しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

岡山の昭和

2020年10月08日 | 市町村史
「眼で見る岡山の昭和1」 日本文教出版 昭和62年発行

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昭和元年(1926)

学童服が普及




大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、学童たちの服装が、和服から学童服へと急速に変わっていった。
当時は並品で一着50銭前後、昭和3~4年ごろの児島の学生服生産量は百万着を越え、同13年頃には一千万着と、全国90%シェアを誇り、「学生服王国」となった。
なお、女子学童の和服姿も、少し遅れて洋服への転換が進み、昭和4年頃にはほとんどが洋服になった。


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昭和2年(1927)

普通選挙

9月に、普通選挙法による初めての県会議員選挙が行われた。
岡山県下の有権者は一躍8万人から26万人に増えた。
この選挙では、警察による選挙干渉(野党候補者への弾圧)が激しかった。




高梁川を遡る高瀬舟



帆を揚げ、地を這うようにして引き綱を引いて河を遡っていた高瀬舟が、伯備線の開通でその姿を消した。


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昭和33年

笠岡・富岡湾の干拓が完成




12月、昭和21年以来国営(農林省)として進められていた笠岡市の富岡湾の百余ヘクタールの干拓工事が完成した。
この干拓は、昭和14年に民間事業として始められ、締切堤防用の石がかなりの量投入されたが、海底が軟弱で
沈降がはげしいため中絶し、不成功に終わっていたものを、戦後に国営で行われたもの。
当初の目的は農地の造成であったが、社会情勢の変化で、国道二号線用地や、新しい市街用地などに転用され、現在の番町として、新しい笠岡の顔になった。

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食事③果物・漬物・魚・肉   (吉永町史)

2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

果物

カキ
フユウガキや渋ガキがある。
渋ガキは、
ゆでて渋抜きをして食べたり、
皮をとって、干し柿にする。


ナシ
古くからある。買って食べる。


イチジクその他
気温が低いので育ちにくいといわれる。
柑橘類も育ちにくい。
ユズはユズ味噌にしたりユズ風呂にはいる。



漬物

沢庵漬け
コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。


海魚

昔は魚行商人が来なかったので、塩イワシとか塩サバなどや煮干し(いりぼし)なども、出かけたときに買ってきたという。
結婚式のなどの祝い事のときには、
片上や日生、赤穂や相生まで買いに行った。
ところによっては、行商人が天秤棒で担いで、煮干しなどの干し物や塩サバなどを売りにきた。
盆にはコブとかワカメなども売りに来た。
いつのころからか、無塩(鮮魚)のイワシやサバ、タコ、イカ、シャコなどを日生や片上から行商にきた。


淡水魚

フナ、白アエ、ウナギ、ジャコなどは谷川で釣るし、石垣の穴に手をいれて握り捕る。
竹串に刺して焼き、干す。
客がみえると、焙っておかずに出すとか、祭りに利用した。
半ば専業に川魚を捕って行商をし、生計を立てた人たちがいた。
川べりに、草ぶき屋根で、小屋掛け程度の簡素な家を建て、ウナギとかハエを捕って、無塩または干し魚にして売りにきた。


牛、馬、豚肉

牛肉、馬肉、豚肉は、かつては食べなかった。
百姓は牛を大事にし「牛は百姓の福虫」といった。
牛肉をクドで煮て食べるようになったのは、大正末から昭和初めという。
馬肉や豚肉の食用は第二次大戦後のことである。


鶏肉

鶏は、大抵の家で2~3羽飼っていた。
卵は保存しておいて、客がみえた時におかずにしたり、子どもの学校弁当に、時々いれたやった。
鶏肉は牛肉などより、早くから食べていて、正月、祭り、来客などの時に、殺して調理した。



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(暮らし)


風呂

昭和の初期ごろまでは、木桶の五右衛門風呂を据えていたが、鉄(かな)風呂へとかわる。
かけ湯や、抜き捨て湯は、下に掘ってある壷に入る。
せわしい農家にとって、度々風呂を沸かすわけには、いかなかった。
クミイケなどから、水たごで2~3荷運んでいれる。
焚くには時間がかかった。
風呂を沸かすとお互いに、隣近所で知らせあった。
夏ならスイカを割って食べさせるとか、冬なら炬燵に入って、氷餅を食べながら世間話をする。
貰い風呂はコミュニケーションになった。



