しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦(昭和20年9月2日)の頃

2023年09月02日 | 昭和20年(戦後)

1945年(昭和20年)9月2日。
東京湾、
アメリカ戦艦ミズーリの甲板。
日本の降伏文書が連合国との間で交わされた。

 

(Wikipedia)

 

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(父)
終戦後、
すぐに茂平へ復員した父が驚いたのは
「百姓でありながら、米(の保存量)がほとんどなかった」こと。

(母)
母が怖かったのは、伝染病。
隣家から出て伝染。
曾祖父が亡くなった。

(家)
祖母の妹が神戸で焼け出され帰郷。
その母子3人が家に同居を始めた。
家は4世代、9人、が同居となった。

 

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「勝央町史」 勝央町 山陽印刷  昭和59年発行

戦後の混乱

はじめて外国の占領下におかれ、やがて進駐してくる外国部隊についての恐怖感は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれ、娘は慰安婦に供出させられる」
などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。

また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校なども多く、これが戦時中の記録を亡くした大きな原因となった。

被服や食糧など持てるだけもらった内地の復員軍人が続々と帰郷して来て家族を喜ばせた。
「日本刀は全部出せ」という指令があり、祖先伝来の日本刀を差し出し、敗戦国民の悲哀を深く感じさせられた。
田舎に見なれないジープが飛び交った時代であった。


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「美星町史」  美星町 昭和51年発行

敗戦の想い出

ある翼賛壮年団長は、家に隠れての生活を送っていた。
終戦の翌年、
元原田中将が黒忠小学校へ来て有志の集まりがあったが、
中将は涙を流しながら
「我々は職業軍人であるから降伏後は国賊もやむを得ないが、
銃後で食糧増産に励まれた方々が罪人扱いでは何とも申しようがない」
と語られた。
今はなき中将のせつせつたる言葉が胸によみがえって来る。

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「美星町史」  美星町 昭和51年発行
戦犯追放

当町において公職追放者は堺村5人、美山村6人、宇戸村6人、日
里村4人で、
戦時中の村長、助役、在郷軍人分会長、翼賛壮年団長が該当している。
昭和25年10月から解除が始まり、昭和27年4月まで全員が解除された。

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「戦争の中の子どもたち」 福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行

赤痢が猛威

空襲の4~5日後から下痢を訴えるものが続出し、
患者は谷知池の上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった家庭からも患者が出、被災者は二重の苦しみを受けることになった。
隔離病舎に収容された患者の看病は、
ほとんど家庭の者に任された。
十数名に一人ぐらいの割合しかいない看護人の数では手が回らず、
家族の中の健康な者が隔離病舎に寝泊まりして、
患者の食事から便の処理一切の世話にあたった。

当時は医薬品が極度に不足しており、あったとしても高価であった。
患者は牛馬に飲ませる下剤すら投薬されるありさまであった。

夏の暑さに加え、
戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子どもや老人は、発病後二・三日で息絶えた。
毎日のように葬式が行われた。

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岡山県「中央町誌民俗編」


戦後の食糧問題
どんぐりひろい

もはや開墾できる所はほとんどなく、
それまでは普通の食糧として利用されていなかった、
わらび、
ぜんまい、
山ふき、
よもぎ、
甘藷のつる、
里芋の茎、
大根葉、
葛根などを採取し、
乾燥させた物を供出する運動が始まった。
これらの作業は、
農業会、学校、婦人会などに求められ、小学生まで動員された。

昭和20年11月には、岡山県は米の代替え品として供出を促進した。
甘藷茎葉(乾燥品) 一貫 2~2円50銭
甘藷葉柄(乾燥品) 一貫 4円50銭
どんぐり(殻付き) 一斗 3円50銭
どんぐり(殻むき) 一斗 8円
大根葉(乾燥品) 一貫 3円50銭
桑残葉(乾燥品) 一貫 2円30銭

どんぐりひろいは、国民学校低学年の生徒の仕事であり、
袋に入れて、先生に渡したが、お金はもらわなかった。

さらに、昭和21年1月からは、
みかん皮、
葛根、
葛澱粉、
人参葉、
牛蒡葉、
里芋葉、
南瓜種子、
よもぎ、
茶殻
などの乾燥品が追加された。

実際問題として、栄養不足になるため統制違反の警察の目をくぐって、
半ば公然とヤミ買いに走るよりほかはなかった。

 

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「福山市史下」 福山市 昭和58年発行

連合軍の進駐
昭和20年11月2日、
連合軍米第10軍41師団162連隊の歩兵大隊ノートン大尉以下約1.000人が、
大津野の旧海軍航空隊施設に平穏に進駐した。
福山市長は、
「各市民は自粛の上紛議を生ぜざるよう注意するは勿論、
各隣組等充分連絡の上、事故防止に努められ度」
いと通達を出した。

また松永警察署長はつぎのような心構えを通達している。
①家屋を開放せず、夜間は戸締りする
②婦人は胸を現わさず素足を見せずモンペを着用する
③外人に笑顔をみせたり、ハンカチを振ったりしない
④たとえ拳銃を向けられても手を挙げたりせず、物品を持ち出すものには代金を請求する
⑤女子の貞操には生命を賭して抵抗する

連合軍兵士が、
日本の婦女子に対して乱暴な行為に及ぶのではないかという心配は、
一般市民の間に流言飛語となって流れていた。
対策として、
連合軍相手の特殊慰安所を福山市でも突貫工事で設置した。
この施設は将兵には好評だったが、
昭和20年12月、連合軍当局より
「特殊慰安所への連合軍人の立入禁止」の命令が発せられ、
やがて人権尊重・民主化の一環として公娼制度の廃止が議論されるに及び
慰安所も閉鎖された。

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コメント (1)
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