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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

1301 京都散策(2)真如堂

2015-03-08 08:00:00 | 京都の寺社

  ここ「真如堂」は私が京都で、いや日本で一番紅葉が美しいところと信じて止まない場所なのです。 それなのに私の訪問記録には載っていない、訪問したことになっていないのです。

 その訳は、2006年11月に来た時の真紅の紅葉の美しさのイメージを壊したくなかったからなのです。 花などはどんなに美しく咲いていても、ほんの一日違いでも、見る時期によっては大きく変わることがあり、イメージを損ねる恐れがあるからです。

上の写真は、8年前に”コンデジ”カメラでとったものであり、その美しさはあまり表現出来てはいません。 また、当時はブログもやっていなかったので、記録上は未訪問としているのです。

 

「真如堂(しんにょどう)」  正式名:眞正極楽寺

    鈴聲山(れいしょうざん) 天台宗

    京都市左京区浄土寺真如町

永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)、現在の場所に再建された。

 

「本堂」

紅葉のない「真如堂」は、余計に寒々としたものを感じてしまいますが、今の時期ここに来たことにより、原点に立ち返る事が出来て、再度ここを訪れて真紅の紅葉を求めることができると思っています。

この木々の多くが真紅に染まるのです。

 

この後は、周辺の古寺や塔頭を訪問したいと考えています。

   (2015.03.05(木)撮影)

 

                         < 続く >

 


1300 京都散策(1)金戒光明寺

2015-03-07 08:00:00 | 京都の寺社

  前に報告しましたが、「梅の名所」などを作成し、今までに訪ねたか否かを調べて、次回には効率よく「京都の梅」を回ろうと考え構えていましたが、”待てど暮らせど”開花の情報が出ません。

 気候の関係で開花が遅れているのでしょうか?。このために、ついに待ちきれず、いつものことながら、突然行くこととなりました。 慌てて訪ね先を決め、電話番号を調べてカーナビに書き込み、2015.03.05(木)8.00出発したのでした。

今週は病院の予約が3件あり、忙しいのと、天候が目まぐるしく変化するので、予定が立て難い状況が続いています。 だから、贅沢は言っておれない、梅の開花にはかなり早いが、雨さえ降らねば”ゴー”です。

 

「金戒光明寺(コンカイコウミョウジ)」  別名:「くろ谷さん」

   浄土宗  大本山

   京都市左京区黒谷町      

承安5年(1175年)、比叡山を下りた法然上人が草庵を結んだ地で、これが浄土宗最初の寺院となった。新選組発祥の地、本陣を置いたことでも有名。

圧倒されるように豪華な山門です。

 

「御影堂(大殿)」

 

「阿弥陀堂」

 

 

「梵鐘」

 

 

ピンクの花は梅ですが、まだ少し先が見頃かと思います。

 

「ウメ」

予想通り、まだちょっと早すぎました。 残念!!!

「ワビスケ」

 

 この後は、歩いてお隣の「真如堂」に向かいましたが、それは次回に投稿とさせていただきます。。

                            < 続く >

 


972 広隆寺 (京都)

2013-07-30 08:00:00 | 京都の寺社

2013.07.18(木)、余程ご機嫌麗しく(?)突然に京都にやってきた。 何処に行くかと考えた時、名前が知られていてまだ行ってない寺と来ると、ここしかないとやってきたのが、太秦(うずまさ)にある聖徳太子ゆかりの寺である。

 

「広隆寺」  (こうりゅうじ)      真言宗(単立)  蜂岡山

   京都市右京区太秦蜂丘町32

   拝観料¥700  駐車場無料

7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。

欅の大木であるが、根元で仲良く繋がっている!。・・・・・ひこ生えが育ったのであろうか?。

「上宮王院太子殿」(本堂)

新霊宝殿には、国宝の弥勒菩薩像(国宝第一号)など多数の仏像が並ぶが、撮影は”厳格”に禁止されていた。

 

