木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

976 東海道 四日市宿 (10) 采女

2013-07-31 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道の街道筋にある旧跡を訪ねているが、今回は四日市宿の最後になる「采女(うねめ)」 です。 最初桑名宿3.8kmは歩いたが、四日市宿前半は11.5kmあったので、自転車に乗った。 四日市の中心から内部(終点)までは、マッチ箱電車が東海道に沿っていたので電車に乗って尋ね歩きました。  

しかし、ここから先は東海道に都合よく沿った公共の乗り物はないし、この辺りからは、鈴鹿峠に向って登り勾配であることから、自転車も私には無理、電動自転車も考えましたが、もし買ったとしても、万能ではないから、結局は車になってしまいました。   (撮影日 2013.07.20(土))

国道一号線が旧東海道沿いである事は、今更言うまでも無いことですが、この国道を走っていると気が付かないが、この「采女」の旧道は車でも慎重になる程の結構急な坂道(杖衝坂)があるのです。 

地図上では下の赤い線で示した所が旧東海道です。 内部川を渡る部分は今は無く、少し下流にある、国道一号線を渡る事に成ります。 丸付き数字は記事の番号と一致させています。  (取材日:2013.07.20(土))

 

 

上記地図で、①②③と示したあたりを「杖衝坂」と言います。

昔々、「ヤマトタケル」が東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体でこの坂に差しかかった際に、 「我が足は 三重の曲がりの如くして 甚だ疲れたり」・・・と言ったとの伝説がある。 これが「杖衝坂」と「三重」の由来といわれている。 なお、足が「三重」に折れたとの説は「三重村」今の四日市市県町付近との説もあり。

① その「杖衝坂」の登り口にあるのが、「金刀比羅宮」です。

 

② 「杖衝坂」を1/3程登った所にあるのが、 旧家を使った「まちかど博物館」があるが、今日は閉まっていました。

 

③ 「杖衝坂」

この坂を傷をかかえた日本武尊が剣を杖がわりにして登ったといわれています。 たしかにきつい坂です。 四日市の富田あたりで水揚げされた海産物を亀山方面まで売り歩いていたようですが、その際この急な坂を上がらねばならないので、坂の下に牛が待っていて、手押し車が5~6台集まるとそれをつないで、牛に引かせて登ったようです。

また別の資料によると、大正の終わり頃には、この坂を自動車が登りきれないというので、近隣の民家の牛の力を借りて登ったことがあるそうです。 その自動車は木炭車だったのかも?。

「永代常夜燈」は1811年建立だそうです。

芭蕉の句碑には「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と書かれています。 江戸から伊賀に戻る際、 ここで落馬したと言われており、「笈の小文」に出ているそうです。 この碑は1756年の建立とあります。

「弘法の井戸」はコンクリートと鉄で出来て居り、昔の面影はありませんが、 この二つの井戸でここを通る多くの旅人が喉を潤した貴重な存在であった事が伺われます。 

 

 

4 「采女一里塚跡」

  江戸日本橋より、101番目、つまり101里。

ガソリンスタンドと何かの事業所の狭間に立つ一里塚跡。

 距離確認や里程の目標のために設けられた一里塚。 街道の両脇に一里ごとに土を盛り、榎や松などの木を植えるのが標準的スタイルでありました。 「一里」と言っても、その頃は藩によって尺の取り方が違っていました。 だいたい36町に統一されていたそうですが、街道筋に坂道や難所があると距離を長めにとっていたり、寺社の所領地などは距離に含めないなど独特の措置がとられていたそうです。 

登り坂にさしかかると、ここはかなり長めになってるなと感じた人もいたかも知れません。

 

 「豊富稲荷神社」

 豊富稲荷神社は万延2(1861)年に山城国伏見稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神の分霊を勧請して創建されました。
 杖衝坂の上にあったので、もとは「杖突稲荷大明神」とも呼ばれていました。
 祭神としては、宇迦之御魂神のほかには、菅原道真と平景清が祀られています。
 この神社の側には昔、「土下座場」と称する石畳がありました。参勤交代で街道を通行する大名行列を、旅人たちがここで土下座をして迎えたそうです。国道1号線の拡幅工事によりなくなってしまいました。 (市の資料より)

 

⑥ 「延命地蔵尊」と「南無阿弥陀仏碑」

 

四日市宿が何処までなのかわ良く解らないが、ここ「采女」までが四日市市であり、ここの川を渡ると鈴鹿市の石薬師町、つまり「石薬師宿」と考えたので、「采女」は四日市宿に含めました。

前回の終了地点、内部駅前から、今回の上記「地蔵尊」までの旧東海道の道路距離は約2280mでしたから、四日市宿の始まり、「町屋橋」南詰めからは19.2kmとなります。 桑名宿が3.8kmだったので、合計は約23kmとなりました。 三重県内が45kmといいますから、約半分強を来たことになります。

 次回からは、「石薬師宿」シリーズになります。

                                           << 四日市宿 完 >>

 

 


972 広隆寺 (京都)

2013-07-30 08:00:00 | 京都の寺社

2013.07.18(木)、余程ご機嫌麗しく(?)突然に京都にやってきた。 何処に行くかと考えた時、名前が知られていてまだ行ってない寺と来ると、ここしかないとやってきたのが、太秦(うずまさ)にある聖徳太子ゆかりの寺である。

 

「広隆寺」  (こうりゅうじ)      真言宗(単立)  蜂岡山

   京都市右京区太秦蜂丘町32

   拝観料¥700  駐車場無料

7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。

欅の大木であるが、根元で仲良く繋がっている!。・・・・・ひこ生えが育ったのであろうか?。

「上宮王院太子殿」(本堂)

新霊宝殿には、国宝の弥勒菩薩像(国宝第一号)など多数の仏像が並ぶが、撮影は”厳格”に禁止されていた。

 

「太秦」の地名について・・・ 

昔この辺りは渡来人秦(はた)氏一族が居住し、農耕・機織り・醸造を伝えたとされる。
秦酒公(はたさけのかみ)が、秦氏の諸族とともに多くの蚕を養い、絹などを多く織り、その品々を天皇に献上した。献上された絹布や織物が山の如くうず高く積み重ねられたという。
天皇はことのほか喜ばれ、秦酒公に対して“うずまさ”の号を授けられた。いつしかその称号が地名になった。
飛鳥時代に秦氏の子孫秦河勝(はたかわかつ)が聖徳太子に仕えて仏法を興隆し、太子の菩提のために建立したのが広隆寺であり、太子の「太」の字と秦氏の「秦」を取って、太秦(うずまさ)と読むとしたと伝えられている。

