木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

872 庭の花 H25-2(6~9)

2013-02-26 08:00:00 | 我が庭の花

 3月も間近というのに、厳しい寒さが中々終わらない。そのためか、全ての植物が長い眠りに入ったままのために、ブログのネタ切れが収まらない。庭のアネモネ、ラナンキュラスはまだ芽が充分出たとは言えないし、水仙もやっと芽が出た所である。例年なら今が盛りの「クリスマスローズ」もどうにか咲き始めたばかりである。ひとつのブログを飾るには相応しくない花々であるが、庭にある花を掻き集めて投稿させて戴く。(撮影日 2013.02.20)

 

「クリスマスローズ」 (別名:ヘレボルス)

 例年であると今が盛りと、狭い庭ながら足の踏み場も無く埋め尽くすが、今は哀れな状態、幾分でもましなのを集めて見た。 

2-6

 

「雲間草」

2-7

 

「紅梅」・・・ようやく蕾が膨らんできた。

2-8

 

「ボケ」・・・昨年は2月1日に開花している。

2-9

 

花が無いので、電線に止まった野鳥、特徴のある鳥であるが、名前が解らない。・・・「ツグミ」かも?。

 

雨上がりのベランダで、「ひなたぼっこ」をしていたら、水滴が美しく輝いていたので撮って見たが、実物通りの描写は出来なかったが・・・・・。(下左は青みを帯びてとても美しかったのだが、私のカメラorレンズが鈍感なのか?。)

 

本当にあり合わせのネタで申し訳のないことでした。

 


871冬の京都寺社巡り(フロク) 西陣織会館

2013-02-23 08:00:00 | 資料館

 2013.01.31(木)、真冬にしては珍しい”絶”好天の中を、早朝に我が家を出て、四日市を7時15分発の三重交通「京都駅行き高速バス」にて、高校時代の友と二人で出発した。京都駅からは市バスに乗り、「天神公園前」バス停を下車し、歩いて数分、9時過ぎには第一の訪問先に到着した。

そして「妙蓮寺」を皮切りに、9の寺院と4の神社を見て来た。ここ京都市上京区は寺社が密集している所であり、他にいくつもの寺社があるにも関わらず、その間隔が800m以内であったから、ここまで全てを歩いて尋ねる事ができた。

真冬の京都古(小)寺、神社めぐりは終了したが、ここは「西陣」なんとしても入りたかった長年の夢がついに果せることと相成ったしだい。

 

「西陣織会館」

      京都市上京区堀川通今出川南入

      伝統産業:実演見学、体験、販売施設

      入場:無料

 

 

日本美の競演

”本日のオールキャスト”

 「和服の美人」・・・これに勝るものは他になし、どんな花よりも美しい!

京都の人はいいねー!。こんな素晴らしい景色が見ようと思えば毎日でも見られるなだから!!!。

 

今回も寺社の数を上げることが目標のような結果になり甚だ残念なことであった。以前より、じっくりゆっくり見る、写真の質の改善を図ると思いつつも何時もの通りとなってしまった。また、特に今回は友が「仏像」に興味あるというので、声をかけたのであったが、「妙蓮寺」以外では一つも見る事はかった、何をしに行ったのかわからなくなってしまった。

ただし、この問題は当ブログがどうあるべきかと言う事と直結するので、簡単には答えが出ないが、いずれにせよ考えを改めるべきと思っている。このジレンマは今に始まったことではなく、この事が一層影響して、再びブログの”スランプ”に陥りかねないことではある。全面的に写真に頼るブログを脱して、文章中心にすればネタは多くなるが、それが出来ないのだ。

 

このシリーズが終わったが、梅の開花が遅れてるなどもあり、肝心の花がないために、この「京都シリーズ」につづくネタが無く、またしても、きれぎれになる事をお許し戴きたい。

 


870冬の京都寺社巡り(10) 晴明神社

2013-02-21 08:00:00 | 京都の寺社

 真冬にも関わらず好天の、2013.01.31(木)本日最後の訪問予定とした神社にやってきた。

 

「晴明神社」

      上京区晴明町806番地1

 

