木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

957 東海道 四日市宿 (2)松寺 西富田

2013-06-30 08:00:00 | 名所旧跡

チャリンコによる野次喜多東海道 旧跡めぐり 第二弾第二編を紹介します。先回のブログでは員弁川南詰めからスタートし朝日町内を見て歩いた所を紹介したが、今回はその続きで、四日市市に入り、松寺、蒔田、西富田地域をめぐる事になります。

下の地図で赤線は旧東海道を示し、この道を忠実に自転車を漕いだ。その途上での丸付き数字の付いた所が、下記の記事としてあります。

 

 ① 常夜灯

この常夜灯は弘化3年(1846年)に作られたもので、昭和6年に街道西側の道路沿いに移された。「多賀神社常夜燈」「五穀成就」と刻まれている。 (正しくはここはまだ朝日町、川を越えれば四日市市) 写真常夜燈の側の道が旧東海道。

 

② 「御厨新明社(みくりしんめいしゃ)」

 

③ 「宝性寺」   本堂:市指定文化財

      宗派単立  龍王山

本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財になっています。
 本堂は重層(外観が2階建て)で、主屋の規模は三間四方の周囲に縁が付けられ、正面に向拝(こうはい)があり、ここの柱や頭貫(かしらぬき)に獅子や獏の彫り物が据えられています。主屋の中は、手前が六畳敷の外陣でその奥に内陣があります。内陣は、中央が板間で奥に須弥壇があり、厨子に十一面観音菩薩像が安置されています。板間と須弥壇(しゅみだん)の両脇は、それぞれ四畳敷きになっています。須弥壇奥にさらに板間があり、両脇に脇仏壇が設けられています。内外陣の境の欄干に雲龍の彫り物が施されています。派手な彫刻が施されるのは時代の好みを反映したもので、建物を重層とするなど比較的均整のとれた建築として、大工や彫物師の技量のよさを感じさせます。享保4年(1719)の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11年(1814)の建立と推定されます。

 

④ 「長明寺」

     浄土真宗本願寺派 朝明山

蒔田城の築城年代など詳細は分かっていないが、文治年間(1185~1190)の伊勢平氏残党の反乱のとき、 蒔田相模守宗勝が居住していた。
城址は、現在では朝明山長明寺という浄土真宗本願寺派のお寺になっている。当寺は、現三重郡川越町にあったものを、慶安4年(1651)に領主松平隠岐守より当地を賜り、翌年に移したものである。

 

⑤ 「鏡ヶ池跡」  別名「笠取りの池」

聖武天皇の行幸にかかわる伝説が蒔田町に伝わっております。
 聖武天皇が朝明頓宮に入る途中に池がありました。北風が吹きすさび、突風で天皇の笠が池に吹き落とされました。そのとき、村の少女が進み出て笠を拾い上げ天皇に渡しました。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったそうです。
 聖武天皇がこの地を去るとき、少女が出て見送りました。
 文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。現在では昭和8(1933)年建立の碑だけになってしまいました。

 

⑥ 「田村寺」

     真言宗醍醐派 弘法山

明治中期の修行僧、大滋偏照二世の大導師が弘法大師を奉祀して、信徒と共に厄除大師の恩恵に浴して、大師堂を建立した。その後真養大和尚により寺格を整え、真言宗醍醐派に属することになった。地区に残る伝承の一つとして、聖武天皇が朝明行宮を営まれたおり、村長(むらおさ)の手厚いもてなしを喜ばれ、長の由緒ある「田村」姓を賜ったといわれ、この地区に多い「田村」姓の起こりといわれている。また、別の伝承では、坂上田村麻呂が東征の折にこの地で休憩したことから「田村」という寺号になったとされている

 

⑦ 「三光寺」

     浄土真宗 本願寺派  木下山

 

 

平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑。

 

前回のブログの終端は朝日町の「西光寺」であったので、そこからここ「西光寺」までは約2.4Kmとなり、今回のスタート地点の町屋橋南詰めからは4.4Kmとなrった。この後は富田、茂福、羽津へと向うが、それは次回にしたい。

                                           << 続く >>

 

 


952 庭の花 H25-16(107~112)

2013-06-28 08:00:00 | 我が庭の花

我が家では植木鉢に多くの花を植えているので、朝夕の水やりは大変に大事な仕事である。足や腰が痛くても、メダカの餌やりと花達への水やりはどうしても止める訳には行かないのだ。新しく植えたり、植え変えたりは私と妻の責任分担には不文律があって、それぞれが責任を果しているが、水やりは協力作業といつしか決まってしまった。

今は梅雨の真っ最中、普通なら水を蓄えるタンクは常時1.5Ton蓄えているが、今年は雨が少なく梅雨中に1Tonを切る事がしばしばあって、夏場を気にしたが、昨日(6/21)久々に降ったので満タンになったが、時々は降ってくれるよう”雨乞い”をしたい状態である。   (2013.06.08~10撮影)

 

「ヒメアガパンサス」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/himeagapansasu.html

この花は、何時誰が植えたか記憶になく、何ら手入れはしていないが、庭のあちこちで元気よく咲いてくれる花だ。雑草を除去する時、整地をする時、花を植える時にしばしば球根を掘り出したり、切断したりするが、それでもちゃんと毎年咲いてくれる、その清楚な姿に似つかわしく無い、とても生命力の強い植物である。

E01384 No107

 

「ケイトウ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/keitou.html

寄せ植え用として買ったもの。

E01400

E01403 No108

 

「ジニアリネアリス」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hosobahyakunitisou.html

E01411 No109

 

「バラ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/bara.html

これは鉢植えのバラだ。

E01453 (No89)

 

「スイレン」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/suiren.html

いよいよ睡蓮の季節がやってきた。これは花径が50~60mmのミニタイプの睡蓮である。(開花日6/8)

E01462 No110

 

「キク」

菊として載せるには、お粗末な花ではあるが、これも数の内と嫌がるのを無理矢理載せたもの。

 E01471(No95)

 

「クチナシ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kutinasi.html

植えて20年位はゆうに経つが、何故か今年は初めて花が驚くほど多く付いた。この純白の花には小さな虫が直ぐに集まって来て汚すので、未だ全体像を撮ることが出来ないでいる。かと言って農薬散布や消毒はやらないと決めているので、その願いは永久に達成出来ないかも。

E01475 No111

 

「ハナショウブ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hanasyoubu.html

右の蕾は紫の花のようだ!。

E01480

黄色と白薄紫は咲き始めたが、紫は遅れている。例年は殆ど同じ時期に咲くのだが・・・?。

E01483 (No99)

 

「アジサイ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ajisai.html

E01485 (No102)

 

「ガクアジサイ」

E01489 (No84)

 

