しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

肥買船(肥船・糞船)

2023年09月20日 | 失われた仕事

近年まで、
農家の食べ物は、
麦や雑穀や芋を主食とし、おかずはコーコに梅干し、味噌汁、干魚。

ところが町に住む人は、
お米や魚や肉や野菜や果物を食べていた。

食生活の違い(というか差は)あまりに大きく、食べる物が違えば、人糞も違うと、
農家の人は信じ町の人たちの人糞を買い求めた。
特に花街の人糞は相場がよかったようだ。


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(父の話)

人糞と牛糞の違い・町の人糞と田舎の人糞の違い


(人糞と牛糞はどちらが良かったのか?)
そりゃあ、人糞じゃ。
食いもんが違う。
窒素が違う。
人間はええものを食べる。ええものを食べりゃあ、それだけ成分がようなる。

人糞も。田舎よりは町の人のほうがええもんを食べるんで、町のひとのほうがええ肥になりょうた。
(田舎の)梅干ばぁ食びょうるんじゃあ、ええうんこがでん。町の美味しいものを食びょうる人のほうがよぅ効く。

談・2002年10月14日

 

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「瀬戸内文化誌」  宮本常一 八坂書房  2018年発行


肥買い船


阿波の藍は関東の干魚をその肥料にしていた。
讃岐では古くから大阪の下肥を買う風があった。
明治大正になって、この風は著しく助長されたようである。
というのは昭和10年頃、
大阪市の港区に在住する香川県人のみで、18万人にのぼっていたという事実からも察せられるのである
肥船もこれらの人たちを慕ってきたようで、
讃岐の人は大阪で飲食しても、その糞便で故郷の土をこやしていたのである。

 

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(父の話)

肥えを積んだ船が茂平に来ていた。
神戸から来とった。
船の真中辺に肥えを積んどった。

それを金を出して買おとった。
浜に入った船に荷車にニ荷積んでしんがいの畑の野つぼに移し、せえから、また船に行って買おて今度は他の畑にうつす。
そわあなのは戦中から戦後まで3~4年続いたじゃろうか。

(人糞肥料はどんな野菜や果物に適していたのか?)
何にでも効きょうた。

談・2001年4月22日

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「野々浜むかし語り」  福山市野々浜公民館  1991年発行

肥船

昔は肥料屋が船に肥を積んで売りに来た。
肥船はタンカーのような構造の船だ。
神戸の方からも来ていたから「神戸肥」とも言っていた。

この船が野々浜の港に入り、肥を一荷(いっか)幾らで百姓をしている者に売る。
この時は浜の方の家の者は、臭くてかなわなかった。

「野々浜むかし語り」  福山市野々浜公民館  1991年発行

 

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追記・「灰船」もあったようだ。

「瀬戸内文化誌」  宮本常一 八坂書房  2018年発行


灰船

町において、その家々の炊きだされる灰の量は夥しいもので、
煙草や綿の耕作地帯ではその灰を珍重していた。
塩田の塩炊き小屋、
瀬戸内海の沿岸には瓦を焼く所の灰。

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コメント
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