                                              以上


967 東海道 四日市宿 (9) 泊 追分 内部

2013-07-28 08:00:00 | 名所旧跡

 三重県内の旧東海道の始まりは、「桑名宿(桑名市)」の「七里の渡し」であり、ここを起点にして、街道筋周辺の旧跡を辿っている。 桑名宿は、員弁川にかかる「町屋橋」までであり、橋を渡ると「四日市宿(四日市市)」となる、この四日市宿が何処までかははっきりしないので、ここでは現四日市市内を「四日市宿」として進めている。

今回の起点は近鉄内部線の泊駅のすぐ南にある「光明寺」の参道口のある旧東海道からであり下の地図右上ので示している。 なお丸付き数字は尋ねた旧跡の所在地を示し、記事の番号にしている。  なお、近鉄内部線は近い将来廃止になる可能性が高いので、ここでは名残を惜しむ意味もあって、旧跡並みの扱いとした。    取材日:2013.07.10(水)

 

① 「追分駅」

ここも無人化されているので、窓口は全て蓋をされている。

 

② 「追分の伊勢道との分岐点」  「日永の追分」

 下の写真左奥を行けば、鈴鹿、津、松阪を経て伊勢に通じる「伊勢街道」つまりは国道23線であり、右に行けば亀山、鈴鹿峠を経て大阪方面に行く東海道、国道一号線である。 その交点にあるのがこの「日永の追分」と呼ばれる県の史跡である。

中には、「道標(1849年)」や「神宮遥拝鳥居」、「常夜燈」が残されている。鳥居は最初は1773年に立てられ、その後は遷宮毎に神宮の古材を使って建て替えをおこなっている。 昔はこの鳥居をくぐって通行したそうだ。

 

この間に近鉄内部線には「小古曽駅」 があるのだが、省略させて戴いた。

 

③ 「大蓮寺」

       真宗高田派

 

④ 「観音禅寺」

      慈現山

 

⑤ 「小古曽(おごそ)神社」

 

⑥ 「願誓寺」

       米田山

 

⑦ 「内部駅」 近鉄内部線の終点

始発近鉄四日市駅から僅か5.7kmでの終点である。駅は近鉄四日市駅、赤堀駅、日永駅、南日永駅、泊駅、追分駅、小古曾駅とここ内部駅の計8駅である。

 

 「徒歩」、「自転車」での旧跡めぐりから、少し趣を変えて「電車」を主体とした今回の企画も、お世話になった近鉄内部線はここが終点、故にこれから先はブログ取材方法も変えなければならないので、第三弾は三編にして、一旦ここで締めることとした。

第一弾「桑名宿」では東海道を3.8km歩いた。 続く第二弾「四日市宿(前編)」は11.5km走った。そしてこの第三弾では、東海道を5.4km来た事になる。 この合計は20.7kmになり、県内の東海道が45kmと言うから半分近くになったと言える。

東海道五十三次の42が桑名、43が四日市、44は石薬師となっている。 どこで区切るのかわからないので、四日市宿は、現在の四日市市内とすると、四日市宿は、まだ「采女(うねめ)」地区が残っていることになる。また、采女には「杖衝坂」があるように、鈴鹿峠に向って上り勾配の道になるので、車を使わざるを得ないと思っている。                                     

この後も、行ける所まで行く、出来れば峠までと考えている。 (四日市宿(中編)はこれまで)

 

 


971 真夏に京都を尋ねる

2013-07-27 08:00:00 | 京都の寺社

梅雨が明けてから、数日は強烈な太陽光に恐れを抱くほどであったので、 外に出る事を躊躇していたが、ここ2~3日は驚くほど涼しい日があり、エアコン不要の日が結構あった。

そんなある日、前夜の「京都祇園祭」に刺激されて、急に行こうと決まった。京都なら行く所は決めなくてもいくらでもあると考え、まずは「八坂神社」に行って、祇園祭の名残でも見ようと出掛けたのであった。 

前日は7/17日であり、祭も最高潮で、凄い人出であったろうが、今日は駐車場もガラガラ。 祇園、四条通りもいつもの賑わいはあったものの、祭の雰囲気は殆ど見られなかった。

四条通りを「八坂神社」の門から見る。 

 

神社の境内も登り旗や提灯は見られるが、人出はご覧の通り。

前回訪問時の記録は・・・http://ouren33.blog.fc2.com/blog-entry-24.html

 

 

続いて、「知恩院」に入ってみるが、本堂(御影堂)は未だ工事中。 「法然上人御堂」に入って、しばし、心静かに読経を聞く。 内部は写真撮影禁止で写真はなし。

前回訪問の記録  http://ouren33.blog.fc2.com/blog-entry-26.html

   

 

そのあと、まだ蓮が間に合うと思い、「法金剛院」に来てみる。

   入場料¥500.  駐車場あり無料

上の写真下中央は、「ブルーベリー」のそして、右は「サンショ」の実。 

前回訪問記録 http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20100416

 

蓮は咲いてはいるが、花の数が全然少ないのはどうしたことであろうか?。 これでははるばる京都の蓮を見に来た甲斐がない。  

 

恐らく、専門家が付いているであろうここも、出来不出来はやむを得ない、自然現象なのかも知れない。 我が家ばかりではない事を知り、少し安心すると共に、期待に反したのでがっかりもした次第。

この後は、「広隆寺」を尋ねたが、それは次回にしたい。

 


966 東海道 四日市宿 (8) 南日永

2013-07-25 08:00:00 | 名所旧跡

 東海道の昔を忍ぼうと、沿線の旧跡を訪ねている。その第三弾第二編は四日市市の中心部から、少し南に移動した辺りを巡っている。

第一弾は桑名宿を徒歩で3.8Kmを歩き、第二弾は四日市宿の11.5kmを自転車で走ったが、第三弾は丁度旧東海道と並行して近くを走る”マッチ箱電車”を活用させて戴いている。

東海道沿線旧跡探訪シリーズとしては、少し色合いが異なるが、何年後かには見ることも出来なくなるかも知れない”マッチ箱電車”を記録に残す事を兼ねるようにしたので、毛色が変わったのだ。

いつも同じ事ながら、下の地図の”赤い線”は旧東海道であり、丸付き数字は尋ねた場所を示し、下記する記事の番号になっている。

 

① 「南日永駅」

近鉄内部線、八王子線合わせて総延長は7km、駅の数は四日市駅を含めて計9駅あり、内四日市駅と内部駅には駅員がいるが、他の7駅は全て無人駅。

その多くはかつては人がいたので、駅舎はあるが、今は用が無く下の右の写真で見る如く、窓口などは全て張り紙などで蓋をされている。何とも哀れな姿と私の目に写った。

 

 