「ギボウシ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/gibousi.html

我が家にはミニも「ギボウシ」は多いが、これは有一普通サイズのものだ。

E1490 No112

 

今年は例年になく、庭に咲く全ての花を撮りここに載せ続けてているので、その数が多くて分割せざるを得ないが為に、花ばかりの記事が続くので、少しは遠慮がちに出しているのであるが、「東海道桑名宿シリーズ」が終了したし、また、”取材”に出たいが天候不順のため、庭の花に頼ってしまっている事をご了承戴きたいのである。

 

 


956 東海道 四日市宿 (1)朝日町

2013-06-26 08:00:00 | 名所旧跡

 先回、「東海道 桑名宿 旧跡探訪シリーズ」として、東海道の三重県の入口となる、(1)七里の渡(2013.05.29掲載)を皮切りに、(7)安永、町屋橋跡(2013.06.22掲載)までの約3.8Kmを尋ね歩き、幾つかの街道沿いにある旧跡を紹介してきた。

今回はその続きであり、第二弾としは「東海道 四日市宿 旧跡探訪シリーズ」を、2013.06.23(日)に決行した。なお、元に成る資料は三重県環境生活部が出している、「みえ歴史街道ウオーキングマップ・東海道」であり、具体的計画並びに実行先導は例により友が行ってくれた。

 

「四日市宿」と言えば、何と言っても「安藤広重」のこの絵であろう!。この絵が書かれた”らしき”場所については、その場所を通過する際に紹介する予定。

 

また、前回は歩いたが、”後期野次喜多”のこと、足腰のへたりはどうにもならず、今度は自転車を使う事にし、また前回は桑名市の最南端「安永」でピリオドとしたが、そこは「員弁川」の北詰めの堤防までであったから、今回はその川の南詰めがスタート地点となる。

下の地図で、赤線は旧東海道で、丸付き数字はこれから紹介する記事の番号であり、今回尋ねた所。  なお、この街道筋には我々が尋ねた以外にも多くの旧跡があるが、街道から離れた所は、足腰の強く無い私の都合で省略させてもらった。

 

① 員弁川(町屋川)にかかる「町屋橋」南詰 今回のスタート地点(上の地図 

旧東海道の橋(町屋橋)は下の写真中央のひと際高い木(楠の大木)の辺りに架かっていたが、国道一号線(写真右)の完成により廃止され名前だけは「町屋橋」として残った。

初めての自転車ツアーであり、ほんの一瞬ではあったが、小さな感動と緊張が過るのを感じつつスタートしたのであった。

 

② 「金光寺」

      真言宗  雨宝山

1673年に別の場所に小堂が建てられ、本尊十一面観世音を祀ったが、1789~1800年に現在地に移った。1870年からは無柱となっている。  

 

③ 「真光寺」

     浄土真宗本願寺派

 

「梅鉢紋(家紋)の大手水鉢」

1660年に17代桑名藩主「松平定重」から拝領したものであるとか。

 

④ 「安達微笑仏館」  (まちかど博物館)

下は道路沿いに展示されていたもの。

 

⑤ 「朝日町資料館」

朝日町資料館は大正5年(1916)に朝日村役場として建てられました。木造2階建の寄棟造瓦葺きで、1階には事務関係の諸室が配置され、2階には議場が設けられていました。内部の改造も少なく、地方建築の特徴を良く留めている建造物として平成12年に国の登録有形文化財となりました。現在は農耕・養蚕関係の資料など民俗資料を展示しています。

 ここは毎週水、土曜日のみ開館、よって見る事は出来なかった。

 

 

 

⑥ 「橘守部誕生地の碑」

 橘 守部(たちばな もりべ)は江戸時代後期の国学者伊勢国朝明郡小向村(現朝日町)の庄屋の家に生まれた。通称は飯田元輔・源助。父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であったが、守部自身はほとんど独学で国学を研究し、本居宣長を痛烈に批判し、『古事記』よりも『日本書紀』を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけての機業家などに門人を広げた。

 

⑦ 「小向神社」参道口の道標など

「小向神社」とは、地元出身の国学の大家、橘守部を合祀した神社。
毎年8月13日には、火をつけたたいまつでたたきあう八王子祭りが行われる。場所はここより少し北西部になるが、体力温存のため、見学を省略し先を急いだ。

 

⑧ 「浄泉坊」

    浄土真宗本願寺派

創建は1199年で禅宗の「正治寺」であった。天正の頃兵火により焼失。1603年再興され浄泉坊と改称、1638年に西本願寺から木仏や寺号の公称を受けた、桑名藩由縁の寺で、藩主の奥方の菩提寺となっており、徳川の家紋「三つ葉葵」が見られる。参勤交代でここを通る大名達は乗り物から一礼したと言われている。・・・と書かれている(要約)

 

⑨ 「西光寺」

      浄土真宗大谷派 

安永6年(1777)の銘のある梵鐘がある・・・とか。

 

自転車に乗り慣れない私には、ほんの少しだが何処まで行けるか、後がどうなるか不安(足のケイレンなど) が無い訳ではないが、スタート地点から「西光寺」までの約2.0Kmを走る事が出来た。ここから少しの間は何も無い区間なので、ここまでを第一遍とした。 なお、東海道の三重県の入口「七里の渡し」からの累計は5.8Kmとなる。

                                     << 続く >>

 

 


950 ブルーボネット (名古屋)

2013-06-24 08:00:00 | 庭園公園

友の博学により、名古屋にもこんな公園があると知り、丁度ブログのネタも切れるので、梅雨の合間の晴天日、2013.05.31(金)車を飛ばしてやって来たのである。ここは湾岸自動車道「潮見IC」から近くで、我が家から便利の良いところでもある。

今日は梅雨時の平日。、訪れる人が少ないのは、私には三脚も使えるので、絶好の撮影日和。今日も目新しい花を求めて、片っ端から撮り始めた。

 

「ブルーボネット」

     名古屋市港区潮見町42

     入場料¥300(居住地域問わず65才以上¥200)   駐車無料(220台ほど可)

     開園時間 9時30分  毎月曜日休園

ここは中部電力が運営する、曰く「名古屋港ワイルドフラワーガーデン」。

 

レストラン、売店のある建屋。庭園内での持ち込み飲食は禁止。

下の写真右の変わった形のガラス張り建物は催し会場。

それほど広く無い庭にびっしりと花が植えられていて、見るには良い公園ではある。花の写真は50種程撮ったが、かなりの時間を掛けて名前を調べたが、結局16種程は名前を知る事が出来なかった。その後メールで名前を問い合わせた所、直ぐに返事が来て名前は解った。

なお、咲いてる花は65~70種と思われるが密集してるので、背景に入り込む事が多く写真屋には辛い事であるが、これは止むを得ない事と理解。

 