「太秦」の地名について・・・ 

昔この辺りは渡来人秦(はた)氏一族が居住し、農耕・機織り・醸造を伝えたとされる。
秦酒公(はたさけのかみ)が、秦氏の諸族とともに多くの蚕を養い、絹などを多く織り、その品々を天皇に献上した。献上された絹布や織物が山の如くうず高く積み重ねられたという。
天皇はことのほか喜ばれ、秦酒公に対して“うずまさ”の号を授けられた。いつしかその称号が地名になった。
飛鳥時代に秦氏の子孫秦河勝(はたかわかつ)が聖徳太子に仕えて仏法を興隆し、太子の菩提のために建立したのが広隆寺であり、太子の「太」の字と秦氏の「秦」を取って、太秦(うずまさ)と読むとしたと伝えられている。

                                              以上


971 真夏に京都を尋ねる

2013-07-27 08:00:00 | 京都の寺社

梅雨が明けてから、数日は強烈な太陽光に恐れを抱くほどであったので、 外に出る事を躊躇していたが、ここ2~3日は驚くほど涼しい日があり、エアコン不要の日が結構あった。

そんなある日、前夜の「京都祇園祭」に刺激されて、急に行こうと決まった。京都なら行く所は決めなくてもいくらでもあると考え、まずは「八坂神社」に行って、祇園祭の名残でも見ようと出掛けたのであった。 

前日は7/17日であり、祭も最高潮で、凄い人出であったろうが、今日は駐車場もガラガラ。 祇園、四条通りもいつもの賑わいはあったものの、祭の雰囲気は殆ど見られなかった。

四条通りを「八坂神社」の門から見る。 

 

神社の境内も登り旗や提灯は見られるが、人出はご覧の通り。

前回訪問時の記録は・・・http://ouren33.blog.fc2.com/blog-entry-24.html

 

 

続いて、「知恩院」に入ってみるが、本堂(御影堂)は未だ工事中。 「法然上人御堂」に入って、しばし、心静かに読経を聞く。 内部は写真撮影禁止で写真はなし。

前回訪問の記録  http://ouren33.blog.fc2.com/blog-entry-26.html

   

 

そのあと、まだ蓮が間に合うと思い、「法金剛院」に来てみる。

   入場料¥500.  駐車場あり無料

上の写真下中央は、「ブルーベリー」のそして、右は「サンショ」の実。 

前回訪問記録 http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20100416

 

蓮は咲いてはいるが、花の数が全然少ないのはどうしたことであろうか?。 これでははるばる京都の蓮を見に来た甲斐がない。  

 

恐らく、専門家が付いているであろうここも、出来不出来はやむを得ない、自然現象なのかも知れない。 我が家ばかりではない事を知り、少し安心すると共に、期待に反したのでがっかりもした次第。

この後は、「広隆寺」を尋ねたが、それは次回にしたい。

 


921 京都伏見を撮る⑨ 伏見稲荷

2013-05-13 08:00:00 | 京都の寺社

 取材(?)に訪れたのは、2013.04.08(月)であったから、一ヶ月以上も経過してしまったが、このブログは私の行動の記録でもあるので、遅ればせながら掲載させて戴くもの。

 

「伏見稲荷大社」

ここは何度も来ているので、詳細が必要な方は 2010年2月の記録をご覧戴きたいと思います。

  http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20100205 

「千本鳥居」

 

この日は”お釈迦様の日”甘茶に出会う事もなく、日の傾いた時刻になったので、ここを最後として、今回の「京都伏見を撮るシリーズ」は完結とさせて戴く。左程長編でもないのに、季節の話題が次々と割り込んできたおかげで、随分と間の抜けたシリーズとなってしまった。

 

ホームページについてのお知らせ

  ホームページ表紙 http://mokunen.c.ooco.jp/

① 「花写真鑑」に新しく47種を加え、合計767種を掲載することになりました。

   「花写真鑑」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/01index/012frame.html

  先日、名古屋東山植物園に行き、咲いてる花を片っぱしから撮った結果です。一部は同日訪れた「東谷山フルーツパーク」の花も加えております。 

   「ブログ索引」 http://mokunen.c.ooco.jp/blog-index/blog-index-1.html

② 「ブログ索引」を更新しました。

  最近尋ねた、京都奈良の寺院神社、記念館などを書き加えて更新しました。

 