② 「両聖寺」

      浄土宗   林光山

 もとは、天台宗の林光山西教院というお寺でしたが、住職の専阿上人と比叡山で一緒に修行した浄土宗の良忠上人が、鎌倉へ下向する途中、この寺に17日間滞在したことが縁となって、浄土教に改宗したそうです。この寺の改宗開基を良忠として、2代を専阿としています。3代の道阿上人の時に、良忠・専阿両聖人の名にちなんで両聖寺と寺号を改めています。   (市の資料より)
 

 

③ 「日永神社」

  日永神社は、昔は南神明社と呼ばれていました。明治40(1907)年以降日永神社というようになりました。建仁年間(1201-1204)頃に創建されたといわれています。天正年間(1573-1592)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失しました。その後再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。明治40年11月岡山白髭社、日吉神社、追分神明社の3社を、明治41年1月に池鯉鮒、山神、天満、事比羅、土大神の5社を、明治44年9月に稲荷社を合祀しました。

 

④ 薬師堂

 ここには市指定文化財の「薬師如来坐像(彫刻)」が保管されているが、鎌倉時代中期の作と言われており、その後、1645、1713、1866年に補修されたとの記述があるそうだ。 本像は檜の寄木造りだそうだが見る事は出来なかった。

 

⑤ 「稲垣末吉翁碑」

明治時代に東京で鉄鋼業を営み財をなし、地元に戻り地域社会に貢献された。 現在、日永の追分で湧き出る水もこの方の尽力による戸の事だ。

 

 

⑥ 「実蓮寺」

     浄土宗鎮西派

もとは四日市南高校の南の登城山麓にありましたが、承久2(1220)年に現在地に移転したそうです。
 天正3(1575)年、滝川一益(1525-86)が北勢五郡の領主に任じられました。その時に一益は実蓮寺を菩提寺として、20石の寺領を与えました。一益の母の墓もあります。

 滝川一益は、織田信長の臣で、天正2(1574)年伊勢長島の一向一揆平定後、北勢五郡を与えられ、伊勢長島城主となりました。長篠合戦や武田勝頼滅亡に功あったが、信長死後、北条氏と戦い敗れ、長島に帰り、天正11(1583)年柴田勝家方として羽柴秀吉と戦い、さらに天正12(1584)年小牧長久手の戦いで敗れ、その後は出家して越前で不遇な晩年を送りました。

 

⑦ 「西唱寺」

     浄土真宗高田派   雲祥山

 もとは安立院という浄土宗のお寺でした。永禄2(1559)年、玄聖が開きました。
 江戸時代初期に、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀上人に帰依して浄土真宗となりました。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。
 その後、昭和20年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂などが焼失してしまいました

 

⑧ 「一里塚」

  

 ⑨ 「名残の松」

 僅かに残った一本の松、街道筋の”生き証人(松)”。 いつまでも通る人々を見守ってほしいものだ。

 

⑩ 「泊駅」

近鉄内部線四日市から4つ目の駅。当然無人駅。

 

 

⑪ 「光明寺」

 

 今回の第三弾から、写真の載せ方を変えている。 今までは原則として”500×332ピクセル”の同じサイズのものとしていたが、今回からは各写真は半分程度以下に小さくして、各記事毎に一枚にまとめている。 

こうした理由は、興味が無い記事、下手な写真などと思う人の気持ちを考え、早くスクロール出来るようにした事、及び、折角多くの写真を撮ったのだから、なるべく多く掲載して情報量を増やすべきと考えたのだ。

大事な写真、自己満足ながらマシと思える写真などは、従来通りか場合によっては、一回り大きいものにしても良いと考えているのだ。 写真をコピーするなど、大きいサイズがご入り用の場合は、別途メールなどにしたいと思っている。

 

                                                << 続く >>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


969 木工細工 H25-11 自転車用カメラ機材箱

2013-07-24 08:00:00 | 木工細工

ご近所まわりなど、自転車で写真を撮りに出掛ける事が多くなって来た。撮影対象が花の場合、その時持参する機材は風景のみの場合よりも少なくても3Kgは増加する。

これを従来はカバンに入れて、肩に掛けていたが、肩への負担を減らしたいと思って、歩きの場合は車輪が付き引きまわす「カメラキャリヤー」なる物を以前造った。(その記録は下記ブログに掲載)

     http://blog.livedoor.jp/mokunen33/archives/2012-04.html?p=2#20120401

(注 livedoorのブログの場合は、正確に表示出来ない場合があります。 もしも、今回がそうでしたら、申し訳ないですが、4月1日のブログが出るまでスクロールしてください)

しかし、これは車か電車バスでのお出掛け用であって、自転車には使えない。止むなく肩に掛けたり、疲れた時は自転車のハンドルに付けた網カゴに入れていたが、ここに重量物を載せると、ハンドル操作が不安定となり、片足スタンドでは、立たせることが出来ない(自転車が倒れてしまう)。

そこで荷物は後の荷台に載せるための箱を木で作ったのである。 もともとこの自転車には荷台は付いてなかったので、新たに購入して取り付けた。 

 

木工作品 No13-16 

言ってみれば、単なる箱でそれに仕切りとクッション材を張り付けただけの極めて簡単な構造である。 用材は12厚×150幅の板で箱を、蓋は9厚×120幅の檜板など全て在り合わせの材料部品で作った。

搭載する機材としては、風景、スナップ、それに花などの近接撮影に限定した物として、①カメラ本体、②18~270mmレンズ、③60または90mmマクロレンズ、④マクロ撮影用リングフラッシュ、⑤予備の電池2種とメモリ-、偏光フイルター2種が入る設計とした。

 

カメラ及び予定の機材を入れるとこうなる。  

 

これを自転車の荷台に載せ、太めのカギ付きゴム紐一本で、四辺に付けた出っ張りと荷台にゴム紐を引っ張り加減に巻きつける。 また、三脚持参の場合は、座席と荷台の間に挟み込むことで簡単に固定できた。

使ってみると、肩への負担は当然ないし、自転車の安定度も上り、カメラ機材の出し入れも簡単になるなど、予想通りの結果が得られた。

これにて一件落着と相成った次第。

 


965 東海道 四日市宿 (7) 赤堀 日永

2013-07-22 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道筋にある旧跡を訪ねているが、その第一弾は「桑名宿」を徒歩で見て来た。そして第二弾は「四日市宿」の北の入口たる「町屋橋」から、中心部の「鵜の森神社」「浜田城址」までは距離があるので、自転車にて回った。 

 梅雨明けからは、強烈な太陽光が降り注ぎ始めたので、”後期野次喜多”にとっては自転車は危険だと躊躇していた所、地図を見るとこの辺りは、旧東海道と近鉄内部線は最も離れてる所でも300m程度であり、今度は電車で回るも一案との友の案に乗った。

