先日、長い間飼っていたメダカの最後の一匹が死亡し、これで漸く私のメダカの歴史に終止符を打つことになたので、過去のいきさつなどを、書いておこうと思う。
会社を首になったのが、65歳であったが、色々な趣味に没頭していたが、中でも、花を中心とした植物に凝っており、中でも水辺の植物に特別な感情を持っており、「スイレン」を手始めに、「ハス」「コウホネ」や「ヘラオオダカ」「アキタアシ」などまで植えていた。
植物の多くは、植木鉢に植えていたが、水辺の植物は全て水槽に植えているために、植えて一週間もすると、ボーフラがぴんぴんと跳ねていたので、その対策を兼て鉢にメダカを飼ったのが、その始めであり、最初に飼ったのは多分2004~5年頃と思う。
庭の片隅に、壁こね用のプラスチック製の箱を埋め、暇にまかせて、各種の付属品を付けるなどしただ、これはメダカを飼うための池の積りであった。子供の頃、庭の池で魚を飼うことが、夢であったが、漸く実現したのであった。 詳細は下記を参照されたし。
http://mokunen.c.ooco.jp/kyustm/diypage/puraike/purahakoike.html
殆ど同じ時期に、名古屋の友達からメダカの変わり種を貰ったり、変わった種を購入したりして、種類が増えてきたので、玄関先の飾りものを兼て、当時やっていた木工細工で作り、飾ったものだ。詳細は・・・
http://mokunen.c.ooco.jp/kyustm/diypage/221medakakan/medakakan.html
しかし、残念ながらホームセンターで購入した「ホテイアオイ」をプラ箱の池に入れたところ、その根に外国産の蛭(ヒル)が居て、メダカは短期間で全滅した。その時は原因が分からず、水に何かが混じったからかなと思っていた。
その後、原因が判明し駆除したら、隠れる場所の多い池では、完全な駆除は不可能と知り、泣く泣く池を掘り起こし削除したのであった。この時の断腸の思いは今も忘れることは出来ない。 更には、そのヒルがメダカの館の両方にも感染していることが判明し全滅に近い形で居なくなり、この館は壊してしまった。
それからは、増やさないが、積極的に減らすこともせず、徐々に規模ををさくしてきた。 そして昨年の秋には、何故か一匹だけ生き残ったので、長年お世話になったのだからと、水替えや給餌などはいつも通りにしてきたが、先日、その最後の一匹があの世に旅立ったのである。
長い間、楽しませてもらった事に感謝し、冥福を祈ったのであった。
2021.06.18(木)コロナワクチンの接種第二回目が終了したので、書き留める。 早いところは、18歳以上の接種が始まったところもあるが、全国的にも早い方の部類に入ると思われる、当町であるが、私はすでに二回目の注射が先日終わったのである。
① 予約。
5月20日 接種券が送られてきたので、到着直後にオンラインで予約をしたところ、すんなりと、二回分の接種の予約が取れた。 接種場所は、町役場の近くと菰野厚生病院の二か所で行われるが、私は病院の方を選んだ。
当町は人口が少ないからか、それとも町の準備が良かったのか、何ら混乱はなく予約できたので、ある意味で拍子抜けであったが、予約が出来て、一安心したのであった。
② 一回目の接種。
5月27日(木)病院には15分くらい早く着いたが、心配した駐車場も問題なく、全般に極めて速く、何の混乱も無く、病院の内科等がある、一階の広いフロアーにて、女医らしきから注射を受けた。
座る場所など、細かい指示があり、至れり尽くせりの感じをうけながら、そして15分ほど、椅子に掛けて待ち、異常が無いので、病院に到着後、約25分ほどで、帰途についた。
③ 副反応。
翌日になると、注射を受けた左腕全体がだるい感じがして、指先がしびれる感じあ下が、極めて軽いもので、薬等は全く必要がなかった。 その後もそれらしき副反応は皆無であった。
④ 二回目の接種。
6月17日(木)丁度3週間ごの同時刻(15時)に予約していたが、予約の15分ほど早く着いたが、即座に必要書類の記入と問診があり、待つ間もなく、女医らしきからの接種を受けた。
15分ほど待って、異常が現れないので、駐車場に向かった。
⑤ 二回目接種による副反応。
貰った印刷物によると、副反応は二回目は多いもので、40%を超える副反応があると書いてあるが、丸二日経過するが、副反応は全くない。今から思うと、私の場合は二回目よりも、一回目の方が大きかったように思うが、いずれもそんな気がしただけであり、殆ど副反応は無かったと言った方が正しいかも知れない。
以上
2021.06.02(火)、今頃になって、蕨を取りに行こうと言う。 午前中眼科で経過良好とのお達しを戴いたので、祝い(?)のために、おいしいものを食べ、帰宅後ぐっすりと昼寝をしたので、幸いにして体調もよし、ならば行くかと出かけたのであった。