庭木

屋敷内に植えて、よい木とわるい木がある。
よい木としては、
松、竹、梅、カエデ、カシノキ、クスノキ、サルスベリ、モックなどである。
わるい木としては、
ザクロ、ビワ、イチョウ、フジ、ヤナギ、ゴヨウノマツなどだという。



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食事②調味料・野菜  (吉永町史)

2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
食事・記述は、昭和35年ごろまでの食事である。


調味料

味噌

原料は大豆、米の麹、塩である。

味噌をつく時期は節季で、麹はこたつでねかせたという。
割合は大豆一斗、米の麹五升が四斗樽一本ぶんで、毎年一本づつつく。
三樽ほど所有していて、三年味噌といって、三年経った味噌が味が良い。


ひしお(醤)

裸麦で麹を作り、甕に、麹と炒った大豆、塩をいれ、水をいれてかくまぜる。
日当たりのよい縁側あたりに置く。
温暖な季節に作り、おかずにした。


醤油

原料は大豆と小麦、塩であるが、一度に作る量は、大豆1斗に小麦1斗である。
仕込みをして、しばらくすると、桶に籠をいれ、もろみをすくっておかずにした。
また籠にたまった醤油は調味料として使った。


大根

生大根で食べたり、漬物にするほか、ねじ干し、大根切干、ちょうちん切りなどにする。
ねじ干しは、
細めの大根を竿などにかけて干し、ひなびたとき、何遍もひねる。
ハリハリといって、醤油と酢をかけて食べる。
たんじゃく切りは、
大根を縦に十文字に切る、ついで丸切りする。
細切れになったものを筵の上で干す。煮ておかずにする。
ちょうちん切りは、
切りかけ大根ともいう。
ひなびた大根を縦方向に、斜めに刃をいれる。
少し回して刃をいれる。
ちょうちんのように、長く続いたものとなる。
更に干しておく。煮ておかずするし、まぜ飯に入れる。


カブ
カブラともいう。
煮ておかずにするが、かつては漬物にしたりした。

ナス
ふつうにはナスビという。
かつては丸みのナスビであった。
今は長ナスを作る。
ナスビもみ、煮る、焼く、あえものなで利用法は多い。

キュウリ
キュウリもみにする。

ニンジン
ゴボウなどといっしょに煮る。煮染めにいれる。
大根なます、大根おろしに入れる。

トウガラシ
主として、大根漬けに入れる。

ニンニク
近年食べるようになった。
醤油漬けしたり、わさびおろしですって汁に入れる。
ニンニクの皮をむいて、殻物入れの缶などにいれておくと、ズミ(殻象虫)などがつかない。

ニラ
味噌汁にいれたり、卵とじ、加役、雑炊にいれる。

ネギ
加役にし、味噌汁にいれる。
ワケギ
ぬたにする。

シュンキク
ひたしにしたり、すまし汁にいれる。

チシャ
チシャもみにする。


ホウレン草・白菜・キャベツ

ホウレン草や白菜、キャベツなどは、比較的新しい野菜である。
白菜は大正時代にあったが、結球白菜やキャベツは、昭和にはいってから作るようになったという。

キャベツは野菜の王ともいっている。



カンピョウ・カボチャ・タマネギ・トマト

カンピョウは古くからある。
自家用に栽培し、紐状に削って干して、保存する。
カボチャは味噌煮または醤油煮にする。
タマネギ、トマトは
比較的新しく、タマネギは昭和にはいってからである。
トマトは昭和以降という。



ミョウガ・ショウガ

ミョウガはゆでて、刻んで酢、醤油をかけて食べる。
刻んでうどんの加役にする。
ショウガは
作らない家が多い。
梅漬けのなかへ、ベニショウガをいれたり加役する。



シソ
赤シソを栽培し、葉を梅漬けのなかへいれる。
また葉もいったん塩漬にしたものを干して、味噌漬けにする。


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食事(吉永町史)

2020年08月30日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行



食事

記述は、昭和35年ごろまでの食事である。


米飯

化学肥料を使うようになるのは、大正後期からである。
カネゴエ(金肥・きんぴ)といえば、豆粕や、油粕といって菜種粕、ニシンの干鰯などであった。
ニシンは、押切で切って刻んで、水田の稲、四株の真ん中に押し込んだ。
四株に効いた。
魚肥を買う余裕のない家が多く、豆粕くらいであった。