安倍晴明を祀る。一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。

1005年に晴明が亡くなると、時の一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当地の社地は広大なものであったが、戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年には堀川通に面するように境内地が拡張された。

平成になると、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる2005年には安倍晴明千年祭が行われた。

 

 私の知人がつい先日、詳しい歴史を書いたブログを投稿されていたので、再度ここで紹介したいと思います。また、秋はこんなにも色取りがよく美しいのだと言う事も・・・

     http://blog.livedoor.jp/shimajirokumagoro/archives/23356347.html

 

「冬の京都の寺社めぐり」はこれにて完結としますが、このあと近くの「西陣織会館」を尋ね、和服の美女をたっぷり撮って来たので、「ふろく」として次回に掲載します。

                                    <<  完 >>


869冬の京都寺社巡り(9) 浄福寺

2013-02-19 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、稀に見る雲ひとつも見当たらない好天のなか、京都市上京区を友と二人で歩いている。この辺りは寺社が密集しており、歩いて回るには最適の場所である。この日は京都駅から市バスにて北上し、「天神公園前」似て下車し、「妙蓮寺」を皮切りに8つの寺と3つの神社をみ来たたが、12番目に訪れるのは、お寺としてはしめくくりとなる、「浄福寺」なのだ。

 

「浄福寺」  (じょうふくじ)   別名:村雲(むらくも)寺、赤門寺

     浄土宗    山号:恵照山

     上京区浄福寺通一条笹屋町

はじめ天台宗で延暦年中(782~802)、賢憬大僧都の開創と伝えられ、当時二十五大寺の一つに数えられていた。たびたび火災にあい、建治2年(1276)後宇多天皇の命によって一条村雲に再建、ついで室町時代末の大永5年(1525)後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、のち知恩院に属した。この地に移転したのは元和元年(1615)のことで現堂宇は享保18年(1733)の再建になるものである。  本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、釈迦堂は三国伝来と伝える釈迦仏を安置する。寺宝には、二十五菩薩来迎図(鎌倉時代重要文化財)二幅、土佐光信筆十王像(室町時代重要文化財)十幅などがある。  また境内の墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿、殿上人の墓が多い。

 

別名の「赤門寺」の名前を象徴する門

 1788年(天明8年)京都で歴史上最大の大火、俗に言う天明の大火が起こり火は浄福寺にも迫りましたが、このこの朱塗りの東門の手前で止まりました。
 火を止めたのが鞍馬から舞い降りてきた天狗で、天狗は赤門の上で巨大なうちわをあおいで火を消したのだといわれています。
 様々な伝説を持つ鞍馬の天狗ですが、ここ浄福寺にもそんな天狗の伝説が残っていて、傍らに火を消したという天狗が祀られています。
 また、この赤門は秀吉がつくった聚楽第の一部分ではないかという説もあるそうです。

 

 

夕陽は西の山に近づいたが、まだ4時にはまだ少しあり、足の疲労度は限界、そろそろビールタイムとの誘惑感もあるが、何時もの事ながら、欲をだしてもうひとつ「晴明神社」尋ねることにしいたが、それは次回に掲載しようと思っている。

                                     << 続く >>

 


868冬の京都寺社巡り(8) 首途八幡宮

2013-02-17 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、真冬の京都市上京区にある、寺院、神社を見てあるいているが、その11番目となるのは・・・

 

「首途八幡宮」  (かどではちまんぐう)  