経営が楽でない近鉄にとっては、廃止したいと考えているようであり、もし廃止となれば、記録を残すチャンスでもあるので、東海道に沿ってる「内部線」は全駅(7駅)を撮ることにした。 なお、存廃問題については、後述したいと思っている。

下の地図で、赤い線は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた所であり、記事の番号である。 なお、尋ねる旧跡は三重県環境生活部が出している、「みえ歴史街道・東海道」に記載されたものとした。  取材日:2013.07.08(月)

  

 

① 近鉄四日市駅

左の写真は駅への入口であり、右の写真はそのプラットホームである。なお、同じ近鉄ながら、名古屋線、湯の山線への乗り継ぎのためには、別の場所になるために、改札を一旦出無ければならい。ここ四日市駅と終点の内部駅以外は全駅無人化されてるが、大きな不正乗車は出来ない構造になっている・・・とか。

 

② 「赤堀駅」

ここは最初の駅であるが、走行距離は約1km、僅か3分程の乗車である。運賃は全線7km乗ると¥220であるが、ここまでは¥170であった。 また、時刻表を見ると、内部線も八王子線も毎時2本の電車が出てるから、ここと次の日永駅、四日市駅は15分間隔での運行となっている。

駅舎の撮影をしていたら、丁度近所のおばちゃんが通りかかって、「この電車私も好きなんです」と言い、無くなる事には反対の意向であった。 小さくて可愛い電車として、愛着もあるのかも?。 金儲けがしたいばかりに、一時は電車のボデー全面にケバケバしく、地元企業の広告を塗装をした車両があったが、無くなってほっとしたのも束の間、今度は廃止論が本格化してきたもんだ!。

 

③ 地蔵さん

駅から少し戻った所にあった。しかし、見ると地蔵さんが家の軒下を借りてるように見えるが、実際は逆ではなかろうか?。

 

④ 「日永駅」

四日市駅から二つ目の駅である。ここはもうひとつの路線「八王子線」との分岐駅である。 

なお、八王子線はこの後「西日野駅」がひとつあるのみである。 昔はもう一つ先に「八王子駅」があったが、水害で大きく壊れた時に「西日野」で打ち切りとなってしまった。八王子の駅は無くなったが、線の名前は残したようだ。 よって、八王子線の駅は四日市、赤堀、日永、西日野の4駅となってしまったんだ。

 

⑤ 大宮明社

鎌倉時代は少し離れた所にあったが、永禄五年この地に還る。祭神は伊勢神宮と同じ。古来諸国より、病気平療祈願に訪れる人が多いと言う。

 

「道標」

 

 

⑥ 「大聖院」

 

 この寺も県の資料に載せられているが、写真はおろか入場さえも拒否された。

 

⑦ 「圓楽寺」

 

⑧ 「興正寺」

     浄土宗高田派

室町時代に高田専修寺の真慧の布教によって浄土真宗高田派に改宗しました。その後、堯慧上人の時代、天正3(1575)年に滝川一益が寺領を寄進し、諸役を免除するという文書を出しています。
 現在の山門は寛文9(1669)年に建立されたもので、市内に残る山門の中では最古のものだそうです。本堂は宝永5(1708)年に建立されました。   (市資料より)

 

 寺に咲いてた花

 

 

「マッチ箱電車」  近鉄内部・八王子線物語

この鉄道は大正元年(1912)に開通し、当時は蒸気機関車で走っていたようです。昭和初期にガソリンカーになり、昭和18年に電化されたようです。 レールの間隔が762mmで、今や我が国では、三岐鉄道と黒部峡谷くらいにしか存在しない、特殊軌間軌道であり、カーブが半径100mであるために、最高時速が20Km/hしか出せない、まさにマッチ箱電車なのだ。

以前は湯の山線も同じく狭軌であったが、伊勢湾台風の復旧工事にあわせて、名古屋線と同じ軌間となったし、寂れたとは言え温泉や御在所岳があるから、廃線の声は高くはないが、ここ内部線は、観光施設は皆無、早く走れない、総延長7kmと大変に短く、大きな工場も沿線には無いなどなど、廃止したくなる近鉄の気持ちも解らなくは無い。 資料によると毎年3億円弱の赤字で、際限のない補助金投入が要としている。

近鉄は鉄道を撤去して、「バス高速運送(Bus Rapid Transit)」としたいとして、初期費用の公的補助を求めると共に、地区住民の理解を得ようとしており、近鉄が決めたその方向性決定の期限は今夏としている。

 

私自身は今回この”取材”のために載ったのを含めても、この路線には2~3回しか乗ったことも無いし、乗る用は今後も思い浮かばない。 私は湯の山線沿線の住民であり、この電車に乗るのは年に1~2度しかないが、やはり無くなるのは困ると思う。電車が専用バスになり利便性があがるのなら、止むを得ないと思うが、利益最優先の企業論理が見え隠れするが、さてどうなることだろうか・・・・?。

            

                                          << 続く >>

 

 


968 庭の花 H25-19(122~126)

2013-07-20 08:00:00 | 我が庭の花

梅雨が明けたとたん、猛暑がやってきた。 老人にとってはこの有難いはずの太陽光が”殺人光線”に思える。 水分補給と休養睡眠を充分取り、危険を回避中。 クワバラクワバラ・・・・。

 

 「スイレン」 (ミニ)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/suiren.html

原因はさぱり解らないが、今年は例年になく、早くから咲き、且つ花の数が多いのは、大変嬉しいこと。そう言えば昨年末の施肥を忘れた事を思い出した。 ”今年は肥料をくれないと来年は咲かないよ”との意思表示かも?。

E02338(No110)

 

「ハス」  (チャワンバス)

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hasu.html

手術後重い物を持てなくなったことと、腰の痛み再発を避けたくて、大きな鉢を使う「ハス」は植える事を止めると決心したものの、せめて「チャワンバス」だけはと、期間限定も視野にひと鉢だけ植えたもの。来年は無しにと考えてるが、思い切れる自信はない・・・・・・。  

E02977 No122

 

「コウホネ」

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kouhone.html

花の数は多く無いのがこの花の特徴。 思いだしたようにこうして、夏中時々顔を見せてくれる、有難い花ではある。

E02343(No88)

 

「キキョウ」

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kikyou.html

今年威勢のいいのと、さっぱり咲かないのと在る中で、 例年に増して良く咲くのがこの「キキョウ」だ。 ありがとう!。

E02505 No123

 

「ナンテン」

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/nanten.html

こんな花まで載せるな!、との声はごもっとも。 申し訳ないが今は”庭に咲く花の数を計測中”なのです。ご容赦を!。、

E02346 No124

 