「キキョウ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kikyou.html

 

「カシワバアジサイ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/kasiwabaajisai.html

 

「シモツケソウ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/simotukesou.html

 

下の写真はルピナスの仲間「ルピナステキセンシス」であり、「ブル-ボネット」の”名付け親”でもある。そのいきさつを下記の「花写真鑑」の末尾に記載してあり。

  「花写真鑑」http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/rupinasutekisensisu.html

 

「ルリギク」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/rurigiku.html

レストランはひとつだけあるが、¥1550の和食弁当のようなものを食べたが、肝心の味は次回もと言うほどではなかった。

以上、庭園の概略 を紹介したが、狭い範囲に花を密集させて植えられているので、歩く距離が少なくて多くの種類に出会える。  もしもこれが季節毎に植え替えなどメンテナンスが行われるのなら、私には大変ありがたいところである。。

混雑しない時ならば三脚も使わせて貰えそうであるし、写真は背景を気にしない、”図鑑的”にならざるを得ないが、目的を「花写真鑑」用とすれば、来る価値は大いにあると感じた。  出来れば最低”月一”といきたい所ではある。

咲いていた花で見慣れた花は4点ほど挿入したが、ここには珍しい花が非常に多くあるので、別途にまとめて紹介したいと思っている。

                                                 以上


948 東海道 桑名宿 ⑦ 安永 町屋橋跡

2013-06-22 08:00:00 | 名所旧跡

東海道桑名宿の旧跡めぐりも最終編を向えた。今日のブログは桑名市の南東部矢田立場という所から、市の南端までを記載する。  2013.05.26(日)実行

 

今の道は直線的に作られる事が多いが、地図上で旧東海道を見ると結構曲がりくねっている。敢えてそうしたとする地域もあるようだが、ここはどうなのだろう?。  道はここから一旦西方に向う。

 

 「矢田立場」

「立場」とは、江戸時代の五街道等で、次の宿場が遠い場合、その途中に休憩施設として設けられたもの。峠の茶屋や売店などがそうらしい。  旧東海道はここから南方に折れ曲がる。

 

東海道を示すものは何もないが、ここは旧東海道である。

この辺りは「安永」という地で、下の写真で、道の突き当たりは「員弁川」の堤防であり、ここに「町屋橋」があった所である。(今の町屋橋は国道一号線に架かる)

この橋のたもとには、「料亭玉喜」などがあり、昔の姿を思い起こさせる、古い灯籠や樹齢200年と言われる「藤」の古木が残されている。

 

この旅館などで、街道の名物「安永餅」(下の写真は現在売られている餅)を売っていた。現在も料亭、旅館として営業しているが、旧館には「安永餅」の看板や「御馬口御洗水」の木札や、餅を作っていた頃のかまどなどが残されている。

 

「伊勢両宮常夜灯」、文政元年(1818年)建立。桑名市指定文化財。

石造里程漂には「従町屋川中央北桑名郡」「三重県庁舎一里口町余」と刻まれる。(明治26年建立)

 

写真を撮り損なったが、ここには樹齢200年以上の「楠」の大木があり、しめ縄が掛けられているとの事である。下の看板に描かれているのがその大木かも?。

 

「町屋橋跡」屋根付き表示板

橋は寛永12年(1635年)に初めて作られ、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変わっている。江戸時代のものは、橋の中央で馬が退避出来るように幅を広げた事もあった・・・と書かれている

 ここに「町屋橋」が掛けられていたが、この少し左(東方)に昭和8年に国道一号線の橋がかけられた。 よってここの橋は廃止された。川の向こうは朝日町である。

 

東海道桑名宿の起点「七里の渡」から、旧東海道三重県内は鈴鹿峠までの間が約45Kmあるが、今回はその最初として現桑名市の南の端、町屋川(員弁川)の袂までの約3.8Kmを歩いたのである。これを地図に書くと下記のようになる。

 

 

 以上をもって、「東海道・桑名宿・旧跡めぐりを完結としたい。

私としては、初めての身近の歴史を取材することが出来たのも、全ては友のお陰と感謝すると共に、従来とは一味違ったブログになったと自画自賛しきりである。

今後も、例えばこの続編とか、古い町並みなどを残す地域にて、歴史の片鱗に触れたいと思っている。

                                    << 完 >>

 参考までに

上に記した”地図へのお絵かき”は、以前からやりたかった事のひとつであるが、つい最近ブログで親しくしている方から紹介された、akatomboさんに教えて戴き出来たものです。この手法のキーポイントは、パソコンの右上端にある「PrtSc」なるキーの使い方であり、これは他にも使い道は多々あると考えられるので、私には嬉しい”発見”であった。(パソコン歴うん十年の私が今頃知ったのかと笑われながらも) 

作り方の解り易い「地図へのお絵かき手順」のページ は

   https://tomboaka.wordpress.com/

また、akatomboさんのホームページは

   http://akatombo.e-whs.tk/

をご覧戴きたい。

 

 


951 庭の花 H25-15(97~106)

2013-06-20 08:00:00 | 我が庭の花

 相も変わらずのありきたりの花ばかりで恐縮であるが、我が家の庭で咲いた花を紹介したい。 (2013/6/8撮影)

なお、各写真の右下には、写真の原画の番号と今年になって咲いた花を全て撮ろうとしているので、その識別の番号を付けており、一応咲いた順になっている。今回公開するのは、その97番目から106番目と言う意味である。

  

「サツキ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/satuki.html

ここには、最初に咲いた日に撮っているのとアップで撮ってる関係で、一輪のみであるが、そのあとは一応何輪か咲いたが、今年は何故かサツキは花の数が極端に少ないのが気がかりである。

E01339

E01263

E01241 No97

 

「ニチニチソウ」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/nitinitisou.html

E01318 No98

 

「ハナショウブ」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/hanasyoubu.html

まず、黄色が咲いた、この後白に薄い紫が入ったのが蕾を作っているが、紫はまだ蕾の影も形もない。従来は殆ど同時に咲いていたように思うが、このように咲いた順に撮ってると、こんな事が記録に成る事を実感中。

E01357 No99

 

「ガーベラ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ga-bera.html

E01252 No100

 

「ムラサキツユクサ」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/murasakituyukusa.html

我が家の庭が出来た時からの最も古い常連だが、植えた記憶はなく木を植えた時に無断で着いて来たものと思うが、それでも、ここの主のように見えて、それがこの花らしくて私は毎年見るのを楽しみにしている花のひとつである。

E01393 No101

 

「ガクアジサイ」

  「花写真鑑」 

ご近所からのいただき物であるが、最初は純白で咲くが、日毎に赤みが増して、見事な真紅になった!。なんと可愛いではないか!!。

E01443(No84)

 

「アジサイ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ajisai.html

E011365 No102

 

