チャリンコによる野次喜多東海道 旧跡めぐり 第二弾第二編を紹介します。先回のブログでは員弁川南詰めからスタートし朝日町内を見て歩いた所を紹介したが、今回はその続きで、四日市市に入り、松寺、蒔田、西富田地域をめぐる事になります。
下の地図で赤線は旧東海道を示し、この道を忠実に自転車を漕いだ。その途上での丸付き数字の付いた所が、下記の記事としてあります。
① 常夜灯
この常夜灯は弘化3年(1846年)に作られたもので、昭和6年に街道西側の道路沿いに移された。「多賀神社常夜燈」「五穀成就」と刻まれている。 (正しくはここはまだ朝日町、川を越えれば四日市市) 写真常夜燈の側の道が旧東海道。
② 「御厨新明社(みくりしんめいしゃ)」
③ 「宝性寺」 本堂:市指定文化財
宗派単立 龍王山
本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財になっています。
本堂は重層(外観が2階建て)で、主屋の規模は三間四方の周囲に縁が付けられ、正面に向拝(こうはい)があり、ここの柱や頭貫(かしらぬき)に獅子や獏の彫り物が据えられています。主屋の中は、手前が六畳敷の外陣でその奥に内陣があります。内陣は、中央が板間で奥に須弥壇があり、厨子に十一面観音菩薩像が安置されています。板間と須弥壇(しゅみだん)の両脇は、それぞれ四畳敷きになっています。須弥壇奥にさらに板間があり、両脇に脇仏壇が設けられています。内外陣の境の欄干に雲龍の彫り物が施されています。派手な彫刻が施されるのは時代の好みを反映したもので、建物を重層とするなど比較的均整のとれた建築として、大工や彫物師の技量のよさを感じさせます。享保4年(1719)の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11年(1814)の建立と推定されます。
④ 「長明寺」
浄土真宗本願寺派 朝明山
蒔田城の築城年代など詳細は分かっていないが、文治年間(1185~1190)の伊勢平氏残党の反乱のとき、 蒔田相模守宗勝が居住していた。
城址は、現在では朝明山長明寺という浄土真宗本願寺派のお寺になっている。当寺は、現三重郡川越町にあったものを、慶安4年(1651)に領主松平隠岐守より当地を賜り、翌年に移したものである。
⑤ 「鏡ヶ池跡」 別名「笠取りの池」
聖武天皇の行幸にかかわる伝説が蒔田町に伝わっております。
聖武天皇が朝明頓宮に入る途中に池がありました。北風が吹きすさび、突風で天皇の笠が池に吹き落とされました。そのとき、村の少女が進み出て笠を拾い上げ天皇に渡しました。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったそうです。
聖武天皇がこの地を去るとき、少女が出て見送りました。
文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。現在では昭和8(1933)年建立の碑だけになってしまいました。
⑥ 「田村寺」
真言宗醍醐派 弘法山
明治中期の修行僧、大滋偏照二世の大導師が弘法大師を奉祀して、信徒と共に厄除大師の恩恵に浴して、大師堂を建立した。その後真養大和尚により寺格を整え、真言宗醍醐派に属することになった。地区に残る伝承の一つとして、聖武天皇が朝明行宮を営まれたおり、村長(むらおさ)の手厚いもてなしを喜ばれ、長の由緒ある「田村」姓を賜ったといわれ、この地区に多い「田村」姓の起こりといわれている。また、別の伝承では、坂上田村麻呂が東征の折にこの地で休憩したことから「田村」という寺号になったとされている
⑦ 「三光寺」
浄土真宗 本願寺派 木下山
平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑。
前回のブログの終端は朝日町の「西光寺」であったので、そこからここ「西光寺」までは約2.4Kmとなり、今回のスタート地点の町屋橋南詰めからは4.4Kmとなrった。この後は富田、茂福、羽津へと向うが、それは次回にしたい。
<< 続く >>