牛の飼料には、畔草や山草を刈って与えた。
山で下草刈りおwし、葉が沢山ついている枝木を切ってきて、5~6寸の長さに押切で切る。
稲藁や麦藁などど交ぜて、厩へいれて敷きわらとし、フミコミをつくった。
月に1~2回、厩から厩肥をカド(前庭)に出して、積み上げ、よくくもした。
これが水田のハゼゴエで、肥料の主役であった。
肥料代を支払うと収益は微々たるものであった。
屑米と稲藁がのこればよいし、裏作の麦が自分のものであった。

米飯を食べたのは「正月三日に、盆踊り」が首であり、冠婚葬祭のときであった。



麦飯

麦飯にするのは裸麦である。
裸麦はヤス麦といっている。
ヤス麦の荒麦は唐臼でついて精白する。一遍では精白しにくいので三遍行ってシアゲ麦にした。
戦後ヒシャギ麦になった。
米とヒシャギ麦を交ぜて洗い、炊くことができたので、手間が省けた。


糧飯(かてめし)

麦飯または米飯に、大根とか大根葉、サト芋、ゴボウ、ニンジン、ネギなどを切っていれ、醤油で味付けしたものは、焚きこみ、煮込み、マゼ飯、味付け飯、などといっている。

大根だけとか、葉っぱだけ、あるいはソト芋、ジャガイモ、さつま芋だけ切っていれれば
大根飯,菜飯、芋飯、といった糧飯になる。

ハチの子
焚きあがった釜の飯にいれ、味つけしてまぜた蜂の子飯。
ハチの子を生のまま飲み、薬になるというところは多い。

クサギの虫
蒸し焼きにして子供に食べさすと癇の虫薬になる。

イチジクの虫、ナラの木の虫、イナゴを食べる。

マムシ
ハミという。
皮をむいて干した骨を、長さ2cmほどに切って焦がして食べる。
骨を粉にして炒り粉にいれた。


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機織り

2020年08月29日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行


綿

平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。


繭の糸

養蚕をする家では、年に3~4回は飼い、天井に空気穴をとりつけたり、蚕が繭を作る時期には、家族は寝る場所がない位だったという。
繭はほとんど売った。
上繭・中繭・クズ繭、玉繭(二つくっつく)があった。
自家用にクズ繭・玉繭を手引きした。
この糸がスガ糸といい、木綿のガス糸と混繊することが多かった。


ハタオリ(機織り)

女の仕事で、家族の着物から、布団、蚊帳、手拭にいたるまで全部織り出した。各戸に機があって、冬の農閑期には賑やかな機の音が聞こえていた。
女は明けても暮れても、糸引きと機織りで、機が織れねば嫁にもらい手が無いとまでいわれた。
明治中期ごろから腰かけて織る高機(たかばた)になった。

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溜池のイケボシ

2020年08月29日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行


溜池

和気郡史(明治42年刊)をみると吉永町の溜池の修築年月日の不詳であるものが多い。

溜池での漁撈では、いろんな方法がある。
釣漁、網漁、イケボシ漁など。
水田に灌漑水が必要でなくなると溜池の水も落水する。
溜池の落水を
イケボシ、イケガエ、カエボシなどという。
溜池の落水中に池の樋門、堤防、泥すくいなどの作業がなされるとともに、溜池にいるコイ、フナ、ウナギ、ナマズなどを捕獲するのでウオトリなどといって秋の収穫前の農作業前のレクレーション
にもなり、イケボシ漁としてさかんに行われたものである。

吉永町各地区の事例を少しのべてみたい。
①2~3年ごとに溜池をほして池の魚を入札によって希望者に捕獲することをゆるす。イケボシは秋祭りの前の頃である。フナ、ウナギ、コイなどをとっていた。
とった魚は自分の家と近所にわけて食べていた。
②10月の終わりごろ、水田の水をおとすと同時に溜池の水も落として、フナトリ、コイトリといって溜池にはいってドベをふんでドベの中にいるコイ、フナ、ナマズ、ウナギなどを握りとる。
③溜池のイケボシの時は、タマ(丸形の網)ザルなどでフナ、コイなどをすくいとる。



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岡山県寄島高等学校

2020年07月01日 | 市町村史
高校の時、他校と掛け持ちの先生がいた。
体育の先生と音楽の先生。

体育の先生は同じ市内の高校だったが、音楽の先生は
「今日は次に寄島高校がある」と言っていた。

寄島町は県立高の場合、笠高・笠商・笠工が学区と思っていた。
どんな学校だったのだろう?



