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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

1687 大河ドラマ館(食事会12-5)

2017-11-28 08:00:00 | その他

  食事会と称して浜松市周辺にきているが、フルーツパーク、方広寺、龍潭寺を見て、浜松駅の北側近くの「大河ドラマ館」のある場所にやってきた。 

ここは関所のような作りにしてあり、「出世の街 浜松」を表し、徳川家康や井伊直虎ゆかりの地の紹介や土産品を販売する場所である。

  

 

 

 ここまで来て、「大河ドラマ館」へはもう少し歩かねばならないが、足がもう限界と言い始めた。 その上館内は撮影禁止の所があると聞いては、それを押して行く気にはなれず、ここで断念せざるを得なかった。

 せめて外観だけでもと、車中から撮ったのが下の写真である。

 

折角、ここまで来て、誠に勿体ないことをしてしまった。

 

最後が尻切れトンボになってしまったが、浜松での”食事の写真のない第12回の食事会”はこれにて終了となり、東名道に上って帰還したのであった。


 

                       << 完 >>

 

おしらせ!

 この後は、ネタ切れで当分の間、休ませて戴きます。


1672 鳥の鳴き声・笛大集合

2017-10-02 08:00:00 | その他

 ある日友がダンボール箱いっぱいの、小さな木箱などを持って、処分したいが、記録に残したいので、写真を撮ってくれとやってきた。 中身は何と鳥の鳴き声を出す笛であった。 一通り吹いてみると、どんな鳥か良く分からないが、それらしき鳴き声がきちんと出るのであった。

 以前、彼が毎月三千数百円出して、購入したものらしいが、まだ吹いた事も無いものもあるという。 そこで、彼の要望を聞き、記録を残すための写真を撮ってみたので、ならばと、ブログのネタにさせてもらった。

 

まずは全体像から・・・

 笛は全部で16個あり、全て外国で作られたものであり、フランス製が14個あった。この14個は一個ずつ箱に入っており、鳥の名前が解るようになっていた。箱のない2個は鳥の名前は不明。

 

主な笛を紹介しよう

「ひばり」

箱 の中にある紙切れには・・・

 冬の鳴き声は、陽気さが欠ける。夏の鳴き声をまねるには、息を吸い込みながら、喉を鳴らす。 ひばりは長期間休むこと無く、鳴くけれどあなたは?・・・・・とあった。

 

「き じ」

 全体が金属製である

 昭和20年代、父が猟銃を持っていて、子供の頃、鳩や雉をよく食べさせられたが、雉を寄せる笛を持っていたが、この笛とはかなり音が違うように感じる。 数十年以上前のことだから、記憶は定かではないが・・・?。 雉もフランス語を使っているのかも?。

 

「えぞらいちょう」

 金属のパイプと口を付ける所は、プラスチックになっている。

  

「つぐみ」

 「つぐみ」と書いた箱が二つあり、念のために箱の中を調べて見ると、「grive]とフランス語らしきがあった。我が家にはドイツ語と中国語の辞書はあるが、フランス語はないので、ネットで調べた所「ツグミ」であることが解ったもの。


  この笛は、口で吹くのではなく、写真の黄色い部分を持ち、右のゴムの部分を手で”チョンチョン”と叩くとそれらしき可愛い音がするようになっている

 

「くろうたどり(黒色つぐみ)」

 これも外側のラベルには「つぐみ」となっていたが、箱の中の紙には、「merle」とあったので、調べて見ると、上記名前であることが判明したもの。 「つぐみ」との表示は、誤りではないかも知れないが、同じ書き方では、少し不親切であり、見る者を惑わせるのではないかと思う。

 

「だいしゃくしぎ」


  これも口で吹くのではなく、黒い部分を持ち、右の金属の部分を押しながら回すと、木と金属がこすれて独特の音を発する。 私は見たことも、鳴き声を聞いたこともないが、これが「だいしゃくしぎ」の鳴き声に似ているのであろう!。

 

「ふくろう」

 この笛は、真ん中を口でくわえて、作られた溝のような穴を吹いて音を出すのである。 吹き方が書いてあるが、結構難しい。

 

 この他に笛のある鳥の名前のみ書いておくと、「まがも」「せきれい」「ちどり」「やまうずら」「ないちんげーる」「しぎ」「たひばり」などである

 

 鳥の名前が解らないが、この笛は頭部が動くようになっており、笛の途中の穴を防ぐことで、音色を変えている。 置物にもなりそうなデザインでもある。

 