私は例のごとく、コーヒー代¥500を戴いたので、すぐに喫茶店は勿体ないので、前回行き損なった、湯の山温泉の蒼滝に行ってみた。昔は遠足などで、何回も訪れているが、砂防工事後はあまりきていないので、ブログ、地図のネタにと、やってきたのである。
現在、車で行けるのはここまで。 高い砂防堰堤に阻まれて、革靴を履いた状態では、ここを超えるのは、今の私には無理と判断した。この奥に滝があるのだが、ここで断念した。
下流方面。 見える橋は「かもしか大橋」で、右に行くと、ロープウエー乗り場に近い。
これでは目的地の「蒼滝」がみられないので、止む無く「かもしか大橋」に出てみた。 下の写真奥に煙るのは御在所岳。 その下が、鈴鹿スカイライン、その下に白く見えるのが「青滝」、その下が先ほどの堰堤である。
「蒼滝」には行く道は、いくつかあるが、今の私には困難とみて、これでお茶を濁すことにした。
堰堤の先は、こうなってる!。
野辺のあちこちに「ヒメウツギ」が咲いていた。
以上
武平峠を越えて、久しぶりに滋賀県にやってきた。…と言っても、数十メートル入ったに過ぎないが、私にとっては記録的なこと。 ( 峠の標高は877mとなっている。)
武平トンネル(全長350m) 滋賀県側入り口。
ここにも登山道がある。
以上、暇にまかせて、2021.05.04撮影。
おしまい
国道477号の鈴鹿スカイラインは県境にやってきた、ここは武平峠となっており、峠の標高は877mとなっている。位置的には御在所岳(1212m)と鎌ケ岳(1161m)のほぼ中間になる。
武平トンネル (全長350m)。 三重県側のトンネル入口
登山道が見える。
この道を行くと、武平峠に出るようだ。
つづく
長石から、更に先へと進むと、鈴鹿スカイラインへと繋がっているが、何故かここは、平常は通行止めとなっている。それは滋賀県方面から来る人には、温泉街へ入るには、近道になるが、道路が狭く、急坂であり危険ともとれるので、通行止めにしているのかも知れない。
これ以降は、2021.05.04 の撮影である。
鈴鹿スカイライン側から見た場合。
つづく
この辺りは温泉街からも離れた、少し奥になり、訪れる人は少ないが、私にとっては忘れられない、若き日のはかない、思い出の場所なのである。
下の写真、右の石が「長石」。昔はもっと長かったが、年を経て短くなったのかも知れない(?)。
ここまでのつもりであったが、後日この先まで撮ったので、追加することにした。
(以上撮影:2021.04.30)
つづく
ここは見るべきものの中心とも言える場所であり、温泉街の中心でもあろうと思われる。また、中学時代には遠足として来たことがあり、大石まわりで遊んだ記憶があり、また高校時代には、大きな旅館がありそこの女中頭の息子とは友達であり、その旅館に泊まったことが何度かあった。その旅館が無くなってからは、近くの別の旅館に泊まったことがあった。
「大 石」
当然のことながら、「大石」と「大石内蔵助」とは別物であった!。
つづく
私が高校生の頃、全校生徒が参加して、学校からここ湯の山温泉の涙橋往復のマラソン大会が年に一回開催されたことがあった。この往復は42.195Kmに近いので、選ばれたのであるが、今のように交通量も少なく、快適であったが、走るものにとっては地獄であった。
運動の苦手な私には、難行苦行であり、それでも何とか参加はしたが、往復ともに、友と並んで、殆ど歩いたのを覚えている。特に温泉街の急な坂道は這うようにして、かろうじて上がったことを思い出した。何度も往復している、三輪トラックに載せられなかっただけでも幸せだったかも?。
であるから、この橋まで来るのはつらく涙が出るからと、昔の人も持ったに違いないと、思っていたが、本当の橋の名前の由来は、全く別の意味なのであった。
橋の名前の由来が書いてある。何と赤穂四十七士にまつわる話であるらしい!。
つづく
ここは温泉街の入り口になるが、近鉄の湯の山温泉駅始発のバスはここまでであり、ここからは道路が細く、坂が急になるので、バスは上がれない。乗用車はなんとか上がることができる。
この近くに土産物店があり、そこの長男と高校が同じクラスであったので、友達であり、また熊本県の女子と私と二人で文通していた。この女子生とは、はるばる熊本まで会いに行ったこともあり、彼女が大阪に出張したとき、会いに行ったなど、その当時は私は将来をも考えていた。
その友の彼女が、遠路を訪ねて来たので、会いに来いとの電話があり、急いでゆくと、何と二人は同じ布団に寝ているところに、案内されたのであった。彼にどんな意図があったのか、聞かないままに、早々とおさらばしたという、ほろ苦い経験を思い出した。