「ダーベルグデージー」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/da-berugude-ji-.html

E01434 No103

 

「イポメア・スイートキャロライン」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/ipomea.html

サツマイモの仲間だそうだが、次々と色々な花が作られているので、名前を覚える暇がない。長ったらしく、カタカナばかりでは、記憶に残らない。早く「和名」を付けて欲しいものだ。

E01300 No104

 

「アンゲロニア」  商品名「エンジェルラベンダー・ビッグラズベリー」

   「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/angeronia.html

E01431

 

「アンゲロニア」 商品名「エンジェルラベンダー・ビッグスノー」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/angeronia.html

E01427 No105

 

「ミリオンベル」 (商品名)

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/mirionberu.html

E01295 No106

 

上記五種の寄せ植え

E01440

 

花の名前を正しく書くことに注意してはいるが、最近は新しく作られる花が多く、植物学者でもないので、頼りになるのは、花図鑑などの書籍とインターネットによるが、どれがどうなってるのか、調べれば調べる程に解らなくなってくることがある。  よって、商品名と知らずに書いてる事を了解して戴きたいのである。

 

 

 


947 東海道 桑名宿 ⑥ 長圓寺 一目連神社 他

2013-06-18 08:00:00 | 名所旧跡

 2013.05.26(日)友と二人、東海道桑名宿の旧跡を尋ねる”後期野次喜多道中記”の続編である。今日紹介するのは、七里に渡で船を降りて、旧東海道を約1.7km歩いた所、伝馬町の辺りである。

前にも紹介したように、今回の東海道の旅は企画から実行まで全てを友にやってもらってるのであるが、足も体力も劣る私の能力に合わせて歩く距離を少なくし、且つ駐車料などの最少を求めての方程式を解くと言うのかパズルをやる感覚で計画された道を歩いた。

それは、あたかも映画の撮影の如く、バラバラに撮っておいたものを、道順に従って並べ替えてブログを編集するという誠に合理的な方法になっているのである。であるから、何も見るべきものが無い部分は車を使い、無料駐車場に止めて歩くと言う方法である。

 

 「長円寺(ちょうえんじ)」

    浄土真宗本願寺派

    桑名市伝馬町98

古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移りました。市指定文化財として、桑府名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴があります。これは当寺11代住職魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)(1834没)の作品です。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を多く折る珍しい方法です。境内の墓地には、大坂相撲力士千田川善太郎(1804没)の墓があります

「桑名の千羽鶴」 (ネット上で借用)

「天武天皇社」

    桑名市東鍋屋町89番

桑名市東鍋屋町に鎮座の当社は、天武天皇を主神として御祀りしている全国で唯一の神社であります。
天武天皇、壬申の乱に皇后と共に吉野より潜奉、桑名郡家に御宿泊あり、桑名を根拠地として近江軍に対せられ、高市皇子の進言により天皇は美濃へ向かわれたが皇后はそのまま当地に御逗留あり、天皇凱旋の後再び当地に還宿され皇后と共に大和に帰られました。

天武天皇の御宿りは僅かでしたが、皇后は約二ヶ月も御逗留され、当地が二帝との関係浅からぬものがあり、後に至り天恩を追慕し讃仰の念より一社を創めて御祀りされました。

 

「石取祭車庫」

 

「一目連神社(いちもくれんじんじゃ)」

    桑名市東鍋屋町89番

多度大社の別宮として鎮まりまして、昔も今も絶大な崇敬を集める一目連神社。「一目連神 出でたまふとき多度山鳴動し御光を放ちて頭上を飛び越え 困りし人々を助けたまう・・・」一目連神社の神力によって災難から逃れられた人々は数知れず、お礼参り・願掛けの参拝者は後を絶ちません。
御祭神の「天目一箇命」は、御本宮・天津彦根命の御子神であり、伊勢の天照大御神の御孫神にあたります。古書(古語拾遺)では、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになった際、刀や斧などを作って活躍された神として伝えられており、このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。毎年11月8日には、「ふいご祭り」というお祭りが斎行され、桑名近辺の会社はもとより全国の関連業者の方々が参拝に訪れます。
 また、多度大社周辺は揖斐・長良・木曽の三大河川が集中しており、昔は一度大雨が降るとたちまち増水し、川から水が溢れ、大洪水となって岸辺の集落を呑み込んでしまうような事が度々起こりました。その為、地域の人々は、自分たちの生活を左右し、場合のよっては生命までも脅かされる恐れから、天候を司どると信じられてきた一目連神社に真剣な祈りを捧げて来たのです。これとは逆に、雨が降らず、日照りが続くと米の収穫ができず、食糧難に陥ることから、雨乞い祈祷も盛んに行なわれてきました。
また、海上で仕事をされる人々にとっても天候に対する思いは同じで、天気予報の無かった時代はなおさらでした。漁に出ていたところ、急に海が荒れだして、大時化(おおしけ)の中、一目連神のお導きによって、命からがら岸辺にたどりついた逸話は数多く残されています。
また、一目連神社の御社殿は正面の御扉が無いという、大変珍しい構造をしている事は見逃せない一例です。このことは古文書にも見られるように、非常時に神様が御神意を発する際、龍に姿を変えて天高く駆け上り、いち早く出向かれるためであると云われています。

 

「明圓寺(みょうえんじ)」

    真宗大谷派  瑞瑋山

    桑名市西鍋屋町16

開基不詳。桑名市多度町香取の法泉寺安田空明の家臣伊藤孫右衛門が出家して当寺を中興したと伝えられる。古くは現在地より南にあったという。昭和23(1948)頃に再建。
門前の道路わきに水準点があったが、現在は確認できない。 

 

 

「教覚寺(きょうかくじ)」

    浄土真宗本願寺派   松下山

    桑名市東矢田町

戦災で焼失、昭和24年(1949)仮本堂再建。
益田庄地頭職二階堂氏の一族が文明3年(1471)に桑名郡町屋に道場を開き、のち東方村にうつり、さらに現在地に移る。

 

「善西寺(ぜんさいじ)」

    浄土真宗本願寺派  走井山

    桑名市西矢田町27-2

走井山にあった矢田城主の矢田俊元は織田信長の軍勢に敗れたが、孫の俊勝が出家してこの寺を建て、祖父の法号をとって寺号にした。 
戦災で本堂を焼失したが、東海道に面した門、塀、鐘楼堂は戦災を免れた。本堂は昭和43年(1968)に再建。

 