920 京都伏見を撮る⑧ 西運寺 仏国寺

2013-05-10 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.04.08(月)お釈迦様の日、どこかで甘茶のサービスに出会えると思って出たのは間違い甘い妄想であった事を漸くここに来て知った。

 「西運寺」  (さいうんじ)  別名:たぬき寺

    浄土宗

    京都市伏見区桃山町秦長老108

    境内自由、 駐車2~3台可

       堂内等は固く門が閉ざされていて入る事は出来なかった。

1596年(慶長1)の開創。幕末のころ、住職が裏山「指月の森」に住みついたタヌキにエサを与えて手なづけた。近くの俳人、歌人、画家も見物に訪れ、京焼の名工高橋道八がタヌキの焼物を寄進し「タヌキ寺」と有名になった。浄土宗。花器、徳利などコレクションを無料で公開。


 

 

 「仏国寺」  (ぶっこくじ)  

     黄檗宗万福寺派   天王山

     京都市伏見区深草大亀谷古御香町30

     境内自由、 駐車無料 

延宝6年(1678)高泉性とん(こうせんしょうとん)和尚がもとこの場所にあった永光寺を復興して仏国寺と名づけたのがはじまりである。高泉和尚は中国福清の人で寛文元年(1661)隠元禅師の招きで来日し万福寺5世となり、元禄8年(1695)に歿した。後水尾上皇より「大円覚」の宸筆勅額を賜わり、往時に講堂を完備していたが、明治維新の後、荒廃し、現在本堂と庫裏をとどめるのみである。本堂には釈迦三尊と毘沙門天を安置する。  境内には、開山高泉碑(重要文化財)があり、正徳元年(1711)鋳造した中国風の銅碑として有名で、高泉和尚の教えをうけた近衛家熈(いえひろ)の撰文である。

ここは「伏見桃山陵」の北、小高い丘の上、回りは住宅が広がる見晴らしのよい所だ。

堂宇には入ることが出来なかったし、スト-リーも何もないが、訪れた証拠として残したく思い掲載するもの。 

ここを出たのが16時を過ぎていたが、珍しくもう一つ行くと言うので、この時間でも入れる大きい所と言えば、伏見稲荷大社しかないと向ったのであった。

 


919 京都伏見を撮る⑦ 乃木神社

2013-05-07 08:00:00 | 京都の寺社

2013.04.08(月)、京都市伏見区を「城南宮」を皮切りに5寺、2社と2ヵ所の記念館などを尋ね歩いて来た。そして今度は10番目の訪問先である。ここは「伏見桃山陵」に上がる道の途中にある・・・。

 「乃木神社」  (のぎじんじゃ)

       京都市伏見区桃山町板倉周防

       参拝境内自由   駐車無料

乃木神社は、乃木希典(陸軍大将)を祀る。大正5年(1916年)に創建された。建立の中心となった村野山人薩摩藩出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した人物である。明治天皇の大葬の際、京阪電車の会社代表として参列。その場において乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。そして、乃木希典の1周忌に会社の職を辞し私財を投じて、乃木将軍の人となり・日本人の心を後世に伝えることに尽くそうと考えた。それが明治天皇の陵の麓に神社を立てることであり、精神の高揚を図ることであった。ここに京都の乃木神社の由縁がある。

 

日露戦争を戦った巡洋艦「吾妻」の主錨をモニュメントにした、旧海軍将兵慰霊碑、石柱には「滄海に眠る若人の碑」とある。

 

「日露戦争時に旅順柳樹房で大三軍司令部として使われた民家を移築」

「ミモザ」

「花写真館」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/72mi/mimoza.html

「ハナカイドウ」

 「花写真館」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/61ha/hanakaidou.html

「オウゴンガシワ」

 「花写真館」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/15o/ougongasiwa.html

 

 そろそろ時間も16時を過ぎたし、足の疲労も限界が見えて来たが、もう一踏ん張りとしt、この後は、「仏国寺」に向った。

 