       京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102-1  

        境内自由

この地は奥州平泉まで牛若丸(源義経)に付き添った金売吉次の屋敷跡と伝えられているところで、その鎮守社が首途八幡宮。もとの名を「内野八幡宮」といい、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられる。大内裏(御所)の北東(鬼門)に位置したことから王城鎮護の社とされた。この地は清和天皇の第六皇子であった貞純親王の邸宅・桃園宮の旧跡。邸宅は広く、庭園は池と築山を中心に周辺に桃の木が植えられ、春になると一斉に桃の花咲き、桃花祭が執り行われた桃園だったことから、貞純親王は桃園親王とも呼ばれていた。その後、応仁の乱の兵火や天明の大火により社殿、宝物・社伝類の殆どを消失している。現在の社殿は、昭和40年代(1963~74)に地元の人々によって再興されたもの。
 社伝によると、承安4年(1174)3月の夜明け、鞍馬寺に預けられていた牛若丸(源義経)は平氏からの難を避けるため、鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼ることになった。この首途(かどで)の手配をしたのが奥州の商人・金売吉次(橘次とも)。鞍馬寺を出た牛若丸は、吉次に伴われ吉次の京屋敷近くにあった「内野八幡宮」に立ち寄り、奥州平泉への旅の安全を祈願したという。「首途( かどで )」とは「出発」の意味で、この由来により「首途八幡宮」と呼ばれるようになったという。

住み慣れた鞍馬を出て、奥州に向う義経の心境や如何に?。

しかし、平氏討伐後に兄にあらぬ疑いを掛けられて再び旅立つ時に較べれば希望はあったと推測する。

 

今朝からすでに15000歩を越えて歩いたので、足の疲労はピークに来ているが、まだ15時を過ぎたばかり、カフェで休憩の後、あと2ヶ所を見ることにしたが、それは次回に公開したい。

                                     << 続く >>

 


867冬の京都寺社巡り(7) 本隆寺

2013-02-15 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)は真冬にしては珍しく、雲一つもない好天にめぐまれ、友と二人で京都市上京区を歩いている。

京都駅から市バスで堀川通りを北上し、バス停は「天神公園前」で降り、「妙蓮寺」を皮切りに、七つの寺と二つの神社を見て来たが、その10番目の寺は、下ってきた千本通りから少し東に入った所の寺にあるのだ。

 

「本隆寺」  ( ほんりゅうじ)  正式には本妙興隆寺

     法華宗  慧光無量山     

     京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330

     境内自由

 本隆寺は法華宗(真門流)の総本山で京都西陣の地にあり、慧光無量山本妙興隆寺(えこうむりょうさんほんみょうこうりゅうじ)と号し、略して慧光山本隆寺といいます。

 開祖日真大和尚(にちしんだいかしょう)は、長享2年(1488)に妙顕寺を出て、四条大宮に本隆寺を開創しました。後柏原天皇等のご支援を得て法運は隆盛しますが、天文の法難に遭遇し、諸堂は悉く消失し泉州堺に避難することとなります。

 天文11年(1542)春、現在の地を得て再興され、承応2年(1653)には大火により諸堂を失いますが本尊は無事で、万治元年(1658)に再建されます。

 天明8年(1788)の大火により、再び山門・鐘楼・方丈・塔頭(たっちゅう)と悉く焼失しますが、本堂・祖師堂・宝庫は消失を免れます。それより「焼けずの寺」の異名がつくようになりました。

  現在、大火を免れた本堂(府指定文化財)は京都16本山の中で最も古いものとして今日に伝えられ、祖師堂(府指定文化財)・番神堂・鐘楼・経蔵・宝物殿・方丈・信徒会館があり、また塔頭八支院が境内を取り巻くように立ち並んでいます。

真冬のお寺、何も色気がないのは誠に残念!。

見事な「イチョウ」の木だ、秋はさぞかし美しい黄葉に染まるであろうと思うばかりである。

 

 

ここを出て約100m歩けば、次の目的地「首途神社」に到着するが、記事は次回にしたいと思う。

                                     << 続く  >>

 

 


866冬の京都寺社巡り(6) 石像寺

2013-02-13 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、大寒の最中ながら好天の中を、京都市上京区の古寺を友と二人で歩いている。この辺りはあまり有名ではなく、また大きくはないが、寺社が密集しており歩いて回るには大変に都合のよいところなので、二年振りのてくてく歩きを満喫させて戴いている。

「妙蓮寺」「櫟谷七野神社」「建勲神社」「引接寺」「浄光寺」「称念寺」「本瑞寺」とすでに、7つの寺社を見て来たが、8つめは・・・・

 

 「石像寺」   (しゃくぞうじ)   別名:釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)