桑名の名物の「焼きはまぐり」については前に紹介したが、ここでは「時雨蛤」である。

名物の「時雨蛤」はボイルした蛤のむき身を醤油を沸騰させた大鍋に入れて「浮かし煮」と言う独特な方法で煮るのである。味付けに生姜を刻んで入れる。

元は「煮蛤」と呼んでいたが、松尾芭蕉の高弟が、10月の時雨が降り始める頃から作られるために、「時雨蛤」と名付けたとある。

その発祥の地は、先に紹介の昼ごはんを食べた「赤須賀漁港」周辺で、元禄時代から作られ初めたとある。「時雨蛤」にすることで、風味と保存性が高まった事は言うまでも無い。

 暖かいご飯に載せて食べると、他に”おかず”なしで、いくらでも食べられる、私の大好物であるが、「桑名の殿さん、時雨で茶々漬け」と歌われるように、お茶漬けにするのも美味しい食べ方である。

                                         << 続く >>


949 白鳥庭園 (名古屋)

2013-06-16 08:00:00 | 庭園公園

ブログネタも底が見えて来たので、行き先を考えていた所、友から私の好みそうな所が名古屋にあると教えてくれた、そのひとつに早速行って見たので紹介しようと思う。  (2013.05.31(金)訪問)

「白鳥庭園」

    名古屋市熱田区熱田西町2-5

    入場料¥300  駐車料¥300  

 

白鳥貯木場を埋め立てて、1983年(昭和58年)年から1991年(平成3年)年までかけて整備した庭園。当初から白鳥庭園とする計画であった公園ではあるが、はじめは「白鳥公園」という街区公園として開園。1989年(平成元年)開催された世界デザイン博覧会パビリオン「日本庭園」として本格的に整備された。閉幕後は、庭園専用の有料公園とするため継続整備され、1991年(平成3年)に完成・オープンした。

大きな池を中心に配置した「池泉回遊式」の日本庭園で、都市公園内の庭園としては、東海地方随一の規模を誇る。世界デザイン博覧会のパビリオンとして設置したため東海三県を中心とした中部地方の地形をモチーフにしている。公園の南側にある築山を御嶽山に、そこから各池に注ぐ川を木曽川に、中央・周辺の池を伊勢湾に見立てており、自然の雄大さを演出している[1]。 園内のメイン施設の清羽亭は本格的数寄屋建築の茶室である。清羽亭は、茶会などに利用され、汐入(しおいり)亭では庭園を眺めながら有料で抹茶が楽しめる。 全国でも珍しい三つの音色を奏でる水琴窟がある。

 

現在は委託を受けた会社(岩間造園、トエネック)が管理運営している。

築山の少し高くなった所のこの滝から全てが始まる。

「ガマ」の生える川を水はさらさらと流れる。

珍しい葉の白い「ハナショウブ」。

そして大きな池に流れ込む。

「スイレン」がぼつぼつ咲き始めている。近くに寄って撮りたかったが近寄る事は許されなかった。

 

「サラサウツギ」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/sarasautugi.html

モデルらしきを使った撮影が行われていた。広告にでも使うのであろうか?。

 

 今日の目的は「ブルーボネット」と言う花を見せる公園であったが、朝早く到着したので、開園時間の早いここ「白鳥庭園」に来たのであった。

ここは春の桜、秋の紅葉シーズンには再度訪れたいところであるが、今は水辺では「アサザ」「スイレン」「ハナショウブ」「フトイ」「コウホネ」「ガマ」などが咲いていた。この他「ホタルブクロ」「紫陽花」「ウツギ」「センダン」「シモツケ」などが咲いていた。

 


946 東海道 桑名宿 ⑤ 焼蛤 十念寺 など

2013-06-14 08:00:00 | 名所旧跡

2013.05.26(日)、天気はよし、”東海道五十三次の桑名宿を歩く、後期に入った野次さんと喜多さんも空腹には耐えかねて、ちょっと車に載り東海道を外れて 「はまぐり」を求めて漁港のある所にやってきた。

ここは「赤須賀漁港」、ずらりと並ぶ漁船は揖斐川長良川河口周辺での「ままぐり漁用」の船である。ここからこの船は朝一斉に漁に出るが、船には夫婦らしき二人コンビの船が多いとか。

 

漁港周辺の小売店。御多分にもれず、ここも外国産が幅を利かせているが、国産も店頭に並ぶ。

店頭の価格表示は、各500gr当たり(中ならば14~5個位と思われる) 

桑名産はまぐり 小:¥1500、中:¥2000、大:¥2500、特大:¥3000 とかなり高い。

これに対し、輸入品は大きさは中程度と見たが、同量で¥650と約1/3になっている。

ちなみに、桑名産のシジミ、アサリは同量にて¥750である。

 

我々は昼食に桑名産の「焼はまぐり」をお値打ち価格で提供すると言う、「はまぐりプラザ」に入った。日曜日であり時刻が12時を過ぎているから、超満員で受付後30分前後待たされた。

そして食べたのが下の写真で、中くらいのハマグリ5個、はまぐりい磯揚げ3個、シジミの味噌汁に、時雨佃煮がほんの少々の「赤須賀定食」¥1200であった。この上に「はまぐり定食」¥1500があるが、はまぐりは同じ、天婦羅などが付くが予約しなければならない。

よく歩いた後であるし、待たされた分空腹が増したとは言うものの、「焼はまぐり」がこんなに美味いものだとは知らなかった。甘味があり、とろけるように柔らかいが、噛みこたえがある不思議な食べ物のように思えた。

 食事は”もうちょっと食べたいつまり、”腹八分目が健康的”と慰め合って街中にもどり、寺町の無料で止められる駐車場に車を置いて、再び東海道を歩き始めた。 ここは五つの寺が隙間なく並ぶ場所、を次々と入ったのである。

 

「光明寺」

    西山浄土宗  瑠璃山

    桑名市新町50

 

 

「最勝寺(さいしょうじ)」

    浄土真宗本願寺派

    桑名市萱町88

 

この間に「仏願寺」があるが、今や寺の形態を成してないので、省略させて戴く。

 

「十念寺」

    浄土宗   仏光山

    桑名市伝馬町53     

 この寺は、757年天平宝字元年)行基によって創建されたと伝えられ、当初は現在の三重県三重郡菰野町にあったが、その後寺地を転々とし、慶長の町割によって、現在地に移転。道路を隔てた西側の墓地には、明治維新の際に桑名藩の責任を負って切腹した森陳明の墓があります。また、当寺境内に七福神を祀り、毎年11月23日には七福神まつりが開かれています

上記「桑名義士:森陳明」について、同行の友の所見をそのまま、載せたいと思う。

明治維新(戊辰戦争)に桑名藩が敗れたあと、朝廷より反逆の主謀者を出せと命ぜられた時、藩存続と藩主松平定敬(さだあき)の存命を願い、藩の全責任を 負って出頭し壮烈な十文字切腹した抗戦派責任者森陳明(もりつらあき)の墓がここにあります。