 


918 京都伏見を撮る⑥ 本教寺 長建寺

2013-05-04 08:00:00 | 京都の寺社

 伏見区にある寺田屋を出て、濠川の美しい柳に見とれながら、川の上流方向(南東方向)に少し歩くと、数分でこじんまりとした古寺に到着する。

 

 「長建寺」    (ちょうけんじ)   正式には「弁財天長建寺」  島の弁天さん

     真言宗    東光山

     京都市伏見区東柳町511

     拝観境内自由  駐車場無料

桃山城の塔頭、「多聞院」から移された寺。八臂弁財天は太閣秀吉の守り本尊で、伏見の弁天さん(島の弁天さん)と呼ばれ親しまれている。

豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は元和5年(1619年)廃城後、伏見の町は衰退し、13代目伏見奉行 建部政宇(たけべまさのき)は元禄12年(1699年)、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築した。建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こり。

 

伏見の名水「閼加水(あかすい)」

手水の大きな石槽は、平安時代中期の即成就院から移されたものといわれる

「長建寺」を出て、濠川を渡って、北の方向に10分ばかり歩き、「大手筋通り」のアーケード通りから直接入ると、ここにも古寺がある。

 

 「本教寺」    (ほんきょうじ)

       日蓮宗    福昌山

       京都市伏見区東大手町778

        参拝境内自由   駐車場なし

本教寺は、文禄三年(1594)、日新上人の法孫・教行院の日受上人により創建されました。
日受上人は当初は西浜堺町(伏見区)に小庵を創建したのですが、徳川家康の第二女・良正院督姫の篤い帰依を受けて、慶長十九年(1614)に、督姫が十六才で姫路城主・池田輝政の令室として嫁ぐことになった際に、その館と敷地を寄進されて現在地に移転しました。当時は広大な敷地を持っていたようです。
督姫は幼少時より、当時伏見城にいた太閤豊臣秀吉に寵愛され、池田家との媒酌も秀吉が自身買って出たとも伝えられます。当時秀吉から督姫が賜ったという伏見城の牡丹は、現在も境内で花を咲かせていることから、本教寺は、豊公遺愛 督姫手植えの牡丹のある寺、「慶長牡丹の寺」として親しまれています。

 

「楠」の大木が・・・。

 

この後は、月桂冠の本社前の駐車場に戻り、車に乗って「西運寺」に向ったが、その記事は次回にしたい。

 

 


915 京都伏見を撮る③ 御香宮神社

2013-04-29 08:00:00 | 京都の寺社

2013.04.08(月)、今日はお釈迦様の日、昨年同日に京都知恩院に参って、偶然”甘茶”を御馳走になったのが非常に嬉しかったのか、夢よもう一度と出掛けたが、今時金にならない事をする寺は少ないのか、諦めて神社でもよしとして、予定表の通りに進むことにしている。

 

 「御香宮神社」  (ごこうのみやじんじゃ、ごこんさん)

       京都市伏見区御香宮門前町

       拝観境内自由   社務所石庭¥200  駐車無料(拝観の場合に限る)

神社としては珍しく、鳥居の前に立派な「表門」がある。

初めは「御諸神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によると、この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったというが、実際には菟芸泥赴によれば、「筑前国糟谷郡の香椎宮から神功皇后を勧請し、神功皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す「とあり筑紫香椎宮をこの地に分霊し勧請した説の方が有力である。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。

豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている)。

後に徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。

明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍薩摩藩)の本営となったが、本殿等は無事であった。

 

「割り拝殿」

神徳”安産”を示す石標

名水「御香水}

 

「本殿」

赤い花は「キクモモ」。

  「花写真館」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/22ki/kikumomo.html

 

この後御一行様は、「月桂冠大倉記念館」に向ったが、記事は後日掲載とする。

 

 


914 京都伏見を撮る② 誕生寺 恋塚寺

2013-04-27 08:00:00 | 京都の寺社

2013.04.08(月)、自宅を午前7時30分に出発。名阪道、新名神、名神を極めて順調に走り、9時半頃には第一の訪問先の「城南宮」に入り、ゆっくりとそこを見た後一号線を少し走り、県道222を西へ向い桂川を越えた所にあるのが次の訪問先である。11時丁度に到着。

