しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井上成美 (広島県江田島)

2024年06月08日 | 旅と文学

軍や民の指導者としては、救いようもない狭さと時代遅れの思考レベルだった大日本帝国陸海軍の上層部の中にも、
少数ではあるが、広く、長く日本を考える将官たちもいた。

陸軍では2.26事件で斃れた渡辺錠太郎大将。
海軍では、米内・山本・井上とうたわれた井上成美大将がその代表。


井上大将の現実を見る目は鋭い。
日米開戦前に、
日本はアメリカに海上封鎖されたら何もできない(負ける)。
日本はアメリカを海上封鎖することは出来ない。出来たとしてもアメリカはすべて国内自給できる。(負けない)

今ならだれでも言えることを
当時の日本で発想した軍人・政治家はいない。
井上大将の言う通り、日本は封鎖され、負けた。

 

・・・

旅の場所・広島県江田島市江田島町 元・海軍兵学校+古鷹山
旅の日・2013年1月16日 
書名・井上成美
著者・阿川弘之
発行・新潮文庫 平成4年

・・・

 

 

「井上成美」 阿川弘之  

支那事変がすでに四ヶ月目に入っており、海軍は、艦隊航空部隊の一部を戦線へ投入しているけれど、
米内山本の最上層部が大陸の戦火に消極的、陸軍のやり方に批判的であるのは、部内周知の事実であった。
山本次官は、七月盧溝橋事件突発の報を聞いて、「陸軍の馬鹿がまた始めた」と腹を立て、
好きな煙草をやめてしまった。
米内海相は事変の拡大を憂慮して、先任副官近藤泰一郎大佐に、「君、揚子江の水は、一本の棒ぐいで食いとめられやせんよ」と洩した。 

彼らを補佐して最も忙しい海軍の大番頭格が軍務局長で、新任多忙の井上は、事変関係の書類を決裁しながら、よく、
「動物、動物」
と苦々しげに口走っていた。
自分が罵られているのかと、初めて聞いた副官が恐る恐る問い返すと、
「何故陸軍のことを動物とお呼びになるのですか」
「理性が欠如してるからだよ」


年が明けて昭和十三年一月十六日、首相の近衛文麿は、
「爾後国民政府を対手にせず」の声明を発表した。
東亜同文書院の院長大内暢三が、
「何という馬鹿だ。中華民国の唯一の指導者と世界が認めている蒋介石を、対手にしないなどと、
陸軍にかつがれて自ら交渉の道を閉ざすような声明なんか出して、近衛はほんとうに馬鹿だよ」と慨歎したそうだ。
これで事変の解決はますます難しくなり、英米との溝がさらに深まるだろうと見ていた。

 

 

昭和十七年十一月十日、井上成美が飯田秀雄中佐一人供に随え、第四十代目の海軍兵学校長として江田島へ着任した時、
此処には後年井上伝記刊行会の母胎となる七十一期七十二期 七十三期の三クラスが在校していた。

英語不評判の時世が来て海軍当局が困ったのは、対陸軍の関係であった。
英語追放に関し、陸軍のやり方は徹底していた。
自動車部品の呼称にも、片仮名は一切使わせない。
ハンドルが走向転把、アクセルペダルが加速践板、
聯隊によっては兵隊に食わすライスカレーまで、「辛味入り汁かけ飯」と言い換えを強制した。
それだけなら海軍が格別関心を持ったり困惑を感じたりしなくても良いのだけれど、
陸軍は開戦前の昭和十五年秋、士官学校生徒の採用試験科目から、早々と英語を除外してしまった。

身体も強健な軍人志望の少年たちが、海軍を避けて 陸軍士官学校を目ざす傾向が、統計上はっきり見られる。
それを憂慮した本省教育局の主務者が、
海軍もせめて生徒採用試験の英語は来期から廃止したらどうかと、兵学校宛に勧告を寄せて来た。
この問題が教官研究会で取り上げられた。
全員が廃止 賛成の意思表示をした。
「よろしゅうございますか、これで」
教頭に念を押された井上は、
「よろしくない」
と答えて立ち上った。
「一体何処の国の海軍に、自国語一つしか話せないような兵科将校があるか。
そのような者が世界へ出て、一人前の海軍士官として通用しようとしても、通用するわけが無い。
英米海軍のオフィサーならフランス語スペイン語、吾人の場合は最小限英語、
この研究会でも繰返し言っている通り、海軍の将校たらんとする人間にとり、英語は必須下可欠の学術であり技能である。

 

 

構内の古い桜並木が花をつけ始めた。
兵学校の桜と言えば、海軍関係者のみならず、呉広島の市民の間で昔からよく知られた春の美観だが、
今年の四月、井上は諸種の新事態へ新たな対応を迫られ、敬慕する山本聯合艦隊司令長官が亡くなり、久々の内地の花時を慌しい思 いで過した。
予備学生たちを普通学教官として江田島へ受け入れること、
皇族賀陽宮治憲王の入校準備教育を開始すること、いずれも彼にとって初めての経験であった。

中央は在校生徒の修業年限短縮を一方的に決めて各教育現場へ押しつけて来そうな気配があり、これにも対処しなくてはならなかった。

 

・・・

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1 コメント

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兵学校 (oko)
2024-06-12 22:21:02
戦死の父が通信の教官として勤務しました兵学校でしたので懐かしく拝見させて頂きました。
この間、私は昭和14年6月に呉海軍病院で出生しました。
両親に囲まれた幸せな時代だったようですが、戦争開始に母の実家に身を寄せました。
父はレイテ沖海戦に昭和19年10月27日「鳥海」と共に南海に眠ったままです。

その後、2000年に今は亡き父方の従兄姉たちとしまなみ海道開通に兵学校訪問など広島県の旅を致しました。
呉海軍病院は既に無く、ガイドさんから病院跡を説明頂きました。

令和7年は戦後80年、これを機に遺児たちの戦跡巡拝が終了します。
洋上慰霊も実施と聞いておりますので健康に留意して応募したく考えております。
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