 本来なら、笛を吹いて音をここに載せるべきではあるが、それは叶わず残念ながら、音なしとした。

 この笛は数も揃っており、有効に使ってもらえる人を捜してくれと頼まれたが、中々そんな人は見つからず、別の友の小さい孫の遊び道具になる様相であるが・・・・・?。

 

 


1606 孫の入社

2017-05-05 08:00:00 | その他

  孫が大学院を卒業し2017.04.03(月)、私が長年勤めた会社に入社し、2017.04.27(木)に到着した「社内報」に載っていることを確認し、草稿を思いついたのであった。 今年の新入社員曰く、「大きすぎず、小さからず」とこの会社を表しているがその通りで、一部上場で電磁開閉器などの特定の分野では、国内外市場の先頭をゆく会社である。

 私は退社してから既に十数年経過したので、最近の会社の状況は社内報で見る範囲になるが、私が入った頃は総合電機メーカーをめざし、当時は家電部門もあって私は冷蔵庫、エアコン、ジューサー、クリーナーなどのモーター製造に従事した事があるが、今は自動販売機にその名残を残すも、電気機械器具の専門分野に特化しつつあるようだ。

  嫁いだ娘の子が、この会社に入り、東京の本社で目出度く入社式を終えたのであった。 そしてその社内報の表紙に同日入社した、278人と共に写真が掲載されたのであった。 この社内報は1951年の創刊と書かれているから、私が入社5年目の年であった。 ここに顔写真が載るなど、雲の上の話との理解しかなかった。

 私の身内には多くがこの会社で仕事をしているが、そこに可愛い孫が、 私が長年勤めた会社に入ってくれた事はもう天にも昇る気持ちであり、言葉に言えない程の喜びであるが、何かと当たり障りもあろうかと控えていたが、この快挙により書くことにした次第である。  

 

上記で、身内の多くがこの会社と関わったと書いたので、そのことを少し書き残そうと思う。

  私は四日市の工業高校を卒業し、昭和31年4月2日(月)、この会社の三重工場に入社した。多分今も同じと思うが、大卒は本社で採用され、入社式をするが、高卒、中卒は工場採用なのである。 この時点では、この会社に私の身内では一人もいなかったのである。

  昭和40年私は結婚したが、聞けば妻は二年ほどではあるが同じ工場にいたと事があるという。 私は仕事が現場の係員であったから、妻のいた職場にも再々出入りしていたが、当時は従業員が4000人ほどいたこともあり、全く知らなかった。 (2人)

  妻の父親の姉の連れ合いが、同じ工場に勤めており、また、家内の母の弟がやはり、同じ工場に勤めていた。 時は流れるが、その息子もこの会社に勤務していた。(以上で合計5人)

  昭和41年に長男が生まれた、そして大学を卒業し、この会社に入り、当然本社採用であり、幾つかの支社をまわり、今は名古屋で営業部門に在籍している。 (6人)

  昭和43年に長女が生まれた。 本人は大学に進みたかったようであるが、私は女性の高学歴は結婚の邪魔、金持ちのすることと思い込み、父のドタバタ騒ぎで、娘も相談の機会を失い、気持ちを汲んでやることが出来なかった。 

  それで、娘は高校(進学校)を卒業し、私の勤める会社に入れたのであった。 そして、娘は社内恋愛により結婚した。 (これで合計8人)

  そして、その娘夫婦の子(私の孫)が、この度入社したのであった。 (合計9人)なお、これを書く時点では、この会社に在籍するのは、息子と娘の夫とその子の3名である。

                             以上

 

追記

 本ブログは4月6日以来毎日発行が続き、本日で丁度1ヶ月となった!。 春は花が多いので、俄然元気になるからと思われる。 一日も長く続けたいが、はたして、それが・・・・?。


1604 わらび採りで”新種”

2017-05-02 08:00:00 | その他

  先日、近所から“タケノコとわらびの煮付け”を戴き、大変美味しく戴いたが、しかし、何故か我が家では通常は「わらび」は全く口に入らない。 それなのに家内は近所では“わらび取り名人”とお世辞を言われるほどに採るのが好きなのである。 それをあちこちに配るから悪くは言われないで済んでいるようだ。

  わらびを採る場所は遠くではないが、私はその運転手を仰せつかるのであった。 採っても食べないのであるから、私は採ってはいけないので、近くの喫茶店で客待ちをしなければ成らず、その代金¥400のみ戴くことになっている。

  しかし、今日は時間が早いためか、喫茶店はまだ閉まっており、仕方なく新名神高速道の工事状況でも見ようかと車を走らせた。 その結果、あるお宅に庭先で珍しい花、私の「花写真鑑」にまだ登録の無い花(以下“新種”という)をみつけたのであった。 撮影 2017.04.25(火)

  

「ミツガシワ(三槲)」  “新種”登録 第1467号

  “新種”であることは、見た瞬間分かったが、名前が分からない。 帰って調べるも私の持つ文献には書かれていないので、「みんなの花図鑑」に投稿したところ、30分も経たないうちに返事があって、名前が判明したのであった。

  

 

 

新名神高速道路の工事状況

  新名神高速道路の菰野インターチェンジは町役場の近くに出来るらしいが、二年後を目指した工事が行われており、道路はダンプカーの運行が一段と増加したようにも見える。 これが、我が家のすぐ近くで行われているので、期待と不安両面を持ちながら、成り行きを見守っているところである。 

  B&G海洋センターから見た写真であるが、新名神の工事が着々と進んでいる。 (2017.04.10撮影)

 

  新名神を二階にある私の部屋の北側の窓から、北西方向にカメラを向け、300mmの望遠レンズを一杯伸ばした状態で撮ったのが下の写真である。茶色い土の上にブルドーザーが見えるが、今の高さが盛り土の最上部に近いと思われる。

 距離は私の部屋から1000mも無いと思うし、川で隔てられてはいるが、障害物がないから、高速道路の車の走行が見えることになる。 見えるのは構わないが、防音壁が付いたとしても、雨上がりなどは、音が気になるのではなかろうかと少し危惧している。

 

   喫茶店が閉まっていたおかげで、”新種”を発見し、ブログの一ページを飾る事が出来、その上¥400の純利益が得られた!。 ほくほく!!!。

 

                 以上


1562 中電川越火力発電所見学

2017-02-27 08:00:00 | その他

  2017.02.19(日)、第七回食事会と称して、焼きはまぐりを堪能した、高校時代の仲良し3人は、食事の後、車で10分ほどの所にある、中部電力の川越火力発電所へとやってきた。 ここは毎日曜日と祝日は先着40名に、無料で「発電所探検ツアー」と言う見学会を実施している。 文字通りこれは、子供を対象に企画されたものであるが、年取って子供に返ったから私たちもよかろうと参加したのであった。

  三重県三重郡川越町に、敷地面積 108万㎡、4系統の総発電出力480万kwを有し、一号機は1989年6月から、四号機は1997年11月から営業運転をおこなっている、中部電力の天然ガス火力発電所である。 世界最大の発電所であった時期もあったが、今は台湾、韓国、東電などに抜かれ四位以下になったようだ。 

 「発電所探検ツアー」は、10時30分からと、14時からの二回行っており、参加者は「川越電力館・テラ46」(下の写真)に集まり、全員の名前と、代表者の住所を書いて受け付けられる。 (テラとはラテン語で地球の意、地球誕生から46億年だそうな)

 

「テラ46」の入り口を入り、エスカレーターで3Fにあがり、下のトンネル(?)をくぐると・・・・・

各種の展示が見られる。最初の写真の地球儀の周りにいろいろと設置されている。

 

 集合時間になると、案内をしてくれる若いお嬢さんが現れ、55分間の案内が開始される。 本日は参加者が多く二班にわかれての見学となった。

4系統の発電設備が入る建物

中央制御室。

  発電所全体像説明用模型。 左が燃料の液化天然ガス(LNG)の貯蔵タンクで、ひとつのタンクでほぼ一週間の消費に耐えるとか、。運河を挟んで右が発電装置群。

原油産出・カタールの民族装飾

 LNGはカタールなどから、マイナス160℃に冷却することで、体積を小さくし、専用の船(下の模型cf)で運ばれて来る。

ガスタービンの模型

 

 LNGタンク群 

 

 四機の発電設備。

 発電機

定期的に分解点検整備が義務付けされており、そのスペースがゆったりと取られているが、点検期間に入ると、足の踏み場も無いようになるのが、見えている。

 

このあと、ご一行様は、近くのコーヒーショップで休憩雑談し、のち解散した。

 

                            以上

 

 


1561 食事会(7)はまぐりプラザ

2017-02-23 08:00:00 | その他

  今回の食事会は、S君が幹事で、2017.02.19(日)、桑名市大字赤須賀の「はまづりプラザ」で焼きはまぐりを食べようと集まった。 この日は生憎とY君が自治会の用がありこれないことになり、I君との3人で行うことになった。 ここは過去にも来ているので、未紹介の所を中心に写真を掲示してゆこうと思う。 