 

「誕生寺」    正式には「誕生山 妙覚寺」

      京都市伏見区久我元町

      拝観境内自由,    駐車無料 

曹洞宗の開祖道元禅師(1200~1253年)は土御門通親と藤原基房の娘
伊子の子として生まれ、幼少の頃は宇治市木幡の木幡山荘(基房の別荘)
で過ごし、13歳の時比叡山延暦寺で得度している。
出生地には2説ある。
①信仰上の説:京都市伏見区久我の地 現在、誕生寺がある地区
②歴史上の説:宇治市木幡の木幡山荘 現在、(財)松殿山荘がある
といわれているが、詳細は不明である。

誕生寺は大正年代に建立計画が立てられ、昭和57~62年に建立された新しい寺。境内には本堂、山門、稲荷堂、庫裏、座禅堂、鐘楼、水屋等と駐車場がある。

 

少年期の道元像

古寺の積りで来たけれども、小寺と言った方がよさそうではあるが・・・。

 

 「恋塚寺」

      京都市伏見区下鳥羽城ノ越町

      拝観境内自由    駐車場2台無料

 利剣山(りけんざん)と号する浄土宗の寺院である。  寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤(えんどう)武者盛遠(もりとう)が、渡辺佐衛尉源渡(みなもとのわたる)の妻、袈裟(けさ)御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。  盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して文覚(もんがく)と名乗り、彼女の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。  本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。  境内には、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える石塔が建てられている。その傍の六字名号石は、法然上人の筆で文覚上人が建立した石板と言われ、この筆蹟は、人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られている。

 

 

 激しい恋物語はよいけれど、人の妻を横恋慕してはいかんわなあ!。挙句の果ては彼女を殺してしまい、その供養にと建てた寺のようであるが、後になっていくら悔やんでもそれこそ、後の祭りの何ものでもないわなあ!。

 

この後は「御香宮神社」に向った。

 

 


913 京都伏見を撮る① 城南宮

2013-04-26 08:00:00 | 京都の寺社

昨年の今日、たまたま「知恩院」を尋ねた所、桜も美しかったがお釈迦様の日に当たり、「甘茶」が無料で振る舞われた事が余程嬉しかったのか、2013.04.08(月)、 それを思い出して、京都に行こうと言う。こんな事は余りないが、ならばと、予てから計画していたコースに出掛けたのであった。

私の計画表にある寺社などは、まだ尋ねてない小さい古寺社ばかりであり、妻には面白くないと言うので、桜がぎりぎり間に合う事を祈りつつ、特別に入れたのが、最初に組入れた「城南宮」なのだ。ここは私は過去少なくとも3回はきているが、桜の時期は初めてであった。

前回は2008.06.06に日帰りバスツアーで来ているが、記録は下記・・・・。

      http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080611

 

 「城南宮」   (じょうなんぐう)

     京都市伏見区中島鳥羽離宮町7

     拝観境内自由、庭園¥500   駐車料:無料

創立年代は不詳である。この地にあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝える。平安遷都の際に国常立尊が併祀され、城(平安京)の南にあることから「城南神」と呼ばれた。白河天皇鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部となり、代々の天皇や上皇の行幸がしばしばあった。また後代になると京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。

応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興された。幕末の文久3年(1863年)には孝明天皇の攘夷祈願の行幸があった。新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの主戦場となったものこの地である。

 

「曲水の宴」が行われる「平安の庭」

 

「ワビスケ」   「胡蝶侘助」と書かれていた。

  「花写真館」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/96wa/wabisuke.html

 

「ツバキ」   「玉の浦」と書かれた札が・・・

  「花写真館」 http://mokunen.c.ooco.jp/h-p-syuu/43tu/tubaki.html

 

「春風」 ¥1050の札が・・・

 

「金華茶」との表示があった。 そう言えば葉はかなり大きいがお茶だ。

  「花写真館」には未登録。

 