「マルバアサガオ」

     「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/marubaasagao.html

我が家には美女が多いが、その一人がこの濃いピンクが眩しい「マルバアサガオ」であります。 お見知りおきを!。

E02974(No96)

 

「シロタエギク」

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sirotaegiku.html

がっちり玄関先を彩る、年中うつくしい”白妙”のキク様であるぞよ。

 No125

 

「センニチコウ」

    「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sennitikou.html

ちょっと幻想的な写真になったと思うのは、撮影者だけであった!。

E02979(No120)

 

「アサガオ」

    「花写真鑑」 未登録

今年は朝顔を数種類植えたが、まだオールキャストにならない、取りあえずの3種。 あせらず、もう少し待とうではないか!。

 (No119)

  

「オシロイバナ」       本ブログ初登場

    「花写真鑑」 未登録

昔からある、極めておなじみの花ではあるが、「花写真鑑」登録用にと、昨年末に種を買い、早くから咲き始めたものの、朝起きて見ると下の写真右の如く既にしぼんでいる。 2013.07.13同様に見てまわると、初めて開いた花を発見、しぼまない内にと撮ったもの。この他に黄色、桃色があるが、開いたのは見た事がないのである。 朝の早い「ハス」よりも厳しくて、もっと早く起きないと見られないのかも知れない(?)。 文献によると、夕方咲くから”ユウゲショウ”と言う向きもあるようだが、我が家では未だ見ていない。

 No126

 

夏ってこんなに暑かったのかと、今更ながらに知らされた感がある今日、 ”熱中症要注意”真っ最中です。 TV報道の数の一員にならないように気をつけましょう。

 

 


964 木工細工 H25-10 自転車運搬具

2013-07-18 08:00:00 | 木工細工

 先日来、「東海道・旧跡めぐり」と称して、旧東海道の沿線に今も残る、旧跡を訪ねあるいている。 桑名宿は3.8KM程であったから、徒歩であったがその歩数は一日の合計ではあるが、14450歩であった。 後期野次喜多にとっては、これが歩きの限界でありました。

桑名宿の次は四日市宿となりますが、旧跡のある場所が桑名よりはまばらであるために、歩く距離が長くなるし、また、効率を上げるためにと自転車の活用を思い立った。 幸にして、私の自転車は折り畳み式、しかも車はライトバンなので、近くまで車で行き、そこからサイクリングとしたのです。

私の自転車は十数年前のもの、しかも安物であるために、かなり重い。三つに折り畳んで車に載せるのは、重い物を持てない私にはかなり厳しい。そのために、力を少なくして車に載せる事と、この載せ、降ろしをすばやくやるために、自転車の折り曲げを少なくしたいと考えたのです。

車の内部高さが950mm故に、ハンドルのみ折り畳み、台に載せて、自転車を立てたまま台に載せて、台ごと滑らせて車に載せる事で、大きな力が不要となり、折り畳み回数が減ることになった。 そういう目的で作ったのが下に示す台枠なのです。

台枠は試作の意味もあって、在り合わせの材料を使い、出来る限り軽いもの、着脱が簡単な構造をモットーに作った。 そして、自転車の前輪は90度曲げる事で、全長を短くすると共に、前後に動きにくくなるようにした。そして固定はカギの付いた3本の太めのゴム紐を使い簡単な着脱を狙った。 

木工作品  No13-14

私の車は、木工に使う全長2m以下の材木を載せられるライトバンを目指して買ったもので、車は小さいが長めになっている。乗用で使うと7人乗れるが、後ろの座席を伏せて、中間の座席を少しだけ前に移動すると、その後部には1100~1450mmのスペースが出来る。

7人乗りで走った事は殆どないので、車には荷物を載せるために、枠が常に取りつけてある。これは以前にも紹介したので、詳細は下記を参照してほしい。

    http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081214

この枠の目的は、車の内部の汚れや痛みを保護しているが、今回はこれを自転車の固定と、載せるための”すべり台”として使おうと言うものです。

自転車を積み込む時は、下の写真のごとく、台を車に立て懸ける。

今回使う、三つ折りの自転車(20インチ)

先ず、ハンドルを折りたたみ、前輪を90度曲げる。

自転車を持ち上げて、前輪を枠にはめ、次いで後輪を溝にはめ込む。 この状態ではやや傾くが倒れないような寸法にしてある。 そして、短いゴム紐2本で自転車を台に固定する。 スタンドが突っ張っているから少なくとも左方向への傾きは無いようになります。

次に、自転車の後部を台枠ごと持ち上げ奥まで滑らせる。自転車の後部がぎりぎり後部ドアに当たらないいで、ドアが閉まる事を確認して、もう一本のゴム紐で既設の枠に固定すれば完成である。前後に動いたり、後部ドアに当たるようであれば、真ん中の座席の位置を前方に少し動かして調整する。 こうして前後に動く寸法を最小にします。

 

「東海道・四日市宿・旧跡めぐり」はこうして自転車を運び、富田に車を置いて、自転車にて総延長23Kmのチャリンコツアーを決行したのでありました。 当初、ゴム紐では安定性を疑問視し、固定用の紐を準備したが、ゴム紐だけで自転車の運搬には何ら支障はありませんでした。

しかし、何十年振りかの自転車走行は足への負荷が大きく、帰宅後足のケイレンが起き、痛み回復に一週間要したのは意外でありました。 この事で、体力の低下が一段と進んでいる事を再認識させられ、今後のツアーの参考にしなければと感じた次第です。

                                                   以上

 


963 正眼寺 の花

2013-07-16 08:00:00 | 花一般

この記事は、自転車による「東海道旧跡めぐり」を実行する前に撮ったものです。 (撮影:2013.06.18)

我が家では自転車など、物置きの奥で埃をかぶっていましたが、最近になり自転車で旧跡めぐりをやろうとの友の提案があり、歩くよりも運動としては効果的でもある事から、足を慣らす積りで、カメラ持参で近隣を自転車で回って見たのでした。

この辺りでは珍しく、多くの花が植えられている、「正眼寺」に来てみたのです。 なお、お寺については、以前ハイキング時に来ているので、こちらを参照して欲しい。

    http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20090510

 

では、日頃あまり目にしない花を主体に紹介します。

 「ルリギク」 or 「ストケシア」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/rurigiku.html

 「カワラナデシコ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kawaranadesiko.html

 

「イワタバコ」   本ブログ、「花写真鑑」初登場

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/iwatabako.html

 

「トケイソウ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/tokeisou.html

 

「エノテラアフリカンサン」      本ブログ、「花写真鑑」初登場

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/enoteraahurikansan.html

 

「ザクロ」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/zakuro.html

 

「キンシバイ」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kinsibai.html

 