わき道にそれますが
今年の大河ドラマ「八重の桜」に取り上げられている会津藩でも同じ様に家老の萱野権兵衛(かやのごんべえ)が藩主松平容保(かたもり)の寛大な処分を求める嘆願書を提出し戦争責任を一身に引き受け、江戸に送られ切腹を命じられる。ドラマでは萱野権兵衛役を柳沢 慎吾が演じています。

東京裁判でのA級戦犯と同じでしょうか。

今回のてくてく歩き後、復習として調べた結果、朝敵とされた会津藩桑名藩であるが、一徹に戦った会津藩と恭順派と強硬派の議論の中で巧く立ち回った桑名藩との違いなど歴史の中には奥深いドラマが隠されていたのだとあらためて考えさせられました。 

 

「寿量寺」

     日蓮宗   妙延山     

     桑名市伝馬町49番地

元は今一色にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。
江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬った。入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔がある。
境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」がある。
建物は戦災で焼失。のち鉄骨木造建で本堂を再建。

 

 今回は寺社が主たる目的では無いので、紹介する写真は最少限にとどめた。”野次喜多御一行”はこの後も東海道を南下したので、続きを見て戴きたい。

                                << 続く >>

 


941庭の花 H25-14(90~96)

2013-06-12 08:00:00 | 我が庭の花

 相も変わらず庭の花で恐縮ながら、今年は咲いた花を出来る限り撮ろうと決めてやっているので、まだまだ当分の間お付き合いを賜りたいのです。

梅雨に入りながら、雨が降らないので、花にはあまり影響はなさそうであるが、これから暑くなると朝夕の水やりは欠かせない事。せめて朝夕に”にわか雨”が毎日降ってくれないかなあと、勝手な願いをしたりしている。

我が家の楽でない家計では、水道水を花に蒔く訳には行かなので、雨水を500リットル入りのプラスチックタンク3個つまり1.5Tonの水を蓄えて使っているが、雨の降らない日が続くと水道水にせざるを得ないので、この為にも時々雨は欲しいのである。

 

「サンパチェス」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/31sa/sanpathesu.html

日持ちの良い花なのでよく植えるが、毎年消えて行く。飽きもせず今年も玄関先を賑わせる花として買った。

No 90

 

「ルピナス」

  「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/91ra-o/rupinasu.html

今年の春、枝垂れ桜を見に行った時、”今年は咲かないこも知れない”として一株¥50で売っていたものが、安いから買ったが見事に咲いた。我が庭の人気ニューフェースだ。

No 91

 

「シラン」   白くても紫蘭

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/32si/siran.html

昨年、半分にちょんぎれた球根をご近所から戴いたもの、半分でも昨年は咲いたので、庭の片隅に埋めておいたら見事に咲いた。こんな日当たりの悪い誰も見もしない場所で!。

No 92

 

「ブルーサルビア」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/63hu/buru-sarubia.html

No 93

 

「ニシキシソ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/52ni/nisikisiso.html

No 94

 

「テッセン」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/44te/tessen.html

(No 48)

 

「オーニソガラム」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/15o/o-nisogaramu.html

(No 76)

 

「レイウシア」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/91ra-o/reiusia.html

今年は既に一度咲いてる(4月)のに、何を勘違いしたのかまた咲いた。家主がボケてるので真似をしたらしい。

(No 35)

 

「ガクアジサイ」

  「花写真鑑」   未登録

(No 84)

 

 

「キク」

  「花写真鑑」   未登録

「キク」は毎年のように植えてるが、あまりにもありふれているので、写真を撮ってないことに、今頃気が付いた。庭で咲く花の数を数えるのもたまにはいいことらしい。

No 95

 

「マルバアサガオ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/71ma/marubaasagao.html

先に種を蒔いたのはまだ先日、芽が出て植え替えをし、三枚目の葉がやっと出た所なのに、昨年種が落ちて一人生えをしたものが、肥料も無い所で早くも咲いたのだ。この花は原種であるだけに生命力が相当に高い事を如実に物語っている。この野生的強さは、私もこうありたい。(開花日2013.06.02)

No 96

 

 各花の右下のNoは、今年正月以来、我が家の庭で咲いた花を順番にNoを付けている。なお、同じ花を再掲載した場合は( )を付けている。  ここまでの所96種の花を撮ることが出来たのである。

 

 

 


945 東海道 桑名宿 ④ 海蔵寺 本統寺 他

2013-06-10 08:00:00 | 名所旧跡

2013.05.26(日)、 ”後期野次喜多コンビ”は、東海道桑名宿の「七里の渡し」をスタート地点として、旧道の表示に従い、四日市宿の方向に歩いている。今回のブログはその4回目で、「七里の渡し」から数百メートル、少し街道からは外れるがお寺を紹介する。

 

「海蔵寺(かいぞうじ)」 

   宗洞宗   法性山   

   桑名市北寺町10    境内自由

宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5年工事は完成されたましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃しました。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここには平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっています

薩摩藩士950名が参加した難工事で85人が命をおとしたらしく、5月25日総奉行だった平田氏の命日に合わせ、義士の子孫や市民約120名が参加して法要が行われた。(新聞記事切り抜きを友が持参してくれた)

藩士の内30名余りは病死であったが、あとの50名余りは”自刃”者であったおある。この工事が如何に過酷なものであったかが伺い知る事が出来る。これを遠い国、薩摩に命じた幕府が、後に追い落とされる要因のひとつになった事が想像できる。

下は、自刃した平田氏をコの字形に囲み23の墓がある。

なお、薩摩藩士の墓は、この寺の他、近くに3寺あり、また、岐阜県内にもあるようだ。

 

「本統寺(ほんとうじ)」     桑名別院本統寺  通称:桑名御坊、ごぼんさん

   真宗大谷派   

   桑名市北寺町47番地

本統寺は、徳川家茂や明治天皇が宿泊した由緒あるお寺で、桑名御坊とも称され、俗に「ご坊さん」の名前で市民には親しまれています。境内には、俳聖松尾芭蕉が貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折り、この地で詠んだ句「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす はせを」の句碑(冬牡丹句碑)が建てられています

松尾芭蕉の句碑(写真を撮り損なったので、ネット上で借用)

 

「常信寺(じょうしんじ)」

    浄土真宗 高田派    如法山

    桑名市南寺町12

 

「ユスラウメ」

家の庭にあって、子供の頃今は亡き弟と”とりがち”をしながら、よく食べたことを思い出す。友に名前を聞かれて「ユスラ」と言ったが、よく調べて見ると正しくは「ウメ」が付く事を今頃知った。

寺に咲いてた花であるが、名前が解らない。

 以上3寺は近接して並んでいるが、ここから500m位歩いた所にも、5つの寺がぴったりと隙間なく並んでいる。これは慶長年間の町割の際、城下の外郭を固めるために計画的に寺院が集められたものだそうな。そのひとつが次の訪問先である。