  集合時間は11時20分であったが、私は周辺の写真を撮りたかったので、小一時間早く到着した。 下の写真は揖斐川の伊勢湾河口付近であり、赤須賀漁港と呼ばれる辺りである。 右奥が伊勢湾であり、はまぐりプラザは写真右手前になる。 

 

 下は、揖斐川と電動の水門を隔てた山側にある船だまりである。

  下の建物が「はまぐりプラザ」である。

  はまぐりプラザの展示を見る。

 

  

 今回、お目当ての「焼きはまぐり」はここで戴くが、まだ開店時間前であった。 

 

 11時30分、開店とほぼ同時に 満席となった。 今日は日曜日であるから、致し方ないが、何故混雑する日曜日をわざわざ選んだのかは後述する。

   やっと現れたはまぐりはアルミ箔に包まれて中ぐらいの大きさの物が5個、はまぐりのフライが一個、海苔に包んで揚げたものが2個、それにシジミらしい佃煮が少々の下の料理が「はまぐり定食」で価格は¥1700であった。

   はまぐりは各自の前にあるガスコンロ上で焼き、はまぐりがパックリと口を開けたら、食べ頃との説明があった。 待つこと数分・・・・

  下のようになり、汁(海水)ごと戴く。 

 

 もう少し食べたいと思う、腹八分目が最適と、席を立ったのであった。 このあとの事は別の日に開示したいと思う。

                                                                                                                                                                                              以上    

 


1559 食事会(6)希望荘

2017-02-06 08:00:00 | その他

  2017.01.26(金)、第6回の食事会は、三重県の北部、湯の山温泉の近くにある、希望荘で実施した。 この日は先日来の久々の大雪で開催が危ぶまれたが、その後の好天で雪は溶けて、ノーマルタイヤでも注意すればスカイラインの入り口の坂道を上がれるようになっていた。

  私はその麓に住んでおり、電話で問い合わせをしたら、ノーマルタイヤは危険とのことであったから、万一のことがあると、また“年寄りの事故”と言われるのもしゃくであるから、タクシーで早めに出掛けたのであったが、ちょっと考えすぎであったようだ。

   下の写真で左上の小さく見えるピークが御在所岳である。 やはりこの辺りは標高が高いので、積雪量も麓の二倍以上、1000mm前後降ったのではなかろうか?。 スカイラインンから希望荘駐車場へは脇道を少し走らねばならないが、融雪剤を撒いたのか、むしろ雪は気にならなかった。

 

  

希望荘の玄関口。

 

  

 急な傾斜地にあるために、新しく増設された、駐車場とフロント、売店などは、本館の上にあり、フロントから本館にはケーブルカー(無料)で下りなければならない。 

 

  食事場所は下の写真(2F)の奥左手にコタツスタイルの仕切りで囲まれた一画がある。 一番安いランチメニューはトンテキなどで¥1080と結構安いし、味も不満はなかった。 私は¥1380のトンテキを食べたが、肉が大きく味もよかったので、全部食べたら、他の総菜が食べられないほどたっぷりであった。

 話に夢中となり、食事の写真を撮るのを全く忘れていたのは、大きな不覚であった。

  

 四巨頭会談

 

                             以上


1558 音痴の音楽歴(6)至福の時

2017-02-04 08:00:00 | その他

 ネットサーフィンで音楽をきいているうちに、BGM等何処かで聞いた曲、耳障りの良い曲が次々と現れ、私には邦楽よりも、外国人による軽音楽や、ポピュラーなクラシック音楽の方が、聞いていて何故か癒やされるような気がして、そんな曲を片っ端から集めたのであった。

  プレイヤーはポールモーリアは言うに及ばず、ビリーボーン、パーシーフエイス、レイモンフェーブル、フランクプウルセル、クロードチアリ、カーペンターズ、ベンチャーズ、スプートニクス、ペレスプラード、ベニーグッドマン、リカルドサントス、ニニロッソ、リチャードグレーダーマンなどなど枚挙に暇がない。

  今の私のお気に入り曲は、ビリーボーンの「波路遙かに」や、パーシーフェイスの「避暑地の出来事」、マントヴァーニーの「南太平洋」、スプートニクスの「ジャニーギター」、パティページの「テネシーワルツ」やコニーフランシスの「ボーイフレンド」、ジュリーロンドの「想い出のサンフランシスコ」などである。

  また、カーペンターズの「Yesterday Once More」「Top of the World」などは英文の歌詞で歌えないか挑戦中であり、映画音楽は勿論、歌劇ガバレリアルスティカーナ間奏曲などのクラシックも相当数入っているし、バグパイプによる「Amazing Grace」が始まると手を休めて聞き入ってしまうほどである。