「桃山の庭」「城南離宮の庭」

 

枝垂れ桜に間に合って大変良かったと思う。

 

この後は、「誕生寺」に向った。


870冬の京都寺社巡り(10) 晴明神社

2013-02-21 08:00:00 | 京都の寺社

 真冬にも関わらず好天の、2013.01.31(木)本日最後の訪問予定とした神社にやってきた。

 

「晴明神社」

      上京区晴明町806番地1

 

安倍晴明を祀る。一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する。全国各地に同名の神社が存在する。

1005年に晴明が亡くなると、時の一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当地の社地は広大なものであったが、戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年には堀川通に面するように境内地が拡張された。

平成になると、漫画化・映画化もされた夢枕獏の小説のヒットにより、安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れるようになった。晴明歿後千年となる2005年には安倍晴明千年祭が行われた。

 

 私の知人がつい先日、詳しい歴史を書いたブログを投稿されていたので、再度ここで紹介したいと思います。また、秋はこんなにも色取りがよく美しいのだと言う事も・・・

     http://blog.livedoor.jp/shimajirokumagoro/archives/23356347.html

 

「冬の京都の寺社めぐり」はこれにて完結としますが、このあと近くの「西陣織会館」を尋ね、和服の美女をたっぷり撮って来たので、「ふろく」として次回に掲載します。

                                    <<  完 >>


869冬の京都寺社巡り(9) 浄福寺

2013-02-19 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、稀に見る雲ひとつも見当たらない好天のなか、京都市上京区を友と二人で歩いている。この辺りは寺社が密集しており、歩いて回るには最適の場所である。この日は京都駅から市バスにて北上し、「天神公園前」似て下車し、「妙蓮寺」を皮切りに8つの寺と3つの神社をみ来たたが、12番目に訪れるのは、お寺としてはしめくくりとなる、「浄福寺」なのだ。

 

「浄福寺」  (じょうふくじ)   別名:村雲(むらくも)寺、赤門寺

     浄土宗    山号:恵照山

     上京区浄福寺通一条笹屋町

はじめ天台宗で延暦年中(782~802)、賢憬大僧都の開創と伝えられ、当時二十五大寺の一つに数えられていた。たびたび火災にあい、建治2年(1276)後宇多天皇の命によって一条村雲に再建、ついで室町時代末の大永5年(1525)後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、のち知恩院に属した。この地に移転したのは元和元年(1615)のことで現堂宇は享保18年(1733)の再建になるものである。  本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、釈迦堂は三国伝来と伝える釈迦仏を安置する。寺宝には、二十五菩薩来迎図(鎌倉時代重要文化財)二幅、土佐光信筆十王像(室町時代重要文化財)十幅などがある。  また境内の墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿、殿上人の墓が多い。

 

別名の「赤門寺」の名前を象徴する門

 1788年(天明8年)京都で歴史上最大の大火、俗に言う天明の大火が起こり火は浄福寺にも迫りましたが、このこの朱塗りの東門の手前で止まりました。
 火を止めたのが鞍馬から舞い降りてきた天狗で、天狗は赤門の上で巨大なうちわをあおいで火を消したのだといわれています。
 様々な伝説を持つ鞍馬の天狗ですが、ここ浄福寺にもそんな天狗の伝説が残っていて、傍らに火を消したという天狗が祀られています。
 また、この赤門は秀吉がつくった聚楽第の一部分ではないかという説もあるそうです。

 

 

夕陽は西の山に近づいたが、まだ4時にはまだ少しあり、足の疲労度は限界、そろそろビールタイムとの誘惑感もあるが、何時もの事ながら、欲をだしてもうひとつ「晴明神社」尋ねることにしいたが、それは次回に掲載しようと思っている。

                                     << 続く >>

 


868冬の京都寺社巡り(8) 首途八幡宮

2013-02-17 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)、真冬の京都市上京区にある、寺院、神社を見てあるいているが、その11番目となるのは・・・

 

「首途八幡宮」  (かどではちまんぐう)  