 

「教宗寺(きょうそうじ)」

    浄土真宗 本願寺派  四宝山

    桑名市新町35

明応2年(1493)開基。元は法盛寺の(寺中で)境内にあり戦災を受ける。一時は和泉に移り、昭和39年(1964)現在地へ移る。現本堂は愛知県八開村より移築したもの。

「スイレン」

 

 佳境(?)に入って来た”東海道・野次喜多道中記”は、次回は御当地名物のはまぐりを食するあたりを書いて見たいと思っている。

                                  << 続く >>

 


940 松阪農業公園 の花(2/2)

2013-06-08 08:00:00 | 公園の花

2013.05.17(金)、務めあげた会社の同期生9名とリゾートホテルで楽しい一夜を過ごした後、折角津市まできたのだからと、近くに花のある場所と言えば、ここ「松阪農業公園”ベルファーム”」しかないとやって来たのである。 

 今日はバラの展示会が行われていたが、私には全く興味なく、その他の花ばかりに、レンズを向けていた。ここは植物園ではないからか、花の名前を書いた札が殆ど無いので、初見の花を見つけても、「花写真鑑」にのせられないのである。

帰って調べるが、私の「花写真鑑」に掲げた種類が800に近づくと、名前が解らない花があって、市販の花図鑑などを見ても、殆ど載っていないのである。つまり、今私が初見の花は、最近外国から入ったばかりか、造られて間もない花であるから、図鑑に載らないのではないかと思っている。これは、私の持てる図鑑が安物だから載ってないのではなく、本を執筆する人に情報が充分でないからなんだと、自らを慰めるのであった。

 

「サルビア」  又は「緋衣草」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/31sa/sarubia.html

 

「ギョウリュウバイ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/22ki/gyouryuubai.html

白いのは初見だ。

 

「シャクナゲ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/32si/syakunage.html

 

「エゴノキ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/14e/egonoki.html

 

「バラ」 

「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/61ha/bara.html

バラはこの他に多くのめづらしい花もあったが、その代表として一つだけ載せておく。

 

「ウツギ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/13u/utugi.html

 

「ムギセンノウ」

 「花写真鑑」  未登録

写真はかなり前に撮ってるが、プログラム作成上のミスで「花写真鑑」に無い事になってる。このミスを修正し、他の改修版とともに近日公開したいと思っている。

 

「イキシア」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/12i/ikisia.html

 

「ペンステモン」 または 「ツリガネヤナギ」

  「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/flw/turiganeyanagi.html

以前から名前を探していたが、漸く見附けたもの。早速「花写真鑑」に登録した。

 

各花には、「花写真鑑」のその花のページに直行させていますが、「花写真鑑」全体を見る場合は下記をクリック願います。

   http://mokunen.c.ooco.jp/fpkan/idx/01frame.html

  

以降は名前の解らない花

どなたか名前をご存知であったら、是非コメント欄などに書き込みを戴けたら有難いのです。

 

「オイランソウ」に似るが?。

 

 

「花写真鑑」は800種掲載が目前となってきました。数が多くなると新しい花の追加、または誤りの訂正などが面倒になると考えて、細かく区分して管理していましたが、実際やって見ると、それは極めて煩雑となり、チェックも充分出来ない事が判明しました。

それで、その区分を①インデックスプログラム、②サムネイル版写真、③個別の花のプログラム、④花の写真の4つに単純化しました。  このことで追加、修正が早く出来るようになったが、950以上あるプログラムの全面書き換えが必要となり、多くの時間を要したが、それもようやく完成した。

見た目には何も変わらないが、”見え”が衰え、頭の回転が鈍感になった身で、数多いプログラムの書き換え改造は大変な労力と特に最近は忍耐が必要な事を改めて実感したしだい。

もう一つ書き加えるならば、このように思ったままにプログラムを変えられるのは、Niftyのレンタルサーバー1GBを¥100/月で借りてるメリットに他ならない。FC2の無料ブログを使って居た時の苦労が”ウソ”のように思えてしまう今日このごろです。

 

 

 


944 東海道 桑名宿 ③ 春日神社 石取会館

2013-06-06 08:00:00 | 名所旧跡

2013.05.26(日)、五月にしてはかなり暑いが、梅雨入り前の好天の一日を、高校時代の親友と二人で、東海道の桑名宿を実際に歩き、旧跡を訪ね昔をしのんでいる。

今回はその3回目で、旅人が七里の渡しで船を降りて、歩き始めて300m位の所にある神社を先ず訪問したのである。

 「春日神社」  正式には「桑名宗社」と言う。

     桑名市本町46

      拝観自由。  

下は珍しい「青銅製」で、1667年に、桑名の鋳物師が造ったもので、「勢州(せしゅう)桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に二朱女郎」と言われ、桑名の名物であったとか。

三重県人は優柔不断なところがあるが、やさしく、おもてなしがやわらかであると思っているが、当時の女性もやっぱりそうだったかと・・・・。

銅の鳥居の袂に、壊れて痛々しい感じであるが、「志るべい志」と書かれた石柱がある。この左の面には「たずぬるかた」、右の面には「おしゆるかた」と書かれている。

これは、左側に尋ねる人の特徴などを書いた紙を張り付けておくと、それを読み知った人が居場所などを書いた紙を右側に張り付けてくれると言う。

この話、私は知らなかったが、「数か月前にNHKの時代劇でやっていた」と友が教えてくれた。当時としては、こんな方法が重要な人探しの実態であったのかもしれない。

桑名宗社(くわなそうじゃ)は、桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されている。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」、「春日さん」の通称がより多く用いられ、親しまれている。また、7月末の石採御神事は天下の奇祭としても有名である。

ここからスタートした、石取祭については、下記を参考にされたし。

  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080804

 

「歴史を語る公園」

「日本橋」から始まる、東海道を模した公園である。

桑名は、東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもありました。その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口として賑わいをみせていました。このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園です。道中をイメージした道標や案内板などが設置されています

暫く進むと富士山が見え、そこは「原宿」だから右は「沼津」左は「吉原」と書いてある。

 

「石取会館」

    桑名市京町16    入場無料

石取祭を紹介している施設です。館内展示の漆仕上げの祭車は、江戸時代末期の作で、当時の技術の粋を集めたものです。彫刻は、幕末期の桑名彫刻の一端を担った野々垣兵助により施された総牡丹彫りです。永年諸戸家が所有、保存していたものを、平成元年12月に寄贈を受け、漆塗装、天幕等の補修を行い、当時のままに修復しました。当館では、ビデオなどで祭の時期以外でも”日本一やかましい祭り”を体感することができます。市内40数台の石取祭車は、各町毎の石取庫に大切に収められています