「ヒメケマンソウ」 or 「アメリカコマクサ」  本ブログ、「花写真鑑」初登場

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/himekemansou.html

 

「ヤマアジサイ」  

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/yamaajisai.html

 

上記の他に咲いていた花は、「アジサイ」各種、「ガクアジサイ」、「ヒメイワダレソウ」、「スカシユリ」、「ミヤコワスレ」、「ヒルザキツキミソウ」、「ゴテチャ」、「アッツザクラ(白)」、「シモツケソウ」、「クレマチス」、「ムシトリナデシコ」、他数種類と、お寺としては珍しく多いので、私には大変有難いこと、これからも度々見せて戴きたいと思っています。

 


961 東海道 四日市宿 (6) 諏訪 浜田

2013-07-14 08:00:00 | 名所旧跡

2013.06. 23(日)、”第二弾・後期野次喜多・東海道旧跡を巡るツアー”は四日市宿の半分位を通過し、第六編は四日市市の繁華街周辺を紹介します。

 下の地図の赤い線が旧東海道であり、この道を忠実に自転車にて見て回りました。 なお、見難いが青い丸付き数字は尋ねた場所であり、下の記事の番号になっています。  国道一号線を過るあたりは、旧東海道が消えてなくなっている事を示しています。

 

  

① 「諏訪神社」

昭和11(1936)年2月9日、この諏訪神社で若い軍人が結婚式を挙げました。
 軍人の名前は坂井直。27歳の陸軍歩兵中尉。花嫁は陸軍航空兵中佐平田辰男(明野陸軍飛行学校材料廠長)の長女孝子、20歳。結婚式終すぐに坂井中尉夫妻は上京し東京の麻布に新居を構えました。普通ならこれから幸せな新婚生活が始まるのでしょうが、坂井夫妻の場合は異なっていました。
 坂井中尉は明治43(1910)年8月13日、三重郡桜村(現四日市市桜地区)で陸軍少将坂井兵吉の次男として生まれ、幼少の頃より厳しく育てられ忠君愛国の精神を叩き込まれました。昭和7(1932)年陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉として東京麻布の歩兵第三連隊に所属します。同連隊所属の安藤輝三大尉の指導を受け彼の国家改造思想に傾倒し、青年将校運動に参加するようになりました。
 2月26日夜、坂井中尉は、二・二六事件で安藤大尉ら青年将校と共に決起し、斎藤実内大臣襲撃を決行しました。7月12日他の同志とともに死刑に処せられました。
 坂井中尉は事件前の2月22日から週番勤務につき連隊に駐在していました。坂井中尉が最後に妻に会ったのは27日早朝。何も知らなかった妻に事件を報道した新聞号外を見せ、再会を約して去って行きました。夫婦として実際に顔をつきあわせていたのはわずか15日間でした。

私の近くにもこんな立派な人がいたとは、誇りに思います。しかし、軍人の厳しさ、残酷さを改めて知る思いです。

この「諏訪神社」の裏は諏訪公園となっており、古い洋館の建物などもあるが、それらは以前紹介しているので、そちらを参照してください。

      http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20091229

 

② 「ライオン通り」

近鉄電車がこの少し手前で急カーブをして、国鉄四日市駅の側を通過してた時代は、この辺りは「四日市連鎖街」と読んでたはずですが?。

ここも旧東海道です。

この後、アーケードを出て、近鉄とJRを結ぶ四日市のメインストリート(中央通り)を横切り、浜田へと向います。 

 

③ 「二羽文雄生誕地」

今は寺ではなく、幼稚園になっていて、この右側に建物がありました。

梵鐘もご覧の通りで、洗濯物干場と併用してます。

 

④ 「鵜の森神社」

ここは東海道からの参道です。 上を走るのは、近鉄名古屋線で左は津、伊勢方面になります。

 

⑤ 「浜田城址」

 

この前のブログの終点「菰野道の起点」から、今回の終点「浜田城跡」までの距離は、約1.1Km、第二弾の起点「町屋橋」南詰めからは、約11.5Km、旧東海道三重県の起点となる桑名宿「七里の渡し」からは、約15.3kmであり、また、三重県内の旧東海道は全長45Kmあると言うから、その約1/3を来たことになります。

なお、今日の自転車走行、つまり、第二弾の全走行距離は、上記の往復となるために、合わせて約23Kmを走ったが何十年振りかの自転車長距離走行のため、疲労は著しく、家に帰ってからでよかったが、足の筋肉がケイレンを起こすなど、激痛を味わった。 

この後、東海道野次喜多道中記を続けたいが、少し足を休める事と、電動サイクルの活用など、今後の対策を練るために、四日市宿は途中ながら、一旦筆(マウス)を置くこととします。

                                        << 第二弾 完 >>  


962 庭の花 H25-18(118~121)

2013-07-12 08:00:00 | 我が庭の花

今年度我が家の庭の花シリーズも18編を数えるに至った。我が庭の福大統領の「スイレン」は紹介済みであるが、正大統領の「ハス」はやっと花芽が上がってきたばかり、しかし、この間新しく咲いた(公開した花)は本ブログをもって121種にの至った。

 

「ストレプトカーパス」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sutoreputoka-pasu.html

つい最近、花が付いた状態で、ご近所から頂戴したばかり。前にも戴いて2~3年は咲かす事が出来たが、いつしか消えて行く、我が家は居心地が悪いらしい(?)。

E01990

E01979 No118

 

「マルバアサガオ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/marubaasagao.html

昨年植えていた「甕」を放置しておいたら、一年草のくせに芽が出て花が咲いている。多分、種が落ちてそれが育ったものであろうが、肥料などやった記憶はないのに、美しく可愛い花を咲かせてくれる、何とも生命力あふれる花だ。 これは「アサガオ」の原種と言うが、正にそれを物語っていると思う。

E01966(No96)

 

「アサガオ」

  「花写真鑑」 未登録

E02286 No119

 

「スイレン(ミニ)」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/suiren.html

E01992

「スイレン」 (ミニにあらず)

葉は存分に育つが、花の数が少ない、日照ないしは肥料不足かも?。

E01996(No110)

 

「ギボウシ」

  「花写真鑑」   http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/gibousi.html

今年は何故か、「ギボウシ」各種が花を付けてくれた。

E01969(No112)

 

「センニチコウ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sennitikou.html

E02000 No120

 

「エンジェルラベンダービッグスノー」 (商品名)

  「花写真鑑」 

E01972(No105)

「エンジェルラベンダービッグラズベリー」 (商品名)

  「花写真鑑」 

E01973(No105)

 

「ハツユキカズラ」  本ブログ初登場

  「花写真鑑」 未登録

E02001 No121

 