      詳名:家隆山光明遍照院石像寺

      京都市上京区千本上立売上ル花車町503

      境内自由

寺伝では空海(弘法大師)により819年弘仁10年)に創建されたという[1]。当初真言宗寺院であったが、鎌倉時代に俊乗坊重源による再興を機に浄土宗に改宗され、慶長19年(1614年)西蓮社厳誉上人が再興したという[2]

地蔵堂の本尊は空海がから持ち帰った石を刻んだとされている地蔵菩薩である。 この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それがなまって釘抜地蔵と呼ばれるようになった[3]

釘抜地蔵の伝説 : 室町時代の終わり頃、紀ノ国屋道林という商人がいた。彼は両手に激しい痛みを感じていたが、どんな治療を施しても効き目がなかった。そこで霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、満願の日の夢に地蔵菩薩が現れた。地蔵菩薩は「お前の苦しみの原因は、前世において人をうらみ、呪いの人形(ひとがた)を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げ、呪いの人形から抜き取った八寸釘を道林に示して見せた。道林が夢から覚めると、両手の痛みはすっかり消えていた。そして、石像寺に参詣すると、本尊地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が置かれていたという。

この寒い時期、今まで見て来た7つの寺社では、参拝せる人影は殆ど見る事が出来なかったが、ここは結構な参拝者がいて、人気がある事を実感した。

写真上の右の建物の三面の壁には、下の「8寸釘と釘抜きの札が幾つも張り付けられていた。

 

 珍しい地を這う松の枝。

 

この「石像寺」を見たあとは、「雨宝院」を尋ねたが、そこ記録は編集の都合上すでに前のブログ公開かしたので、次は「本隆寺」を公開することになる。

                                          << 続く >>

 


865冬の京都寺社巡り(5) 浄光寺 他3寺

2013-02-11 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、朝夕は厳しい寒さの大寒真っただ中、しかし今日は雲ひとつないよい天気に恵まれ、友と二人で京都に来て、上京区西北部を歩いて寺社をめぐっている。「妙蓮寺」「櫟谷七野神社」「建勲神社」「引接寺」などを廻って次の訪問予定の寺にやってきた。

 

「浄光寺」   (じょうこうじ)   別名:大雅寺

     浄土真宗 本願寺派 

     寺之内通千本東入 新猪熊町

この寺は,文人画家,池大雅(いけのたいが)(1723~76)の墓があることで知られている。
 墓地の西北角の覆屋の中に墓碑が立っており、表に「故東山画隠大雅池君墓」,側面には相国寺の住職淡海笠常(たんかいじくじょう)の撰文,韓天寿の筆になる銘文が刻まれており,歿した翌安永6年に建立された。
 4歳で父と死別した池大雅は文人画家の柳沢淇園(やなぎさわきえん)や祇園南海(ぎおんなんかい)に絵を学び,中国風の文人画を超えた独自の洒脱な画風を作り上げた。奇行も多かった人であるが,妻の女流画家の玉瀾(ぎょくらん)とともに貧乏暮らしを謳歌して,江戸時代の文人の面目躍如たるものがある。

 

見たいものも無いので、早々と失礼し次の予定地に向った。

 

 

「称念寺」  (しょうねんじ)  別名:猫寺

      浄土宗   本空山無量寿院

      京都市上京区寺之内通浄福寺西入上る西熊町275

 

開基嶽誉上人が常陸国土浦城主松平信吉公の帰依をえて慶長11年(1606年)に建立されたもの。
嶽誉上人は浄土宗捨世派の祖、称念上人に私淑景仰し、同上人を開山としてその名を冠し寺号を称念寺と定めた。
信吉公は元和6年8月1日(1620年)に没し、当寺に葬られている。信吉公の母君は、徳川家康公の御妹で信吉公と家康公は義兄弟に当り、当寺の寺紋は三ッ葵が許された。
 三代目住職の猫の恩返しでお寺が栄えた話しは有名。

ここは門前に「無断拝観、写真撮影禁止」の札があった、それを押して入る程の魅力も感じなかったので境内にも入らないで、来た証拠にと山門から一枚撮って次の予定地に向った。

 