       京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102-1  

        境内自由

この地は奥州平泉まで牛若丸(源義経)に付き添った金売吉次の屋敷跡と伝えられているところで、その鎮守社が首途八幡宮。もとの名を「内野八幡宮」といい、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられる。大内裏(御所)の北東(鬼門)に位置したことから王城鎮護の社とされた。この地は清和天皇の第六皇子であった貞純親王の邸宅・桃園宮の旧跡。邸宅は広く、庭園は池と築山を中心に周辺に桃の木が植えられ、春になると一斉に桃の花咲き、桃花祭が執り行われた桃園だったことから、貞純親王は桃園親王とも呼ばれていた。その後、応仁の乱の兵火や天明の大火により社殿、宝物・社伝類の殆どを消失している。現在の社殿は、昭和40年代(1963~74)に地元の人々によって再興されたもの。
 社伝によると、承安4年(1174)3月の夜明け、鞍馬寺に預けられていた牛若丸(源義経)は平氏からの難を避けるため、鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼ることになった。この首途(かどで)の手配をしたのが奥州の商人・金売吉次(橘次とも)。鞍馬寺を出た牛若丸は、吉次に伴われ吉次の京屋敷近くにあった「内野八幡宮」に立ち寄り、奥州平泉への旅の安全を祈願したという。「首途( かどで )」とは「出発」の意味で、この由来により「首途八幡宮」と呼ばれるようになったという。

住み慣れた鞍馬を出て、奥州に向う義経の心境や如何に?。

しかし、平氏討伐後に兄にあらぬ疑いを掛けられて再び旅立つ時に較べれば希望はあったと推測する。

 

今朝からすでに15000歩を越えて歩いたので、足の疲労はピークに来ているが、まだ15時を過ぎたばかり、カフェで休憩の後、あと2ヶ所を見ることにしたが、それは次回に公開したい。

                                     << 続く >>

 


867冬の京都寺社巡り(7) 本隆寺

2013-02-15 08:00:00 | 京都の寺社

 2013.01.31(木)は真冬にしては珍しく、雲一つもない好天にめぐまれ、友と二人で京都市上京区を歩いている。

京都駅から市バスで堀川通りを北上し、バス停は「天神公園前」で降り、「妙蓮寺」を皮切りに、七つの寺と二つの神社を見て来たが、その10番目の寺は、下ってきた千本通りから少し東に入った所の寺にあるのだ。

 

「本隆寺」  ( ほんりゅうじ)  正式には本妙興隆寺

     法華宗  慧光無量山     

     京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330

     境内自由

 本隆寺は法華宗(真門流)の総本山で京都西陣の地にあり、慧光無量山本妙興隆寺(えこうむりょうさんほんみょうこうりゅうじ)と号し、略して慧光山本隆寺といいます。

 開祖日真大和尚(にちしんだいかしょう)は、長享2年(1488)に妙顕寺を出て、四条大宮に本隆寺を開創しました。後柏原天皇等のご支援を得て法運は隆盛しますが、天文の法難に遭遇し、諸堂は悉く消失し泉州堺に避難することとなります。

 天文11年(1542)春、現在の地を得て再興され、承応2年(1653)には大火により諸堂を失いますが本尊は無事で、万治元年(1658)に再建されます。

 天明8年(1788)の大火により、再び山門・鐘楼・方丈・塔頭(たっちゅう)と悉く焼失しますが、本堂・祖師堂・宝庫は消失を免れます。それより「焼けずの寺」の異名がつくようになりました。

  現在、大火を免れた本堂(府指定文化財)は京都16本山の中で最も古いものとして今日に伝えられ、祖師堂(府指定文化財)・番神堂・鐘楼・経蔵・宝物殿・方丈・信徒会館があり、また塔頭八支院が境内を取り巻くように立ち並んでいます。

真冬のお寺、何も色気がないのは誠に残念!。

見事な「イチョウ」の木だ、秋はさぞかし美しい黄葉に染まるであろうと思うばかりである。

 

 

ここを出て約100m歩けば、次の目的地「首途神社」に到着するが、記事は次回にしたいと思う。

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