左に行くと、急な坂道であるが温泉街が続くし、直進すると、ロープウェイ乗り場であり、左は四日市方面となる。
四日市方面。
つづく
この橋のたもとに、相当に昔の話ではあるが、私が勤めあげた会社の健康保険組合の保養所として借り上げしていたこともあり、私には特別の思いがあるので、載せたのである。
「清気橋」
まだかなり若かったが、何度この辺りで、酔って歩いたことかと・・・・!。
「シ ャ ガ」
つづく
蕨取りの運転手が、喫茶店ばかりではないと、今日は湯の山温泉の主要なポイントを私の地図にプロットすることを意識して撮っているので、各ポイント別にバラバラになるが紹介する。
その最初は近鉄電車の湯の山線の終着駅「湯の山温泉駅」からである。この駅は私が結婚当初、駅の近くのアパートに、新築家屋を購入するまでの間、住んでいたこともあり、この駅から会社に通勤していた時期が2年余りあった。
「湯の山温泉駅」
駅前商店街。
後方は鈴鹿連峰。
電車の行き止まり。
つづく
私は乱視の傾向があるので、パソコンや細かいものを見るときは、メガネを使っているし、車の運転にはメガネ着用の条件は付いていないが、安全のためにメガネを使用している。そのメガネが、最近になり、眼の老朽化が進んだようなので、変えないといけないかなあと思い、ついでながら、メガネ屋に出向いた。
そのメガネ屋は、昔からお世話になっており、親しくしてもらっているので、きわめて気軽に訪れたのであったが、簡単な視力などの検査結果、左目がかなり悪くなっているようなので、先に眼科で診てもらった方がよい、メガネはその後だと言う。
それで、近くの病院の眼科で診察を受けた結果、「黄斑浮腫」と「白内障」の治療が必要となり、その治療を受けることにした。 病院に掲げられた、碁盤目の表を見ると、確かに左目だけは、中央から下が、黒い霞がかかり、ほぼ真っ暗になるのであった。
下の図で、中央の黒丸を見つめると、左目はこの表の下半分が黒ずむ。
そして、先日、厳粛な気分にさせる、手術室に入ったが、注射一本に大げさなと思ったが、これが大きな間違い。眼球に針を入れるなんて、考えただけでもぞっとするのに、実際に針を入れるのである。痛かったが瞬間で終わった。注射後も痛みはあったが、仕方がないとあきらめた。
そして、問題はその後の、点眼である。これが飛び上がるほど痛くて、暫くは何も手が付かなくて、眼をつむって、横になるのみであった。これを一日に4回やらねばならないが、耐えられないので、一日2回に勘弁してもらった。
点眼後、最初は一時間以上痛かったが、これも三日目には痛いのは、注すときだけになったが、これは感染予防であり、三日目で終了した。その後は次の注射のための点眼(一日4回)であるが、同じように痛むが、傷口が癒えたのか、痛みは瞬時のみとなった。
かなり先になるが、この後「白内障」の注射をしなければならないが、今度はそれは両眼であり、同じような痛みが考えられるので、止めたい気分である。
友の一人が、かかりつけ医から、腎臓が悪化しているとの宣告を受け、更には別の病院で診てもらったところ、「何もするべき、ことが無い」と言われたと、かなり深刻なメールをくれた。
具体的なことは、よくわからないが、本人は相当に深刻に受け止め、彼らしくなく、弱気の発言があり、かなり消極的になってるように感じたので、もう一人の友にこの事態を告げ、元気付けをやりたいと持ち掛けた。
1~2日後、その友から連絡があり、弁当を持っていくから、との話があり、暖かなら、景色が多少ともよい、三重県民の森にしようと連絡をした。そして、2021年2月3日、暖かいどころか、雪がちらつく「県民の森」にやってきた。
バカチョンカメラをポケットに入れていたので、撮ってみたが、雪は写っていないが、かなり降っていた。風も若干あり、寒い日であったが、コロナ禍の最中、室内はよくないとの判断から風通しのよい半屋内にしたのであった。
風も時々吹いて相当に寒いが、これも思い出になるとばかりに、客はひとりもいない公園で、ぶるぶる、がたがた震えながら、しかし、結構おいしい弁当を食べた。 ちなみに、ここには展示館もあるが、今日は休館日であった。
一番心配なのは、友の容態であるが、私が思ったよりも元気であり、私もいくつかの老朽化現象をかかえており、それほど大きな違いはないのかもと、感じたしだいであり、ほっと胸をなでおろしたのであった。
このあと、暖かいところで、コーヒーが飲みたくて、やってきた。ここは、温泉が出て、風呂や宿泊施設もあり、少々高いがお菓子などを販売しており、他県からも、多くの人が訪れている。
ここで、コーヒーと食後のデザートを戴いた。しかし、毎日、自分好みのコーヒーを入れて飲んでると、ここのコーヒーは決しておいしいとは思うことは全くなかった。(紙コップ・コーヒー:¥350)