 ここは予定にはなかったが、立派な山門に引かれて、見させて戴いたのである。

「本瑞寺」  (ほんずいじ)

     日蓮宗

     京都府京都市上京区姥ケ寺之前町

 

この後は、石像寺に参ったのであるが、編集の都合上下記のお寺を掲載させて戴く。

 

「雨宝院」  (うほういん)    西陣聖天宮(にしじんしょうてんぐう) しょうてんさん

     高野山真言宗  北向山

     京都市上京区智恵光院上立売西入る聖天町9-3

西門から入ると頭上は時雨の松に覆われ薄暗い。隠れた桜の名所として京都人に知られている。
 境内は本堂の他、たくさんの堂が屋根をくっつけるように建ち並んでいて、西陣の界隈の人からは西陣聖天さんと呼ばれている。説明によれば、平安時代の弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされ、当初、境内は広大で千本通五辻まであったが、応仁の乱(1467~77)により堂宇は焼失、荒廃。天正年間(1573~92)に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝える。
 観音堂には平安時代中期の作とされる木造千手観音菩薩像が安置されていて、重要文化財に指定されている。この他、境内には不動堂、稲荷堂、庚申堂など建ち並ぶ。また、境内南東にある「染殿井」は涸れることなく湧いている。染色に使うちよく染まるとされ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていた井戸。現在は清めの手水に使われている。この「染殿井(そめどのい)」は西陣五名水の一つで、他は「千代井(ちよのい)」、「桜井(さくらい)」、「安居井(あぐい)」、「鹿子井(かのこい)」。なお、「安居井」、「鹿子井」は個人宅の井戸。
 また、本堂前の八重桜は「歓喜桜」で、御室の桜と同じ品種という。その横で枝を張る松は、久邇宮朝彦親王が当院へ参拝された折、突然の雨にこの松の下で雨宿りされたことから、いつしか「時雨の松」と呼ばれるようになったという。

  

 以上、境内に入ることを止めた寺もあり、写真の数が少なく書く記事も浮かばないので、四山をまとめて掲載した。

                                         << 続く >>

 


864冬の京都寺社巡り(4) 引接寺

2013-02-09 08:00:00 | 京都の寺社

大寒の真っただ中、早朝は顔が痛みを覚える程に、最も寒い時期ながら、空は青く澄み渡り、何ともすがすがしい 日に京都市上京区の北西部を歩いている。「妙蓮寺」から「櫟谷七野神社」「建勲神社」とやや北西方面に向ったあと反転して来た所が次の訪問先である。(2013.01.31・木)

 

 「引接寺」   (いんじょうじ)  別名:千本閻魔堂(せんぼんえんまどう)

      京都市上京区千本通鞍馬口下ル閻魔前町34

      境内自由

寛仁年間(1017 - 1021年)、源信の弟弟子の定覚により開山されたと伝える。現世と冥土を行き来して閻魔王とも交流したという伝承のある小野篁802年 - 853年)を開基に仮託する説もある。文永10年(1273年)、明善律師によって中興された。

安土桃山時代、京都に来た宣教師ルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)中に、1565年当時の本寺の境内の様子が記されている。

1574年(天正2年)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を描いた 国宝《洛中洛外図屏風》(米沢市上杉博物館蔵)の左隻右上に千本ゑんま堂が描かれている。その境内では銘桜普賢象(ふげんぞう)桜や十重石塔とともに、ゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれている。

千本ゑんま堂大念佛狂言は、昭和39年(1964年)に後継者不足が原因で途絶える。昭和49年(1974年)不審火によって狂言堂が焼け、狂言衣装も焼失する。しかし、翌年には焼け残った狂言面をもとに千本ゑんま堂狂言保存会が結成され、狂言堂は仮建築ながら再建され、以前の西陣講中を中心としたメンバーや一般から募集したメンバーも含めた編成に推移し、以降復活した狂言二十数演目が毎年境内で公開されている。

 

