで届くそうです。

 

光源のある部分の周囲が展望台になっており、太平洋が一望できます。 

上る前に、キップ売り場のお姉さんから、上は風が強いから気を付けてと注意を受けて上がりましたが、もう風はやんだようで、青い空と今は波静かな太平洋が輝いていおり、暫くはその美しさに見とれていました。

上の写真の右中央付近の台地は、「九鬼城址」だそうで、灯台のある台地よりは、少し低くなっていました。下の写真がその城址です。

 

「九鬼城址」から見た「大王崎灯台」です。

 

 

この後は、「わらじ祭」に沸く、神社と祭会場にまいります。

 

 


1092 近江歴史散策 (9) 五個荘

2014-05-17 08:00:00 | 名所旧跡

 2014.04.24(木)、弥次喜多ご一行”は「近江商人のふるさと」を訪ねる旅をしています。近江八幡市内の見学を終えて、今回は東近江市の「五個荘」にやってきました。

 

五個荘観光案内所に車を止めて、寺前通りを北東方向に歩きます。

金堂の街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されてますが、その理由は、「古代条里制地割を基礎に大和郡山藩の陣屋と社寺を中心に形成された湖東平野を代表する農村集落で、且つ、近江商人が築いた意匠の和風建築群の歴史的観景を保存している」とされています。

 

「弘誓寺」  真宗大谷派 

那須与一の孫の開基といわれる。本堂の主要部は1764年に完成(国の重文)、表門の瓦には那須与一の紋がはいっているとか。

側溝に咲いた花「カラー」  「花写真館」はここから行けます。

 

「浄栄寺」  浄土宗

聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を立て、これにより村の名前を金堂としたという。今もこの地を金堂という。

 

後方に立つは、「安福寺」

 

五個荘近江商人屋敷「外村繁邸」

外村茂は一時期家業を継ぎ商人となるが、文学を志し弟に稼業を託す。その後近江商人を題材にした小説などを残した。

 

「勝徳寺」  真宗大谷派

江戸時代には向かい側に陣屋があり、大和郡山藩の柳沢家の供養堂とされた。門は武家屋敷に多く使われた長屋門で、明治になって大和郡山陣屋から移築されたもの。

 

「金堂まちなみ保存交流館」

元は「中江富十郎邸」二階は明治になって増築されたとある。

 

「ハナイカダ」    「花写真館」はここから行けます。

当地で初めてお目に係ったので、早速登録させて頂きました。

 

 以上で「近江商人のふるさと」を訪ねる「近江歴史散策」を完結とします。

 

なお、この「近江歴史散策」はホームページから「ブログ索引」を経て「歴史散歩」をクリッククリックすると「後期弥次喜多・歴史散歩---近江歴史散策」にて全9編を一括掲示してます。興味のある方は、ご覧下さい。