しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

南京占領

2024年07月14日 | 昭和11年~15年

昭和12年12月、上海から上陸した日本軍は首都・南京を占領した。
日本中は祝賀一色、全国各都市では旗行列・提灯行列が行われた。

この戦で、
中国江南地帯に発達しているクリークでの戦線に苦慮した日本兵は、
南京へ入城後、開放感から軍規が乱れ、多くの子女を殺害したとされる。
この情報は世界中へ流されたが、日本国民だけが知らなかった。
戦後になって知り、指揮官は東京裁判で死刑になった。

 

・・・・

「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に集中している。いつでも旗行列ができるよう待機。・・・神田や銀座は「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい・・・と伝え、
待ちきれなくなった帝都市民は陥落を決めてしまい、七日夜は銀座も浅草も興奮のるつぼと化し、ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、それから東京では三日三晩、旗行列や提灯行列が宮城前や、大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。
しかし、南京ではその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒へとつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。


南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師たちによって世界中に伝えられていた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみにでるまでその事実を知らなかったのである。
 犠牲者の数は、いまだ明らかでないが東京裁判では
”南京占領後、二三日の間に、少なくとも1万2.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、
一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子2万が集団で殺され、さらに捕虜3万が降伏して72時間以内に殺され、避難民のうち57.000が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり殺されたりした”
とされる。
中国側では30万人とみているようである。
 馬上堂々南京入場式の栄光を背負った中支方面軍司令官松井岩根大将は、東京裁判で、また攻略戦に参加した第6師団長谷川寿夫中将も、南京法廷で、この事件の責任を問われ処刑された。

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「南京城攻撃開始12月12日」(毎日新聞・一国人の昭和史)

 

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「落日燃ゆ」  城山三郎 新潮社 昭和49年発行

南京占領は、もうひとつ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。

 

報せをきいた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議し、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。 
また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、
「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、わるいことするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起ることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入させることにし、
軍規の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守られなかった。

松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下に在る朝香宮と柳川平助中将の二人の軍司令官、
さらに、その下の師団長たちに在る。
柳川は、もともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべて皆敵」と、はげしく戦意をかき立ててきた将軍であった。
また、師団長の中には、第十六師団長の中島今朝吾中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせていた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。

日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
と、軍規の自粛を申し入れた。
朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ十日と経たない中の出来事であった。
南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、
殺人・ 強姦・掠奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
市内はほとんど廃墟同然で、逃げおくれた約二十万の市民が外国人居住地区に避難。
ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。
残虐行為はこの地区の内外で起り、
これを日夜目撃した外人たちは、
その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、
各国に公表。
日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。

現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、
事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。
このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、
二月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮軍司令官はじめ80名の幕僚が召還され。


現地南京では、ようやく軍規の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。
さらに中国奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。
そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上る。
それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。


ただ、このころになって、参謀本部がにわかに和平交渉に執着を持ち出した。
もともと参謀本部内には、対ソ決戦に備えるため中国への深入りを避けようという一派があり、
この対ソ派の突き上げが 強まったためである。
陸軍は相変らず双頭の鷲であり、「二本軍」であった。
陸軍省と参謀本部の意見がちがい、
しかも参謀本部はつい最近まで条件の加重に賛成していながら、この段階になって修整をいい出す。
閑院宮参謀総長が参内し、あらためて対ソ防備の必要を言上されると、
かえって、天皇に、「そんなら初めから、中国と事を構えねばよかったのだ」と、たしなめられる始末であった。

こうして、16日には、「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」という政府声明が発表された。 
外務省においては、「否認」とか「国交断絶」とかのはっきりした形をとらず、当座は無視するという意味で
「相手にせず」という言葉を選んだのだが、
しかし、時の勢いの中で、近衛はこれを「否認よりも強い断手とした決意を示す」という説明をした。
和平交渉の望みは消えた。

陸軍は、「万歳」の声をあげながら、南は広東めざし、また奥地の漢口めがけて、進撃を続けて行く。
止めようもない大日本帝国の落日のはじまりである。

 

・・・


「教養人の日本史・5」  現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行 


南京大虐殺事件


戦火は華北から上海に飛んだ。 
8月15日、海軍の渡洋爆撃隊は台湾の基地から長駆南京をおそい、
23日、松井石根大将指揮下の上海派遣軍の二個師団が上海に上陸した。
上海上陸戦は、はげしい抵抗とクリークにはばまれ、戦闘は9,10月の2ヶ月にわたった。
そして11月5日杭州湾に上陸させて上海の中国軍戦線の背後を突き、ついに11日上海全市を占領した。
それ以後、南京にむかって日本軍は一気に 進撃し、12月10日南京を占領した。
南京入城にあたって、日本軍は捕虜はもとより、一般市民数万人を虐殺し、略奪暴行の限りをつくした。
虐殺された中国兵・市民の数は5万に及んだ。 
その惨状は、アメリカの新聞記者 エドガー・スノーによって、次のようにしるされている。
「日本軍は12月12日、南京に入った。
その時なお中国軍や市民は唯一つ残された城門を抜けて揚子江の北岸に退こうとしていた。
極度の混乱の光景が続いた。
数百万人の人々が川を渡ろうとしている時、日本軍飛行機の機銃掃射を受けたり、溺死したりした。
また数百人の人々は下関の城門に通ずる陸路で捕えられ死屍累々として四呎も積み重ねられた。
・・・ ·南京虐殺の血なまぐさい物語は今や世界にあまねく知れ渡っている。
日本軍は南京だけで4万3千人以上の市民を殺した。
しかもその大部分は婦人子供であった。
上海、南京の進撃中に30万人の非戦闘員が日本軍に殺されたと見積られている。
それは中国軍隊が蒙った損害とほとんど同数のものであった。
 ・・・約5万のこの城内の軍隊は、近世にどこにも見られなかったほどの 強姦、虐殺、略奪、
その他あらゆる淫乱の1ヶ月余を過したのである。


1万2.000戸の商店と家屋は、あらゆる商品と家具類を略奪された後、放火された。
市民はすべて財産を奪われ、日本の兵士と将校は、それぞれ自動車や黄包車、その他の運搬用具を盗み、
これで彼らの略奪物を上海へ運んだ。
外国の外交官たちの家々も侵入され、使用人は殺害された。 
兵士たちは、彼らの欲するままに行動した。 
将校たちは、自分も参加するか、あるいはかかる部下の行動を、被征服民として中国人は”特別の考慮”を受ける権利はないとの弁明をもって許した」。

この事件は世界に大々的に報道された。 
しかし、日本人は、戦後の東京裁判で追及されるまで、この事件はまったく知らされることはなかった。
南京陥落の日、東京はじめ各都市ではバンザイ、バンザイの声が叫ばれ、
一晩じゅう提灯行列の火がえんえんとつづいていた。

 

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