  まだ今はこれらの曲を、特別な並べ方をせずに、HDDに移しておき、連続的にBGMの如く流し何か他の作業をしたりしている。 また、ノートパソコンにこのHDDを繋げば、メインパソコンでは、再起動も含めたあらゆる作業が出来る。 また、演奏者毎に集めたり、超好きな曲だけを集めることも可能である。

  体調の優れない日には、2Fの自室のカーテンを開けて太陽光線を部屋いっぱいに入れ、ぬくぬくと“日向ぼっこ”をし、何も考えずボーっとしながら、この音楽を聴いている間は至福の時間になっている。 もし、ここにお迎えが来たとしら、すんなり受け入れそうな気分にもなってくる。                    

                        << おしまい >>


1557 音痴の音楽歴(5)音楽の好み

2017-02-02 08:00:00 | その他

 音楽を集め始めたのは、家内のカラオケ練習用であったかたら、当然演歌(艶歌?)が中心であったので、求められる曲のみであったが、 私も何かをやる際のBGMにと、その範囲が広がってきた。・・・とは言いながらもこの時点ではカラオケで歌う事が最終の目標と思っていたから、耳慣れた歌が多かった。

  パソコンでダウンロード出来る曲は限られており、またそれを見付けるのは手間がかかるし、折角見付けても、拍手やナレーションが入っていたり、曲が二番で終わっていたりするのが多いが、これもやむを得ないこと。 二番までしかないのは、歌詞まで用意せねばならなかった。

 

  あるとき友が、レコード板とレコードプレイヤーを持ってきて、これをダビングしてくれと言ったが、残念ながら私の持つ機器ではでは不可能と断った。 その代わりにはならいかも知れないが、音楽をダウンロードする方法を教えてあげるためにもと、さらに拍車がかかったのであった。

  友の持つレコードは、ポールモーリアのLPとか、フランク永井の歌など、私の好みと極似していたのには驚いた。 そう言えば、何時かカラオケ(最初で最後?の)したときに、私は”艶歌”専門に対し、彼は柄にもなく(怒るな!?)フォークソングを歌っていたのを思い出した。

  詳しく聞いてみると、川島英伍の「時代遅れ」とか千葉紘子の「折り鶴」とか、橋田のりひこの「風」であり、パットブーンの「砂に書いたラブレター」、ペレスプラードの「マンボNo5」「ある恋の物語」などなどと、私の好みと寸分違わないことが判明した。長い付き合いながら、初めて知った次第。

 早速、これらの音楽を聴いてみると、多くは一度は耳にしているが、私のカラオケの範疇にはない曲ばかりではあったが、一度聞いただけで全ての曲が私にもすんなりと 入る曲であったので、その多くがお気に入りになったし、「時代遅れ」などは、いつでもカラオケで歌えるようになったと思っている。

 

 また、昨年末の入院中に、珍しく息子と娘が見舞いに来てくれた。 こんな事はこれが最後と思うし、次は私が死を直前に迎えている時だろうからと思い、子供たちについ言ってしまったのは、私の葬式の時に、もしも音楽をかける事が出来たなら、流して欲しい曲はバグパイプ演奏の「Amazing Grace」と言ってしまった。 ちょっと軽率だったと後悔しているが、しかしこれは本心だった!。

                       << つづく >>

 


1556 音痴の音楽歴(4)音楽の有難さ

2017-01-31 08:00:00 | その他

 今から一年近く前に、友達から「悲しみは星影と共に」という昔の映画のテーマ曲を探してくれと頼まれた。 当時は情けないがその検索方法が分からず、単にYahoo検索で探したが見つからない。 止む無くCDなどを売っている店3軒に行きレンタルも含めて探したが見付けることは出来なかった。

  この映画は1965年のイタリア映画で、ナチスによるユダヤ人迫害のストーリーで、目の不自由な小さな弟を目の治療にと嘘を言って、姉が連れ出す(収容所に貨物車で送られる)という大変悲しい物語の主題歌であった。 映画の検索は簡単にできたが、音楽のダウンロード方法にその時点では全く無知であり、彼に断ったのであった。

 それから数ヶ月、家内のカラオケ練習用にと懸命に音楽のダウンロード方法を模索した結果、曲がりなりにも音楽のダウンロードが出来るようになった。 それで、「悲しみは星影と共に」を検索したら簡単にダウンロードできることが判明し、彼に早速伝えたのであった。