「地蔵供養池」「六道能化地蔵尊」  ここで塔婆(経木)流しが行われる。

 「塔婆」というのは、お墓に立てられている細長い木の事。 起源は「ストゥーパ(お釈迦様の遺骨を納めた建物)」で、ストゥーパを表したものに「五輪塔(お寺にある石の塔)」があり、塔婆はその五輪塔をさらに簡略化したもので、年忌法要の時に塔婆を立てると追善供養になると言われている。
 《千本えんま堂》では、お盆の頃に塔婆を池に流して、霊を迎えたり(8月8日から15日まで)、送ったり(8月16日)する。それと、千本の名前の由来は「千本の塔婆を立てた」という所から来ているんだそうだ。

 

「紫式部」の供養塔と像

 

「童観音」

 

この後は、千本通りを南下して、「浄光寺」を目指すのであるが、その記録は次回に掲載したい。

                                        << 続く >>

   


863冬の京都寺社巡り(3) 建勲神社

2013-02-07 08:00:00 | 京都の寺社

 いくら京都とはいいながらも、文作能力に著しく欠けるわたしには、真冬の寺社では記事にならないと、躊躇していたが、それではブログは途切れたままであるし、運動不足で健康にもわるいしと、”取材”に出るのを狙っていたのである。

幼馴染の友が同行してくれると言うし、2013年1月31日は前後を較べても格段に天候がよく、逆にこの日しかないと思われる程に、良いので決めたのであったが、それはずばり的中し雲の全く無い見事な青い空であった事も書いておきたいのである。

 堀川通り「天神公園前」でバスを降り、「妙蓮寺」「櫟谷七野神社」を見て、更に北西方向に約500m歩いた所が次の訪問地である。

 

「建勲神社」  (けんくんじんじゃ、たけいさおじんじゃ)  別名:けんくんさん

      京都市北区紫野北舟岡町49

      境内自由

明治2年(1869年11月8日戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた織田信長を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建が明治天皇により決定された。翌明治3年(1870年10月17日、織田信長の子孫で天童藩知事織田信敏の邸内(東京)と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営された。

現在地の船岡山は平安京四神相応玄武に位置し、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地である。その船岡山に神社を移すことになり、明治13年(1880年9月、社殿が竣工して東京より遷座した。なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった。明治14年(1881年)に織田信忠が合祀された。明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建された。

祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。高台にある境内からは特に大文字山比叡山方面の眺望が良い。

ここに上がるにはかなり急な階段をの昇らねばならない。今の私にはこの急な階段は相当こたえる、ぜいぜいと喉を鳴らしながらどうにか登ったが、足の膝と筋肉に大きめの試練となり、またひとつ関門を越えたのであった。

流石は信長公ゆかりの神社だ・・・

 

今回の訪問は好天には恵まれたが、真冬のため実に質素に見えるが、若くて可愛いい知人が紅葉で美しい建勲神社を撮っていたので、ここにそのブログを紹介して、この神社の名誉挽回に寄与したいと思うのである。是非、覗いてやって下さい。

     http://blog.livedoor.jp/shimajirokumagoro/archives/22734198.html

 なお、このブログは”livedoor"のために、時には正しく表示出来ない事があるので、その節は申し訳ないですが、スクロールして、「建勲神社」のブログを探す必要があります。

 

建勲神社を見た後は、「上品蓮台寺」を予定していたが、何を考えていたのか、飛ばしてしまい「引接寺」になってしまったが、それは次回に公開したい。

                                       << 続く >>

 


862冬の京都寺社巡り(2) 櫟谷七野神社

2013-02-05 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、手術後の体力減少で2年近く封印していた、京都”てくてく歩き”であるが、海外でも体力は確認したのだから、もうぼつぼつよかろうと思い再開したのである。ただし、まだ一人歩きは心もとないので、高校時代の友人を誘って二人旅の”てくてく”である。

四日市からの高速バスに乗り、多くの場合はバス停は「五条京阪」で降りるが、今回は京都駅まできて、ここから「9系統」の市バスに乗り、20分位かかったろうか、「天神公園前」で下車、そこから100m程歩いて「妙蓮寺」に入った。

「妙蓮寺」では、参拝者は我々のみだからなのか、懇切丁寧に案内と解説をしてくれたので、小一時間じっくり見させてもらった。ここを出て西北西に針路をとり、400m程歩いた所にあるのが、次の訪問予定地なのだ。