(寄島高校の手前記念碑、後方は体育館 写真は2015.2.3)




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「寄島町誌」 寄島町役場 昭和42年発行 


岡山県寄島高等学校

寄島町ほか二か町村組合立定時制高等学校。
この学校は女子のみを対象とした。
男子全部と女子の或る者は倉敷・金光・鴨方・笠岡・福山の各高校に入学する。

沿革
大正12年4月 寄島実科高等女学校認可(寄島西高小に併設)
昭和18年4月 岡山県寄島高等女学校に昇格、4年制となる。
昭和23年4月 学制改革により、岡山県寄島高等学校として新発足する。
昭和27年4月 寄島町・大島村・黒崎町組合立となる。
昭和28年4月 現在地に独立校舎を建築移転す。

昭和39年現在
職員 男10 女12 計22
生徒数 147
学級数 4


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行商人・金光町

2020年06月30日 | 市町村史
金光町に来ないが、茂平に来ていた行商人を思う浮かべると

鍬と鎌の行商人
”かまかいなー”の小父さん。「鎌を買いなー」と弁慶の七つ道具よろしく、全身に鍬と鎌を付けていた。
鞆から来ていると聞いてた。

屑鉄商人
道に落ちた釘などを集めて、小父さんがくると売っていた。手にした天秤ばかりで計量し、5円ほどもらっていたような気がする。



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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行


農山村の多くは、道も悪くて日用品を買うにも歩いて一日がかりの仕事になるところもあった。
この不便さを補ってくれたのが行商である。

魚売り、昆布売り、小間物売り、塩売り、油売り、金魚売りと季節に応じて行商が来ていた。

玉島や笠岡から来ていた小間物売りは七段の引き出し付きの箱を天秤で担ぎ、草履履きで「ご用はありませんか」
と各家を回っていた。

昆布、わかめ、あらめなどを籠に入れて、頭上に載せ女性が売りに来ていた。北木島方面から来ていた。

薬売りは、富山、総社から来ていた。
大風呂敷に包んで背負ってきていた。
年に1~2回得意先を回り、薬袋の交換、補充と集金をしていた。
子供への土産に紙風船をくれた。

塩売りは、
秋の漬物をするころ、黒崎の人が魚籠に塩を入れ、天秤棒で担いで売りに来ていた。
升で計って売っていた。

海苔売りは、
毎年春と秋、島根や鳥取から来ていた。若い女性が絣の着物に手甲、脚絆姿で風呂敷に海苔を包み背負ってやってきた。


行商の他、職人もたくさん回ってきた。
鋳掛屋、
桶屋、
羅宇屋、
石屋、
時計や洋傘の修理屋。


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行商人・大津野村野々浜

2020年06月30日 | 市町村史
行商人が来るのは楽しかった。
たいていが徒歩で、天秤棒か風呂敷を背負っていた。

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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行より転記



福山や尾道から大きな荷を背負ったおばさんらが汽車に乗り、大門駅で降りては村内を売りに歩く。
持ってくるのは干物やいりこ、鮮魚、野菜とかだ。
引野や用之江の方からは呉服屋や雑貨屋が来る。
行商人たちの荷の運び方は、自転車に積む者、籠に入れて背負う者、てんびん棒に下げる者など様々だった。

この頃は行商人から買う方が多く、町に買い物に行く機会は少なかった。
百姓の仕事が忙しい中で、汽車賃まで使って町に買い物に出るのはたいぎだが、行商人なら居ながらにして買える。

行商人は、一軒一軒たずねていた。
どこの家も良いお得意だし、その頃は家がまばらで大声をあげてもあまり意味がない。
ただアイスクリームだけは鉄の笛をピリピリ鳴らしながら、自転車に旗を立てて売りに来たし、横尾飴も横笛を吹きながら売りに来た。


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二宮金次郎も代用品

2019年09月05日 | 市町村史
講談社「昭和の全記録⑤昭和13-15年」より転記

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二宮金次郎も代用品
備前焼の「陶像」で代用




岡山県和気郡伊部町で、特産の備前焼を持ちいて二宮金次郎の「陶像」を製作。
銅像に比べ製作費用が安いため、代用品奨励の国策と合致し、「代用品の二宮さん」として全国の小学校の校庭に置かれることになった。
写真は、焼き上がった「陶像」を磨く伊部町の窯元。
『写真週報』昭和15年5月8日号掲載。

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