  丁度このころは、ブログの“取材“としての行きたいと思う先が無くなってきたのと、老齢化が進み体調も思わしくなく、内に籠もることが多くなってきたのであるが、何かをしなければと思い始めたのが、音楽の検索、ダウンロードであり、暫くはこれに没頭したのであった。

  また、老齢化で手術を予定していたので、病院での時間つぶしにと最初はパソコンがあればいいわ!、と思って居たところ、キーボードが故障し修理は内部のボードの取り替えを要し、高価になると聞いたので、修理を止め、ノートパソコンはキーボードの購入で使えるが、病院に持ち込むのは荷物が多くなり苦しいと感じた。

  そこで、入院中は音楽で持て余す時間つぶしにと考えたのであるが、この考えはかなり甘かった。 老化してはいるが健康な体への手術だから、暇を持て余すだろうと考えていたがこれが大間違い、結果は過去最大の痛みで、パソコンやるどころではなく、ひたすら痛みに耐えるだけの毎日であった。

   痛い下半身、横向きしか寝られない、襲ってくる激しい痛みと続く出血で、最初の夜は一睡もすること無く、暗闇の中ひたすら痛みに耐え、ただ聞こえてくる好きな軽音楽に耳を仮すことで痛みを懸命に忘れようとしたのであった。 もしあの時、音楽がなかったら、医者や看護師に噛みついていたかも知れない。

 音楽ってこんなにもありがたく、また、癒やされるものかと思ったのはこれが最初で最後かもしれないと、いまでもしみじみと感じるのである。 この過去最大の難儀を受けている時に、僅かな光明を見いだした音楽に心から感謝したので、これが今回開き始めた最大の動機なのである。

                            << つづく >>


1555 音痴の音楽歴(3)家内のカラオケ

2017-01-29 08:00:00 | その他

 さらに時はながれて・・・最近になり家内が近所の奥さんから刺激を受け、「カラオケ」を始めるという。今まで歌ったこともないのにと思いつつも、健康のためにも良かろうと、練習用に新聞広告を見て安物の「カラオケセット」を購入した。マイクの中にメモリーがあり、テレビに繋いで音を出すものである。

  このメモリーには300曲入っているが、童謡、民謡、軍歌、カタカナ曲も入っているので、演歌、フォークソング併せて90曲に満たないものであった。そこで、好きな50曲を追加したので、凡その曲は入ったが、美空ひばりの「柔」をはじめ「岸壁の母」「北へ」などは、何故か追加購入のリストにも無かった。

  最初の内は、ひとりで歌うのは・・・と言うから、ワインなどを飲むついで(?)に、私もお付き合いをしたが、安物の機械では甚だしく臨場感がなく直に飽きてくる。 最近は家内が友達を呼んだり、ひとりで歌っている。 地区の老人会でカラオケの会もあるが、私は入る気は全くないが、矢張りたまには歌いたい衝動に駆られる。

  最近のカラオケハウスでは、音響効果が相当に改善されているから、下手な歌でもかなりカバーしてくれるから、自身の耳に伝わる自分の歌の下手さ加減が余り分からない。 それと比較して我が家のカラオケはなんと粗末な歌なのかともろに聞こえてしまうので、最近、私は歌わなくなってしまった。

  また、誰かが歌ってるからとか、歌いやすそうだからと、新しい曲のリクエストがある。 一方、パソコン界では音楽の入った動画が氾濫しているので、ダウンロードすることは容易なれど、著作権侵害とならない範囲が良く分からないので、パソコンで聞かせるようにしているが、余り練習になっていないようだ。

  話は少し戻るが、私がカラオケを再開したのは、インターネット上のある会でオフ会と称して、ハイキングなどの後、名古屋市内のカラオケハウスに行くようになったが、それはさほど頻繁では無く、また会が解散状態になってカラオケとも今度こそ永遠のお別れかと思ったこともあった。 

 その後は、前に当ブログいも書いたが、高校時代の友達と時々一泊の近場の旅に出ているが、一昨年に下呂温泉に宿泊したときに、このメンバーとしては初めてのカラオケを3時間ほどやったことがあるが、カラオケに対する執着心は私以外は極めて低く、このメンバーではこれが最初で最後になるような気がしている。

                        << つづく >>

 


1554 音痴の音楽歴(2)カラオケに嵌まる

2017-01-27 08:00:00 | その他

  時はながれて・・・昭和50年頃、山口県徳山市(現周南市)にサービス拠点が作られ、そこで私は営業と総務と経理をやらされていた。本社から総務課長がやってきて、食後にスナックバーに行き、当時始まったばかりの「カラオケ」を指して、営業担当なら率先して歌うべしと諭され目が覚めたのであった。