 

「櫟谷七野神社」   (いちいだにななのじんじゃ)

     京都市上京区大宮通り芦山寺上る西入る七野社町(社横町) 

     境内自由

櫟谷七野神社のあるこの辺りは、紫野と呼ばれている地域で、古くは内裏(御所)からも近いことから天皇や貴族の遊猟地となっていたところ。現在は西陣のほぼ中央部に位置し、昔ながらの町家が残る一角に鎮座している。古くから地域に住まれる人は櫟谷七野神社のことを「春日神社」と呼び親しんでいる。これは文徳天皇の皇后(染殿皇后)明子が、貞観元年(859)、懐妊を願って三笠山(奈良)の春日神社に祈願され、翌年、念願叶って皇子(清和天皇)がご誕生になられたことから当地へ春日大神を奉祀したのが起源となっているためか?現社名”櫟谷七野”の由来は、春日に加え伊勢・賀茂・石清水八幡・平野・松尾・稲荷の六神を合祀して「七ノ社(ななのやしろ)」したこと。また、内野・北野・平野・柏野・紫野・上野・蓮台野の七野の惣社との説もあるが、どちらかは定かでないという

一度ふられた相手のハートを引き止め、よりを戻す恋愛復活の霊験を授ける神様がいる、かなりめずらしい神社だそうだ。失恋した人は、是非お参りをお勧めだ!。

 

春日明神の遣いの鹿

 

観光客などは見向きもしない小さなお宮さんであるが、私には大好きな「京都の神社寺院」のひとつなので、掲載出来る写真がある限り投稿させて戴くので、興味の無い方々には申し訳ないが、これも私の生きた記録として、ご理解を賜りたいのである。

ここは京都市上京区の北の端、次の目的地は北区に入って「建勲神社」であるが、それは次回に掲載したいと思っている。

                                        << 続く >>


861冬の京都寺社巡り(1) 妙蓮寺

2013-02-03 08:00:00 | 京都の寺社

 運動不足解消とブログネタ取得のために、例の如く古寺、神社巡りを模索していたが、寒さ厳しき折、ひとり歩きには躊躇していた所、高校時代の友が仏像に興味があり、奈良、京都の寺なら尋ねても良いと言うので、予てから計画を幾つか作って時期を待っていた。

京都、奈良には幾つの寺があるのか私にはわからないが、写真を撮り始めて以来やがて5年になるが、この間見た京都の寺は100を越えたし奈良は50に近くなっているので、大きな寺、名前の通った寺は殆ど無い状態である。従って、有名ではなく、小さい寺にならざるを得ないのである。

 それで今回は、京都市上京区の北西部で寺社が密集している所を選んだのである。寺と寺の間を歩く距離を調べた所16ヶ所回っても7Km以内に収まるし、バスや地下鉄を利用出来る。建て込んだ市街地であるために駐車場は殆ど無いし、車を使わねば路面凍結の心配も不要と考えたのである。

 朝の冷え込みは厳しいが、珍しく今日は雲ひとつ無く青空が広がるなかを、午前7時15分近鉄四日市駅から高速バスで京都駅まで来て、ここから路線バスにて、堀川通りを北上して、天神公園前で下車すれば、最初の目的地までは100mくらいなのだ。 (2013.01.31・木)

 

「妙蓮寺」   (みょうれんじ)

     本門法華宗  大本山  山号:卯木山(うぼくさん)

     京都市上京区寺の内通大宮東入

     境内自由、書院、庭園は¥500、

   

日蓮の孫弟子日像が開基。天正15年(1587)この地に落ち着くまで幾度かの移転を繰り返した。収蔵庫に長谷川等伯一派の筆になる障壁画、松尾社一切経など多くの文化財を所蔵。観賞式石庭で「十六羅漢の石庭」と呼ばれる。奥書院の四間に現代絵画家幸野楳渓筆の「四季の襖絵」がある。本門法華宗。
創建:1294(永仁2)年。移転建立:1587(天正15)年。