「ハナショウブ」

  「花写真鑑」

E02291

E01976(No99)

 

花に興味の無い方々には大変申し訳ないが、花はまだまだ続きます。ご了承のほどを!。

 

 


960 東海道 四日市宿 (5) 三ツ谷 北町

2013-07-10 08:00:00 | 名所旧跡

旧東海道筋の旧跡を訪ねて、桑名宿の「七里の渡し」(東海道三重県内の起点)から、初めは徒歩、桑名を出て、四日市に入ってからは、自転車に変えて巡っています。

四日市に入っての第5編は、四日市市三ツ谷から北町までを紹介したいと思います。 下の地図で、 赤線は旧東海道であり、丸付き数字は尋ねて写真を撮った場所を示し、下記の記事の番号にしています。 

 

 

① 「多度神社」

 明治18(1885)年2月、桑名郡多度大神を勧請し、東阿倉川村一里塚跡に作られました。東阿倉川の一里塚は、海蔵川の堤防の敷地にあったそうですが、現存しません。明治40(1907)年、海蔵神社に合祀されましたが、その後、三ツ谷町の発展に伴って、昭和10(1935)年、分祀して再び多度神社が建立されました。

 

② 「海蔵川左岸」

 海蔵川沿いの小公園には、昔、加納藩の郷倉がありました。この郷倉の北西隣には加納藩の陣屋があったそうです。
 加納藩は、三重郡内では東阿倉川・西阿倉川・芝田・貝家・北小松各村を支配していました。藩祖は川吉宗の側用取次だった加納遠江守久通です。享保元(1716)年、吉宗が征夷大将軍になると、紀州藩士だった加納久通は、三重郡内に千石の所領を得て、その後どんどんと加増されて享保11(1726)年には一万石の大名になりました。最終的には一万三千石です。

この道が旧東海道ですが、堤防にぶち当たりますが、昔はここに橋があったのです。なお、現在はこの右(北側)に国道一号線があり橋は「海蔵橋」と言います。

 

 「海蔵川右岸(南詰め)」

この正面に橋があったようです。左の端は国道一号線。

 

③ 「三滝川」

「海蔵川」から700m位の所に「三滝川」があります。正面の先はは海ですが、今は埋め立てられて、かつては悪名高き公害の元「四日市コンビナート」です。

下の有名な絵は、上の写真のやや手前から書いたのでないかと言われているようです。

昔はこの橋から1200m位が海岸線だったので、船の穂先が見えていますが、その代わりに今はコンビナートの煙突が立っている・・・とは友の言葉でした。

④ 「なが餅」

四日市名物の「なが餅」ですが、先に紹介した「安永餅」とどこが違うのか、どっちが美味しいのかは永遠の謎かも?。

 

今はこの店の物がよく売れているようです。

⑤ 「建福寺」

     宗洞宗

 応永年間、諸国行脚中の竺堂了源が三滝川畔のこの地に草庵を構えたのが始まりだそうです。その後、浜田城主赤堀氏の菩提所となり、その庇護により発展しました。赤堀氏滅亡後も3万坪の敷地を有する大寺院として栄えました。
 竺堂在世当時より建福寺には禅僧が多く修行に来ており、境内には修行僧のために学寮が設けられていました。第二次世界大戦前までは雲水の修行道場として有名だったそうです。
 安政の大地震で本堂・庫裏が倒壊し、明治10(1877)年再建されましたが、その後明治38(1905)年火災に遭い、昭和20(1945)年の四日市空襲で建物や什物、古文書などを失いました。境内には泗水の井戸が残されています。この井戸は四日市の雅号を「泗水の里」と呼んでおりますがその由来となりました。その他、芭蕉句碑安政元年震災惨死者之碑、仏涅槃図(室町末期)があります。

その井戸は非公開なので、見ることはできなかった。

 

⑥ 「本陣跡」 四日市宿陣屋(四日市代官所)

四日市町は江戸時代1724~1801年を除き天領(幕府領)であった。江戸時代を通じ幕府の支配拠点としてこの地を移動することはなかった。建物の詳細は不明であるが、明治9年の伊勢暴動の際全てを焼失した。

 

⑦ 道標

 このあたりは、戦国時代には、南市場と称して市場町として栄え、江戸時代に入ると東海道の宿場町として栄え、寛文3(1663)年に南町と改称したところです。
 この道標には、文化7(1810)年の年号が刻まれていますが、これは戦後再建されたものだそうです。

写真の左右が旧東海道であり、今の国道一号線は写真右奥に見える道であり、右の道は一号線を縦断して「菰野道」に続きます。 道標は菰野道の起点を示すものとして、古くからあったものを、造り変えたようです。

 

今回紹介した場所がかつては四日市の中心であったようですが、「後期野次喜多」はこれから今の四日市の中心地(諏訪~浜田、鵜の森)に向います。 その記録は次回にします。

 今回の記録は羽津の「光明寺」から「菰野道」起点まででですが、その凡その距離は2.3Km、第二弾のスタート地点「町屋橋」南詰めからは、約10.4Km、よって、三重県の旧東海道の起点桑名宿の「七里の渡し」からは、約14.2Kmとなります。

 

                                            << 続く>>

 


954 ブルーボネットに咲く花(2/2)

2013-07-08 08:00:00 | 公園の花

2013.05.31(金)、名古屋の港にある、「ブル-ボネット」 に始めて訪れた所、沢山の花がありまた、私には始めて見る花が多く、その殆どを撮ったので、その一部(見慣れない花中心)を二回に分けて紹介している。

ブルーボネットの概要については、数日前に紹介しているのでこちらを参照願いたし。

       http://blog.goo.ne.jp/mokunen33/d/20130624    

 

「 ヘメロカリス」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hemerokarisu.html

「ユウスゲ」「ノカンゾウ」の仲間であるが、園芸品種だそうだ。

  

「バコパ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/bakoba.html

 

「テマリシモツケ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/temarisimotuke.html

この花をアップで撮りたかったが、近づけず望遠を精いっぱいのばして撮ったのがこれ!。だから、花の詳細は未だ不明。 

 

「ラムズイヤー」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ramuzuiya-.html

 

「ハルザキグラジオラス」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/haruzakigurajiorasu.html

これがグラジオラスの仲間と言うのも以外ではあるが、誠に珍しい形と模様の花である。

 

「ラミウムマクラツム」

  「花写真鑑」 ttp://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ramiumumakuratumu.html

「ホトケノザ」とそっくりな咲き方をする。観葉植物として流通しているようだ。

 

「ワトソニア」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/watosonia.html

 

「ハナゾノツクウバネウツギ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hanazonotukubaneutugi.html

垣根などに白いはなのは良く見るが、ピンクはあまり見ないので載せた。

 