「ゴンゴンキチキチ、ゴンチキチ・・・・・」と耳の奥に響く石取祭の囃子が町内に響く。太鼓と鉦を打ち鳴らし約40台の山車が町内を練り歩くその山車がここに一台展示されている。

「石取祭」については、過去にブログを出してますので、よろしければご覧下さい。なお、コマーシャルが出る事をお許し下さい。

石取祭のブログ  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080804

 

「ゴンゴンキチキチ、ゴンチキチ・・・・・」をこの防音完璧な部屋で体験が出来る。

 

さて、本来の東海道に出ると・・・

「左は江戸」「右は京」と記した道標。指す”指”が彫られているとは、泣けるではないか!。我々は「京」に向う。(「桑名市博物館前の道路)

 

「毘沙門堂」

慶長年間の町割りの頃に福王山(三重県菰野町)に移されたが、再びここに戻されたとある。道標は東海道桑名市の最南端の「安永」の町屋川堤防まで続く。

「京町見附跡」

「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所。今は地名としても各地にそのまま残されている。

 

この後”後期野次喜多コンビ”は幾つもの道草をしながら、さらに東海道を下るのであった。

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937 庭の花 H25-13(82~89)

2013-06-04 08:00:00 | 我が庭の花

京都の寺は幾つあるか知らないが、主な所は既に119の寺を見てしまった(2008年以降)ので、本などで紹介されている寺の残りは多く無く、取材に出る事を躊躇しているために、このブログの記事がないのである。一方では庭の花など、あちらこちらでは次々と花が咲くので取りあえずの記事にしている。

花に興味の無い方々には誠に申し訳ないが、暫くはご辛抱戴きたいと思っています。 今年13回目になるが、ありきたりの半あばかりではあるが、再び庭の花を紹介したい。

 

「アッツザクラ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/11a/attuzakura.html

D99176 No 82

 

「ユキノシタ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/83yu-o/yukinosita.html

庭の片隅に放置されてるが、律儀に毎年咲いてくれる。昔は「小さい子供の”ひきつけ”への気付け薬」として大切な植物であったことを思い出す。

E99729 No 83

 

「ヒメコスモス」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/62hi/himekosumosu.html

D99741(No 50)

 

「ゼラニウム」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/34se-o/zeraniumu.html

長く植えて居て、純白と思っていたが、何故か今年になって、薄く赤い色が出て来た。今後どうなるか興味深々。

D99731(No 80)

 

「ヤマアジサイ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/81ya/yamaajisai.html

最近、ご近所から戴いたもの。

D99745

D99763 No 84

 

「ビオラ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/62hi/biora.html

今頃「ビオラ」かとお叱りをうけそうであるが、花の数には入るからと、遅まきながら仲間に入ったもの。

D99738 No 85

 

「オーニソガラム」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/23ku/kurohosiooamana.html

白に数日遅れて黄色が咲いた。白は昨年秋にお友達から球根を戴いたものが、初めて咲いた。

D99772

D99774 (No 76)

 

「バイカウツギ」

 「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/61ha/baikautugi.html

D99776 No 86

 

「ロケア」

 「花写真鑑」  未登録

つい最近園芸店で購入したもの。当然、庭でも花写真鑑でもニューフェース。

D99816 No 87

 

「コウホネ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/25ko/kouhone.html

メダカが写り込むのを待ったが、今日はご機嫌悪いのか、顔を見せなかった。

D99770 No 88

 

「バラ」

 「花写真鑑」  http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/61ha/bara.html

これもかなり前から咲いてるが、数には入るので、遅ればせながらの仲間入り。この他にもバラは各種あるが、写真を撮り損なってしまった。

D99780 No 89

 

庭の花を全部撮ろうとしたのが、2月に入ってからであって、それまでに咲いて、写真にしてないのが、「サザンカ」「ツバキ」など、また、何故か咲かなかったのが「シュンラン」「スズラン」「リキュウバイ」「ヤマラッキョウ」などがあるが、これらを含まないでも、今回で89種となった。

 

 


943 東海道 桑名宿 ② 諸戸氏庭園

2013-06-02 08:00:00 | 名所旧跡

 東海道は県内の始まりである桑名宿からであることと、桑名市は観光開発に力を入れているのか、旧跡を発掘し表示している所に目を付けた親友がそれならば二人で見て歩こうと、綿密に計画を立ててくれたのであった。

計画の提案があったので、天気予報とスケジュールを当たると、その翌日、2013.05.26(日)が最も都合が良いとして、即決したのであった。しかも、彼の車に載せてくれると言うから、私はカメラさえ持って行けばよい、大変有難い”東海道後期野次喜多珍(?)道中” が始まった。

本道中記最初は「七里の渡し」と「花町」を紹介したが、日程やお金に余裕のある、当時の旅人も桑名で観光をしたかも知れない(?)として、少し寄り道をする事にした。江戸時代にはまだ”商店”であったらしいが、今は「諸戸氏庭園」として、一般に開放しているのである。

水路の正面一帯が「諸戸邸跡」なのである。今は、「財団法人諸戸会」が運営している。(入場料¥500、桑名市太一丸18番地、春秋のみ公開)

 

「本邸」 (国重文)

通常は「本邸」で受付後「本邸」の左にある「大門(国重文)」から庭に入るようであるが、今は「大門」が修復工事中のために「本邸」に入り、入場料を払って、外に出て右に迂回して、南の通用門から庭園に入るようになっていた。  門は中心が前に偏った特殊な形をしているそうであるが、工事中で見る事は出来なかった。

この「本邸」は明治22年(1889)に建てられたものらしいが、この地は「諸戸清六」が1884年に買い取って、米の仲買などの商店として使い始めたものらしいが、一代で財を成したのはその後のようである。

 

「本邸」の北面、庭園に面している。

 

「藤茶室」

この前面に藤の棚がある。

 

「菖蒲池」

過去はこの池の水は揖斐川と繋がっており、潮の干満にともない、水位が変化するのが見えたようで「汐入りの池」と言われたようである。  (汐と言っても極薄いと思われるが、これが入ると花菖蒲がどうなるかは私は知らない)

「花菖蒲」が咲くにはまだ二週間位はかかりそう。ちょっと来るのが早かった!。

「御殿」は修復工事中で見る事も出来なかった。

 

「推敲亭(すいこうてい)」

畳三帖程の小さいもの、ちびりちびりと酒を酌み交わしながらとは書いてないが・・・月見や歌詠みに使われたとか。

 

「煉瓦倉」 (県文化財)

元は木造であったが、火災で焼失したので、明治28年にレンガ造りに建て替えたようだ。商品の米などを保管していたらしい。

 

 

 この後は本論に戻って、東海道を下りながら、旧跡を辿りたいと思うのである。

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