  だが、歌えるのは童謡や社歌くらいのもの、それから一念発起、先ずは息子のCDを拝借、車に積んで通勤と営業の道中に懸命に歌を覚えた。その時は長渕剛の「乾杯」「とんぼ」などであったが、若者の歌ばかりであったから、CDを次々と買って練習を繰り返し、やっと演歌にも慣れたのであった。

  酒場に「カラオケ」が入ってきたことにより、飲む為か、歌うためか分からないが、私のような「下戸」でも、酒場に出入りするようになったのであった。 しかし、そこで歌う歌は他の人には甚だしく迷惑な下手な歌、“音楽=3”の歌でしかなかった。 だから、今でも酔わないと絶対歌えないのである。

  笑われるかも知れないが、これでも、どんな歌が私に合うか、どのように歌ったら、本気の拍手がもらえるのかなどと、まじめに考えたこともあった。 しかし、所詮は悪あがきでしかなく、歌も聴かず顔も見ずのお付き合い拍手ばかりであったが、それでも本人はとても楽しくて仕方が無かった。

  どうせ下手なんだからと、柄にもなくいろんな歌を歌った。 おはこは、ピンカラ等の「女の願い」「ひとり酒」、森進一「港町ブルース」、八代亜紀「もう一度会いたい」、五木ひろし「千曲川」「蝉しぐれ」、牧ひでと「雨の東京」、箱崎真一郎「抱擁」、園まり「逢いたくて逢いたくて」青江三奈「池袋の夜」等々多々。

  宴会のトップバッターで歌うのが「すごい男の歌」、送別会で普通は「贈る言葉」「帰ってこいよ」、いやな奴の時は「ラブイズオーバー」が多かった、私自身の時は「北へ」を心を込めて歌った。 宴会たけなわの時にはみんなで「サライ」を大合唱し、ラストは「宗右衛門町ブルース」を“さよならさよなら”と合唱したものであった。

  私のカラオケ好きは人が呆れるほどであり、6日間毎日何処かで歌っていた事もあったほどによく歌った。 しかしそれも、会社を65才で退職したので、私の送別会は津市の都ホテルでやってくれた、そして、その後の二次会が私の華々しい(?)カラオケ歴の最後であった。 

 私はみんなに感謝したい気持から、二次会は30人は入る行きつけのスナック(More)を貸し切り、送別会参加者を招待したが、入りきれず立っていたものもいたようであるが、二時間ほどこれが最後と歌いまくった。 費用は餞別金で品物(大工道具一式)を買ってくれた残金と後は私が全額出して確かスナックに30万円払った記憶がある。

                         << つづく >>


1553 音痴の音楽歴(1)音楽嫌い

2017-01-25 08:00:00 | その他

 自慢ではないが、私の小学生時代の学業成績では、算数や理科は人に負けない自信はあったが、音楽だけは常に3しかもらえなかった。 いや?!、本来なら2以下なのに、他の成績が悪くないので、先生のお情けで3を付けてくれているとのだと思ったほどに音楽嫌いであった。

  その後は、相変わらずの“新物喰い“で、ハーモニカやギターを手にしたが、それらは音の出る箱でしかなかった。 また、会社に入った時には、配属先の組長(893ではない)がクラブの部長をしていた関係で、尺八部に引っ張られたが、練習の3日目にはもう行かなかった。

  私が会社に入ったのは、昭和31年であるから、戦後の復興が漸く軌道に乗り始めた時期であったが、社交ダンス教室が四日市のあちこちで始まった。 職場のイケメンがダンスの先生だったので、うるさく誘われて止む無く習い始めたが、ブルースとクイックをちょっと“かじった”ところで逃避した。

  母が踊りの練習をしたいので、金を出すから「南国土佐をあとにして」を聞けるようにしてくれと頼まれ、余り興味はなかったが、「レコードプレーヤー」を買った所、思ったより安く出来たので、当時流行していたレコード、テックスリッターの「ライドウエー」ダイナショアの「青いカナリア」 等を買った。

  しかし、レコード板は買ったが、2~3回聞いただけで、棚の奥に眠り母の死後、レコードプレーヤーは誰かが持って行ってしまい、レコードを聞くことも永久になくなったのであった。 この後は会社の仕事に没頭したこともあり、音楽らしきものには殆ど無縁であった。

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 追記

 最近、体調などを理由に“取材“に出掛けることがなくなり、当ブログも休みが多くなってきた。 私のは自分が何かをして、その過程や結果を書くことが多いので、動かないとブログが作れない。 私の生きた記録を残そうの発想から始まったのであるが、先日、ある読者からの指摘で方向転換をしたのである。