「リシマキミッドナイトサン」

「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/risimakiamiddonaitosan.html

 

「メキシコハナヤナギ」

 「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kufea.html

 

  

「ヤナギトウワタ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/yanagitouwata.html

 

「ペンステモン」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/turiganeyanagi.html

 

「ニーレンベルギア」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ni-renberugia.html

  

「ハナカタバミ」

  「花写真鑑」 未登録

「カタバミ」や「オキザリス」と花は殆ど同じに見えるが、葉も茎も全く異なる。

 

 

トイレに入って、正面を見たら、心に響く言葉があったので、原文のまま下記します。

今から100年ほど前、岡倉天心は花について・・・「原始時代の男が自分の恋人に始めて花を贈ったとき、「けもの」から「にんげん」になった。そして、人間が生きて行く上で、役に立たない」と思ったものが不思議に役立つことを発見したとき彼は芸術の世界にはいった」・・・と述べています。

つまり、人間が他の動物と分かれて、人間らしい豊かな感性を持つようになったきっかけは花であった、というわけです。今日、この真偽を検証することは困難ですが、20世紀は「植物そして花が人間を変える」という多くの事実。例えば喜び、悲しみなど人間の感情を伝えるメッセージ機能、あるいは心や身体の癒し効果などが発見された世紀でもありました。

  

 花の紹介は以上ですが、「花写真鑑」に載せる目的で訪れているために、ここに掲載した花としては、日頃あまり見慣れない花が中心となっています。 よって、ここに紹介した意外に沢山の花が咲いていることを付け加えておきたいと思います。    

                                              以上                                 


959 東海道 四日市宿 (4) 茂福 羽津

2013-07-06 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道筋の旧跡を訪ねた記録を掲載しているが、その第一弾は「桑名宿」であったが、第二弾は「四日市宿」と称して、四日市市の北の端「朝日町」の「町屋橋」南詰めをスタート地点として、今度は自転車で巡っている。その4は、茂福地区から羽津町内を紹介を紹介します。

 下の地図で、赤線は旧東海道を示し、丸付き数字は下記する記事の番号を尋ねた順に示しています。

 

① 「常照寺」 

      浄土真宗本願寺派

 

 

② 「力石」

明治の中ごろ、寺を再建するに当たり、各所から石の奉納があり、近郷から多くの人が集まった。 その時休憩寺にこの石を持ち上げて競い合ったと伝えられる。 その後、地区の若衆がこの石で力比べをし、大正の終りまで続いたという。 重さは120Kgほどで、担ぎ揚げた人は幾人もいなかったようだ。 左下の小さいのは19Kgほどで、子供用だろうか?。

「新設用水道碑」についてはよくわからない。

 

③ 「證圓寺」

     浄土真宗本願寺派 林光山

 

 

④ 「茂福神社」

1421年には存在したらしい神社である。

 

⑤ 「常夜燈」

伊勢参宮の旅人のために、明治35年建立された。

今から64年前、私は12才になっていたが、恥ずかしながら自転車に乗れなかった。 田舎では乗らなくても不自然では無かったが、この地に来て見ると多くの子供達が乗っているのを見て、乗れないのは恥ずかしく感じ一念発起して練習をしたのが、この場所であった。 この頃ここらは両側に太い松並木とこの常夜灯しかなく、辺り一面田んぼであり淋しい所であったが、今思えば懐かしい場所である。

 

⑥ なつかしき「羽津町八田(やあた)」

私の子供の頃は、三重県北部を主に山間部を転々と住所を変えていた。短い時は3ヶ月しかいなかった場所もあるが、当地(羽津)では小学5年の2学期から、中学卒業まで住んでいたので、最も長く住んだことになり、友達も多く、私のふるさととも言える地なのだ。

下の写真は同級生が住んでいた家で、昔の姿で建っていたので撮らせてもらったが、この辺りで”カン蹴り”や”カクレンボ”をして遊んだ事を思い出す。 夕方近くになると、拍子木や笛が鳴って”紙芝居”のやってくるのが楽しみであった。 出し物の一番人気は「片目の虎」であったが、飴玉や塩昆布を貰うのがとても嬉しかった。

夏場は”チリンチリン”と鉦をならして「アイスキャンデー」売りが自転車でやって来たし、「トコロテン」売りも来た、小麦やトウモロコシを圧力容器で加熱、耳を塞いでこわごわ見てると、「パッカーン」と音がして、古新聞紙を丸めた入れ物で売ってくれたものだ。

下の写真は、その当時の臭いや音が私には聞こえる家である。

この道は、おばあさんが編んでくれた、「わら草履」や、雨の日は「アメゴムの靴」を履いて小学校に通った道であるが、当時を思い起こすものは見当たらなかった。 アスファルトを掘り起こせば私の足跡が残っているかも知れない。

 

⑦ 「残った松」   「かわらずの松」

この松は、樹齢二百年と推定され、江戸時代からここにあり、多くの旅人が見て来た木である。 私がここを通る頃は、この辺りに10本近くはあったと思われるが、今残っているのは、これと日永地区の2本のみだと言う。 是非長く生きて欲しいものである。

 

⑧ 「志氏神社」 (しでじんじゃ)

羽津大宮町にある神社です。もともと4世紀末に築造されたといわれている前方後円墳があったが、現在は前方部がなくなっており、後円部(高さ6m、直径30m)が残っているだけです。神殿のうしろにあるのがそれです。
 神社には古墳の出土品や志野焼の狛犬一対が保管されています。

この神社のすぐ左奥に私の通った小学校がある。ここから東方(手前方向)に延びる参道に沿って小さな川があり、今も水は流れている。 ある日の下校時この川で黒い大金の入った”がまぐち”を拾った事が私のカメラ歴の最初を飾ると以前のブログに書いたので紹介したい。

  (1) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080327 

  (2) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080329

  (3) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080330

 

⑨ 「光明寺」

    浄土真宗本願寺派

 ここに幕末、村民のために桑名藩と闘った羽津村組頭森多三郎が葬られています。
 文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命令しました。これを阻止しようと、羽津村組頭であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗した結果、藩は年貢の増徴を断念することになりました。
 その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされました。多三郎は帰途につきこの光明寺までたどり着いたところで死亡しました。

この寺の住職は、秀才の小学同級生である。

 

この辺りで、第二弾第四編はお終いとしたい。この後は三ツ谷から北町周辺を紹介する予定。

 第三編の終点「薬師寺」から、当編の終点「光明寺」までの旧東海道の距離は2.1Km、故に、今回(第二弾)のスタート地点の「町屋橋」南詰めからは8.1Km、三重県内の東海道の起点桑名宿「七里の渡し」からは11.9Kmになる。

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