午前9時すぎ、障子は仕舞っていたが、拝観出来るとあったので入って見た。今時訪れる人も多く無い様で、留守を預かるのは、自称「事務員」の女性一人であったが、再々掛かって来る電話と来場者に忙しく対応しながらも、極めて懇切丁寧にガイドしてくれるのであった。

「十六羅漢石庭」

厳寒の朝まださめやらぬ寺の冷たい廊下を歩き、あちこちで硝子戸を開けて、ここが絶景ポイントですよと、写真を撮る事を奨めてくれるのであった。

少し前に当ブログで紹介した京都の「圓通寺」はここより遥かに小さい寺であるし、庭もお粗末なものであったが、「撮影禁止」の大きな張り紙があちらにも、ここにもと10枚以上あり、まだその上やかましく写すなと怒鳴る寺とは、大きな違いである。

 

「フユアヤメ」  別名:キュウコンアイリス(?)

今時咲く「アヤメ」がある事さえ今日知った次第。

 

見事な襖や仏様は流石に写真撮影はご遠慮下さいとあったが、襖絵についても詳しく説明を受けたし、まだ葉も出ていない花々についても、あたかも咲いているが如く手ぶり身ぶりで渾身の説明を受ける事が出来たのであった。

ここで見られる花は、「梅」「曼珠沙崋」「萩」「椿」「ハクモクレン」「キキョウ」「コヒガンザクラ」などなど他にもあり種類は多いので、季節毎に楽しめる寺である。

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860 木工作業で肥満抑制(木工細工:H25-1)

2013-02-01 13:00:00 | 木工細工

今は花がないし、お寺に出掛けるには寒いと理由を作って、ブログを休んでいたが、先日の定期検診で、腹まわりに脂肪が付き体重が70Kgを越え、体脂肪までが要注意と指摘された。明らかに運動不足なのだ。

寒いからと日頃は散歩も、過去は一日平均4000歩を超えていたが、今は3000前後に下がっている。しかし、歩くだけでは解消不可能と考え、植物、海藻を多くして、カロリー減少と植物繊維の増加に努め始めた。

更には、ボケ防止も兼ねて、久々に木工作業を始めたのである。昨年やりかけで放置していたものや、新たに材料などを買わないで、在庫の木材を使いきることも視野に、使ってもらえそうな物を作り始めたのである。

 

「イス型飾台」×4    作品No 13-01 a,b,c,d

  材料:ベーマツ(パイン)集成材など

 

塗装  黒色(ウオールナット):油性オイルステイン+水性クリアー塗装(ウレタン)

     無色:水性クリアー(ウレタン) 二回塗り

「木燃工房」のベストセラーのひとつがこの「イス」であり、過去に作ったのは、恐らく30脚ぐらいになると思われるが、未だに作れば、(表向き)笑顔で受け取って貰えるので、益々図に乗っているのだ。

 

「壁掛け用 花瓶カバー」×2     作品No 13-02 a,b

   材料:檜9mm厚板使用

これは奥方の製作命令に従ったもの。

 

塗装はオイルステイン(ウオールナット)+クリアー(ウレタン)

 

「二段飾台」     作品No 13-03

  板材:30mm欅板(そりのあるがままに使用)

この欅の板は、保管状態が悪く、反ってしまったので、ただで本職から戴いた代物なのだ。この反りを直すために過去は削っていたが、これだけ反りが大きいと、削る部分が多くて残る板厚は随分薄くなって仕舞い勿体ない。

その上に、ケヤキ板は本職でも家具に使う材木であるから、大変に硬く鉋掛けは重労働であるし、手術傷のある胸に痛みが走るのだ。また、この広い面に電動鉋を掛けるのは、私の腕では殆ど不可能な程に技術が要るのである。

そのために通常あり得ないが、売り物ではなく我が家で使うのなら許されると勝手に考えて、反ったまま使ったのである。

 

塗装はオイルステイン(ウオールナット)+クリアー(ウレタン)

 

作り始めると結構楽しく、次に作りたいものが次々と浮かんできた。それらはまた後日ここに掲載したいと思っている。