  少し肩の荷を下ろし、思いついたことを書く、なんでもありきにするなどして、少しでもブログを書くことにより、頭の体操をし、その結果で読者や友との交流ができれば、これ以上の事は無しと考えて、書き始めたのである。 相変わらず読みにくい下手な文章ながら、全ては頭の体操ですから、ご勘弁を戴きたし。

 


1539 食事会(5)

2016-11-07 08:00:00 | その他

  高校時代の仲良し同級生4名でやっている食事会は今回が5回目で私が幹事の番であった。 自然食材を使った、「創作和食」を食べさせる店が出来たと聞いていたが、訪れるチャンスにようやく恵まれたのであった。 そこは四日市市下さざらい町にある坂井屋商店という店である。

  ネットで場所や営業日を調べていたら、和食ランチは20食限定で予約も可とあったので、11月4日(金)12時に4名の予約電話をしておいた。 そして、その当日店を訪ねてみると、何と長く勤めた会社に居た2~3歳年下の元同僚であった。

  店の半分くらいには、自然食材の販売コーナーとなっており、レストランは二十数席であったが、満席となっていた。 店長は息子さんであり、東京で修行してきて、昨年の10月に家族四人で店を始めたらしい。 次々とお客さんが入ってくるので、懐かしい人との奇遇も多くは話せなかった。

 

   また、店への入り口付近には、熊本震災への支援寄付コーナ-もつくられていた。

 

 

 

  和紙を敷いたテーブルにまずは、「無双番茶」が出てきた。 このお茶は茶の茎を煎じた番茶だそうな。 店では180gr ¥430だとか。

 

  このあと、前菜のスープが出た。説明を聞いたが、残年ながら記憶に残らなかった。 そしてメインの膳が出てきた。 刺身は三種の魚をつかっているなど、説明を受けたが申し訳ないが、ボケの始まった頭の私には記憶に残らなかった。 記録するのを、すっかり忘れていた。 すんません!。

 ご飯は5杯までお変わりができるが、 私にはちょうど良いボリュームであり、大変おいしくいただきました。  

 

 

  この後、ご一行はS君の畑に向かい、「ラッキョウ」に似た花の写真を撮った。 三脚とマクロレンズを持ち込んだが、風がありうまく採れなかった。 背景用”風呂敷”も持って行ったが、 距離がとれないので、風呂敷の柄がぼけなくて使えなかった.

 

  折角集まったのであり、まだ解散するには、勿体ないので、四日市港ポートビル”うみてらす14“に向かった。 高さは100mあり、中は展望展示室となっている。 ビルの写真は以前にもとったが、中に入るのは初めてのことであった。 入場料¥300。

 

 

 

 大きな船はみられなかったが、 車の専用船がいて、車の積み込みを行っていた。 あれはホンダの車との声が聞こえてきた。 見学に来た小学生向けに説明をしているのを、じっくり聞いたのであった。

 

  

  この後、更にコーヒーショップに行き、だべったあと16時前に帰路についた。 今日も楽しい一日であったと、友に感謝したのであった。

 

                                                                         以上

 


1529 ”赤秀神宮”の式年遷宮

2016-10-16 08:00:00 | その他

  2016.07.13付けの当ブログにて公開した、”赤秀神宮”の遷宮用の建物を作ったが、それを2016.10.14(金)めでたく現地に奉納されたので、ここに紹介するものである。 下の写真はその館が出来たときのものである(再掲)。

  

 

 

  館の出荷に際し、施主のI君、友のS君とで、我が家にて祝宴を開催した。 この後トラックで搬送するために、アルコールは出せなかったが、 楽しいひとときを過ごした後出荷された。 なお、私は当日行かなかったので我が家で見送り、友のS君が写真を撮り、メールで送ってくれたので、早速記事にすることにしたもの。

 四日市の住宅街で道路沿いの車庫の上にお地蔵さんが祭られており、地蔵さんに被せるようにして、館を設置されている。

この時点ではまだ飾り物やお供えはされてない、いわば式典の前の状態である。

 

下は ”赤秀神宮”に施主により奉納された超特選の新元米である。 式典(?)終了後、我が家にもそのお下がりを頂戴した。

 

 

  館の屋根に付けた飾り物は生木の色を出すために、施主の要望もあり、無色(クリア)の塗料にしたが、屋外用とは書いてあったし、3~4回塗布したが、何分にも初採用の塗料で実績がないので長くもってくれるようにとも祈ったのであった。