しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

映画看板師

2023年09月15日 | 失われた仕事

金浦座の元館主のさんに話を聞いたことがあるが、
元館主さんが言うには、
(田舎の映画館とは)
「ポスターを貼り替えるのが仕事のようじゃった」
というお話だった。

つまり、田舎の映画館は上映期間が普通1日、最大3日。
したがって、日中は毎日自転車にポスターを積んで、
毎日同じ場所(地域の辻や商店の前)に行き、ポスターを剥がして、新しいのに替える。
これを毎日繰り返す。

町の映画館は上映期間が普通一週間。
期間が長いので映画館の切符売り場のまわりは、
看板師が描いたスターや、ポスター絵で囲まれていた。
もっとも、
ポスターも金浦座同様、町の角に置かれていた。
国鉄の大門駅前には福山の映画館のポスターが横一列に7~8館ぶん並び壮観だった。

笠岡の隅田川沿いに映画館専用の絵師がいた。
絵のサイズが巨大なので、道からよく見えるし、絵が道にはみ出してもいた。
そのころ笠岡に映画館が4~5館あり、
二本立て興行、一週間上映、となれば相当多忙を極めたはずだ。
金浦座の館主さんの話では、
「ポスターを見ながら描いていたんじゃろう」
ということだった。

・・・

 

 

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

映画看板師

看板屋は他の種類の広告看板と同じに映画の看板も描くのである。

週替わりで上映が変わっていた時代には、毎週毎週新しい看板を描かいないといけないので、
映画以外に手が回らない職人もいた。
手描の看板時代、かなり雑に描かれていたように気になったが、
職人はこれでいいんだという。
遠くから眺めても、誰が出てどんな映画か、はっきりわかる素晴らしい看板だという。
名もない町の看板屋には、仕事をこなすことで身についた技があったのだ。

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

踏切番

2023年09月15日 | 失われた仕事

国鉄の大門駅から笠岡駅まで、踏切は10以上あった、
ほとんどが無人踏切。
今普通にある無人で遮断機が降りるのは大冝くらい。
チンチン踏切と言って大冝名所の一つといえるほど、貴重な踏切だった。

大きな踏切では”踏切小屋”があり、”踏切番”がいた。
大門~笠岡間では、大門駅東(寺の前踏切)・笠岡駅西(西の浜踏切)に踏切小屋があった。
吉浜土手にもあったかも知れない、記憶に自信がない。

茂平の人が汽車に乗るには、全員が寺の前踏切をわたっていた。
その踏切には南側に踏切小屋があった。
踏切小屋には踏切番が一人いて、
遊びに来ている子どもが二人くらいいつもいた。
それを見ては、
うらやましくて仕方がなかった。
大門の子がらやましかった。
ええなあ、ああいうところで遊べて。

汽車が通るとき、踏切番は手動でハンドルをまわして踏切を降ろしていた。
昭和35.36年頃、踏切小屋は廃止されたそうだ。
寺の前踏切は、”のどか”なイメージしか思い浮かばない。

 

・・・

(「野々浜むかし語り」)

 

「野々浜むかし語り」  野々浜公民館  1991年発行 

円寂寺前の「寺の前踏切」に踏切番が置かれていたのは、昭和の初めに山陽本線が複線になってからの事だろう。
線路の南側にあった踏切小屋に踏切番が終日詰めて、
汽車が来る度に遮断機を上げ下げしていた。

踏切番の者も随分長く詰めとった。
本人が駅の仮眠室に行っている間は、
駅の者が代わりに上げ下げしていた。

わしらは踏切小屋にはよく遊びに行ったものだ。
踏切番は大抵は近隣の者でな。
子ども頃はいつも、あの中に入り込んじゃあワーワー言ってたし、
大きくなっても帰り道に寄って遊んじゃあ戻りよった。
汽車が来る間は
「おい、出るな出るな。運転手が見たら駅員に告げ口するるけえな」
などどいってな、昔は呑気ではではあった。
汽車もひどうは通らなかったし。

寺の前の踏切番は、鋼管が来る前の昭和35.36年頃に廃止になった。

 

・・・


「失われゆく仕事の図鑑」   永井・高野 グラフィック社 2020年発行

踏切番


鉄道の踏切(遮断機)の操作を手動で行っている時代があった。
早く閉めても、遅く閉めてもいけない。
ある種の職人技術が必要な仕事だった。

・・・

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする