しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

旅芸人一座

2023年09月14日 | 失われた仕事

旅芸人は茂平にも来ていた。
番屋の隣の集会所(元小学校)に一座数人が泊まっていた。
公演の前の日は、チンドン屋風に村を歩いて”芝居”があることを知らせていた。

芝居は集会所と同じ敷地の”茂平ごらく場”で、
廻りをゴザかなんかで囲み、木戸番を置いていた。

芝居は髷物で、単純な筋だった。
非日常を感じさせれば、それでよい、と一座も観客も思っていたようだ。

公演は前日・公演・公演、の3日間だった。
旅の一座が茂平に来る時・帰る時を見たことはないが、
車ではない。
ということは、荷車を押したり、引いたり
つまり”伊豆の踊子”の一行と何ら変わらない旅姿だったのだろう。

・・・

 

「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

旅芸人

ドサ回りの一座、いわゆる大衆演劇。
全国を巡業して公演を行った。
昭和10年代~昭和28年頃までが大衆演劇の黄金時代で、
全国で700を越える劇団があった。
劇は剣劇が中心だった。

劇場、集会所、お寺、庭先が舞台だった。
斬られ役は、
一回斬られると着物を着替えて、また斬られる。
セリフは
「親分あんまりだ」
「アニキ、あたしゃ辛抱ができぬ」
の二つだけ。

 

・・・

 

「伊豆の踊子」 川端康成 

 

トンネルの出口から峠道が稲妻のように流れていた。
旅芸人の姿が見えた。
六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた。

 

(日活映画「伊豆の踊子」昭和38年)


男は大きい柳行李を背負っていた。
四十女は小犬を抱いていた。
上の娘が風呂敷包、
中の娘が柳行李、
踊子は太鼓とその枠を負うていた。

途中、ところどころ村の入口に立札があった。
----物乞い旅芸人村に入るべからず。

 

・・・

 

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渡し船

2023年09月14日 | 失われた仕事

明治の中期に鉄道が敷設されるまでの日本は、
人も物資も船便で移動が主だった。
大は北前船から、中は高瀬舟、小は渡し舟まで。
その後の変化は、
鉄道が普及したが、道路工事が進展せず、
昭和の初期までは、日本全国で「渡し船」が生活に利用された。

 

・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

渡し船の船頭

渡し船の船頭は地域の農民で、先祖代々務める者が多かった。
渡し船を対岸に到着させるのも難しく、独特の技術を要した。
川に近代的な橋が架けられるに及んで、渡し船の役割は減り、徐々に廃業していった。

 

・・・

「新修倉敷市史第八巻」 倉敷市 1996年発行

2013年10月2日 倉敷市「水江の渡し」 

 

高梁川の渡し

江戸時代の高梁川下流に橋は皆無であった。
10年に1回の割合で洪水が発生し、架橋もその維持も非常に困難であった。
現在目にするいろいろな橋は昭和も半ば過ぎてから架設されたものである。

東高梁川・・酒津・大内・水江・一本木・富井・福井・江長・大江・亀島渡し
西高梁川・・池の内・又串・嘉左衛門・弁財天・串の山渡し

渡し船は有料で、架橋により廃止された。

 

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渡船のこと

(2023.2.17 生江浜Fさんの話)

 

神島⇔片島

船は片島で待っていれば、手を振って、声をあげれば、漕いてきていた。
船は神島・片島のどちらかで待っていた。
一人でも乗る人がいれば対応していた。
(廃止する前くらい)手漕ぎからエンジンが付いた船になっていた。

 

 

 

生江浜⇔金崎


廃止になるまでぎっちらぎっちら手漕ぎだった。
生江浜から金崎に行く客でバスに乗る人がいれば、船頭さんに知らせる。
船からバスが見えるので、船頭さんは旗を振ると、バスは船が着くまで待ってくれていた。

 

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